國村隼インタビュー 『哭声/コクソン』の過酷な現場でも意識した「お客さん」の存在
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國村隼 撮影=岩間辰徳
2016年カンヌ国際映画祭で上映され、本国韓国で700万人に迫る動員を記録した映画『哭声/コクソン』が3月11日より公開される。平和な田舎の村・コクソンで村人が自身の家族を残酷に殺害し、湿疹で全身が爛れ意識がもうろうとした状態で発見される事件が多発。同じ時期、素性のわからない「よそ者」と呼ばれる男が噂となったことから、事件を担当する警官・ジョングは彼の正体に迫ろうとする。
メガホンをとったのは、長編デビュー作『チェイサー』が韓国で500万人以上を動員し、次作『哀しき獣』が第64回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品されたナ・ホンジン監督。彼は、同作の肝となるよそ者の役を日本人の俳優・國村隼にオファーした。殺人事件の黒幕か?それとも村を救う救世主か? よそ者は、時にはふんどし姿で鹿を食らったかと思えば、穏やかな表情で村人と接し、変幻自在の姿で観客を惑わす。この演技で、國村は韓国の最も権威ある映画賞・青龍映画賞で男優助演賞と一般投票で選ばれる人気スター賞の2部門に輝いている。初の韓国映画で外国人初となる異例の評価を勝ち取った國村は、何を思い異形の"よそ者”を演じたのか。国内外で評価されるナ・ホンジン監督の才能や、韓国映画の現場、そして自身の演技のルーツまで、じっくりと語ってもらった。
「ワガママ小僧」の韓国一タフで過酷な撮影現場
國村隼 撮影=岩間辰徳
――日本で脚本を読んで『哭声/コクソン』への出演を決められたそうですね。物理的にも過酷なシーンが多い作品ですが、脚本を読みこむ以外に何か準備はされましたか?
撮影のために鍛えたりということよりも、むしろ何があっても、という覚悟を決めていくだけのことでした。どんな場合においてもそうなんですが、結局演ずる為のヒントみたいなものは、脚本という設計図の中にしかないので。自分の中に迷いが生じたときに戻る場所も脚本なので、納得がいくまで読みます。
――主演のクァク・ドウォンさんとの山小屋で対決するシーンでは、言葉がわからず不自由することはなかったですか?
特にそういうことはなかったですね。僕は韓国語はわからない、役の上でも「わからない」ということでずっと居ましたから。ときどき、全部をトランスレート(翻訳)するんじゃなくて、ポイントポイントでイサム(編注:キム・ドユン演じる神父見習い)がぽつぽつと日本語を話す。日本語は理解できるので、それに反応していれば、あのシーンでのあの男は成立すると考えました。むしろ、ナ・ホンジンからは「お客さんから見たときに、この男はカリスマに見えたほうがいい。カリスマでいてくれ」と、そんな注文が出ていたので、そのイメージだけを持っていました。言葉的なことは、「韓国語に反応しないのは普通のことなので、それでいいだろう」と思っていました。
(C)2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION
――クァク・ドウォンさん、ファン・ジョンミンさん、チョン・ウヒさんたち韓国の俳優さんには、日本の俳優さんとの共通点があったそうですね。
クァクさんも、ファンさんも、ウヒさんも、みなさん(國村と同じ)舞台の出身者なんです。スキルとして、ライブのお芝居で経験を積んでいらっしゃる。そうすると、脚本を読むときに色んな違いが出てくるんです。活字媒体である脚本からどういう風に世界観を捉えていくかというアプローチや方法論とか、色んなものが舞台の素養の中に含まれています。お三方とも『哭声/コクソン』の話をしても、すごく自分のキャラクターであるジョング(クァク・ドウォン演じる警察官)、イルグァン(ファン・ジョンミン演じる祈祷師)、ムミョン(チョン・ウヒ演じる目撃者)を通して、それぞれの世界観を自分の中で消化してらっしゃった。そういう意味で、「アナログだね」という面白い話が出来ました。
――逆に、日本と違うところはありましたか?
これは俳優さんに限ったことではないんですけど、韓国の現場では監督が絶対権力者なんです。日本の場合は組によって色いろとバランスが違ったりするんですけど。例えば、(日本では)監督が若くて、キャメラマンのほうが年配で実績がある場合もあります。
國村隼 撮影=岩間辰徳
――日本ではセカンド(助監督)が現場を仕切っている場合もありますね。
そういうことが(韓国では)一切ない。特にナ・ホンジンの場合はそれがキツイみたいで、絶対の絶対権力者なんです(笑)。
――ナ・ホンジン監督は43歳で若手といっていいと思いますが……現場はそんなにキツイんですか。
一番タフな現場だそうです。韓国では音に聞こえていることらしいんですが、ナ・ホンジンの映画には、みなさん「大丈夫かなあ……」と心配しながら出るそうです(笑)。クァクさんは、「『哭声/コクソン』の主役に」と言われたときに、先輩の役者さんたちに「実は、ナ・ホンジンから『次回作の主役に』と言われているんですけど、やったほうがいいでしょうか?ぼくは不安で不安でしょうがないんです」と電話をかけたそうです。でも、「それはやっぱり、やったほうがいいんじゃないの?」と勧められて、怖くてしょうがなかったけどやることにした、というお話は聞きました。
――物理的に辛くても出演する価値がある現場だ、と。ナ・ホンジン監督自身も現場ですごく怖い方だと聞きしましたが、本当ですか?
そうですね。普段の彼は細やかな、気遣いのある青年です。それこそ監督する人間ですから、人がどういう状態にあるかとか、人の感情をきっちり感じ取る力がすごくあって、それに対するケアもすごくする。でも、現場に入ったらそういうものは一切かなぐり捨てるんです。あれはたぶん意図的にそうしてるんだと思いますね。「そんなことをしていたら、自分の創作ができない」ということをわかっているんでしょう。だから、あんなワガママ小僧になっているのかもしれない(笑)。
―― ワガママ小僧(笑)。
それでなくても韓国の現場ではそれが普通なので。ほかの監督もそうでしょうけど、監督が一番パワーを持っていて、何につけても「監督、どうしますか?」と訊く。監督が「じゃあ、こうする」と言うと、「わかりました!」とみんなが動く。監督が絶対なので。そこに、(『哭声/コクソン』の場合は)ワガママ小僧が入るんで(笑)。ちょっとでも自分の思い通りにならなかったら、ジタバタジタバタします。それが、人を罵倒するようなかたちで出てくる(笑)
――國村さんも罵倒されたんですか?
いや、そこは儒教の強い国ですね……一応、私は年上ですので(笑)。役者に対してはそこまでダイレクトに言わなかったです。そのぶん、スタッフに対してはあたりがキツくなっているかもしれないですが。
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――本作はエンタテインメントであると同時に、社会批評的な部分も強い作品だと思います。最後には「人間が祈ることには意味がないんじゃないか?」と考えてしまうような感覚に陥りました。
ナ・ホンジンの人の悪さが出ていますよね(笑)。彼はクリスチャンなんだそうです。だから、最初はルカ伝(新約聖書)の一説から引用している。彼が言っていたのは、旧約聖書と新約聖書についてです。旧約聖書の世界というのは、つまりユダヤ時代のエルサレム。そこにイエス=キリストがやってくるのが、旧約聖書と新約聖書の関係性ですね。エルサレムの住人たちをコクソンの村人で置き換えて、山の中の男(國村演じるよそ者)をイエスという風にイメージしてもらうと、冒頭のルカ伝から僕の最後のシーンに帰結していきます。
――キリスト教を知っていれば、より深く理解できますね。
モチーフとしての旧約聖書と新約聖書の関係性から、コクソンの山の住人と“異物としての異邦人”の関係性が見えてくる。まさにそういうことで始まるんですが、お話はどんどんあらぬ方向へ行きます。モチーフはあるんですけど、そこからの世界の広がり方は、「人が人の世を生きていくうえで、確かだと思っていることをいっぺん疑ってみる」「いったん疑いだすと混沌しかなくなるぞ」という方向へいくんですね。これが、『哭声/コクソン』の一番のメッセージです。何が本当かわからないし、どこへ行くのかもわからなくなるし、今見えているここにあるものも、実は無いかもしれない。そこにゾッとしながらも、気が付けばナ・ホンジンがしつらえた迷いの迷路や、迷いのジェットコースターに乗って、戸惑うことを楽しんでしまっている状況がある。それが映画としての『哭声/コクソン』のエンタテインメントかもしれません。
――國村さんが演じるよそ者は、場面によって村に災いをもたらす悪人に見えたり、逆に救おうとしている善人にも見えます。明らかに不気味というわけでもなく、ものすごく静的というわけでもない、そのまま”居る”お芝居に驚きました。どうやってあの“山の中の男”というのを成立させたんでしょうか。
あれは、脚本を読んだ時にそこにあったあの男のイメージなんです。というのも、あの男は別に人ですらないわけなので。まず、人間としてイメージすることをやめて、「存在」というものすごく抽象的な言葉に置き換えて、「どういう存在であればいいのかな?」と考える。それは、すごくニュートラルな状態で存在していて、シチュエーションが変わっていくことによって、周りを取り巻く劇中の人たち、もっと言えば客席から観てらっしゃるお客さんの観方で、どんどんと勝手に(変化していく)。脚本には、お客さんが戸惑うような流れがちゃんと書いてあるんですよ。だから、僕は脚本通りに演じる。一人のキャラクターをイメージすると言うよりは、その場で“存在”として居る。実在しているかどうかもあやしいし、存在があるかどうかわからないものを具体として提示することはやめようと思いました。現場でナ・ホンジンには「ここまでは、お客さんは『絶対にこの男はあやしい。この男は何らかのこの一連の事件に関与しているはずだ』という風に疑っています。また、私はそういう風に仕向けようと思っています」「ここからは、お客さんに『あれ?この男、絶対に悪いヤツやと思っていたのに、ひょっとしたら違うかもしれんぞ。逆に被害者の側、あるいは助けようとしているほうかもしれない』と思わせたいのです。だから、そうしてくれ」と言われました。
劇中で様々な顔を見せる國村隼 (C)2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION
――“よそ者”というキャラクターに一貫性を持たせる必要はない、と。
そうです。むしろ一番大事なことは、その時に私が表現した男を観て、お客さんがどう感じるかを意識してそこに居ること。たぶん、ナ・ホンジンの注文はそこなんですけど。「(お客さんが)確信していたものが崩れて、ひょっとしたら真逆のことをこの男に対してイメージしはじめる」ということイメージしながら、そのシークエンスでその男をちゃんと表現すればいい。そういうディレクションを彼はちゃんとしてくれるんです。それも相まって、ニュートラルな状態=存在ということしかイメージしませんでした。ただ、効果・役割としては、ここから先はお客さんに「いい人」と感じてもらう。それはいい人を演じるということではなくて、お客さんがそれを勝手に感じることだから。僕が何かをするんじゃなくて、お客さんがここから先はそういう風に僕を観てくれる、ということをわかりながら、書かれている脚本のシーンどおりにそこに居ればいい。
「お客さんを意識する」國村隼の演技とナ・ホンジンの演出
國村隼 撮影=岩間辰徳
――國村さんにとっては、基本的に演技はいつもニュートラルなものなんでしょうか?
『哭声/コクソン』で僕が演じた“山の中の男”というのは極端でわかりやすいカタチではありますが、普通の映像、いわゆる映画で僕らがやっていることも、根っこの部分では一緒です。「〇〇をして見せる」ということではなくて、映像における僕らの仕事は、極端に言うと「依り代の被写体」なんです。容れものがあるとして、そこに役という中身を依り代として放り込んで、被写体としてフレームの中に存在する。それで完結するんです。「ここでこんなことをしてやる」というのは、“僕の意図”なんです。國村という人間の意図が映っちゃったら小賢しいだけで、俗に言う「臭い」と言われるものにしかならない。だから、意図は持っていなきゃいけなんですけど、持っている意図が絶対に見えない形でそこに居る。それがたぶん、表現ということだとだと思います。そのキャラクターをそこに存在させるために、それなりの意図・イメージを持ってそこに居る必要はあるんですけど、それが「この人はこういう意図を持っていて、伝えたいんやな」とわかっちゃったら、それは大失敗なので。
――意図があっても、それをみせてはいけない、と。國村さんは「お客さん」という言葉をよく使われますが、いつも観客を意識されているんでしょうか。
そうですね。特に映像をやっていると、具体的な作業としてはお客さんのいないところで仕事が終わる。あとは、出来上がった作品がお客さんの前に提供されるという関係性なんですよね。だからこそ、現場では出来上がったものを観て下さるであろうお客さんが、どう感じるかを常に想定しながら作業をしています。舞台はまさにそうなんですが、最初に何かきっかけを投げかけるのは、当然舞台の板の上から、こちらからやらなきゃいけないんですけど、一旦キャッチボールが始まっちゃうと、その一回のお芝居が幕を開けて閉めるまでを一緒に作ってくれるのはお客さんなんです。こっちが投げたものを受け取ってもらって、返してもらうリアクション、一番わかりやすいのが笑いであったりするんですが、そういうもので返して下さると、これだけの”間”があるでしょう?ライブの場合はその間を感じながら、繰り返して作っていく。だから、1ヶ月間同じことを繰り返しやっているように見えますけど、実はお客さんが変わるので一回一回まったく違う空気感が出来上がるわけです。ということで、お客さんがそうやってものを一緒に作って下さるという感覚は長い間持っています。これは、映像に置き換えたところで変わらない。
國村隼 撮影=岩間辰徳
――映像の場合は完成して観てもらうまで反応がわからないので、怖くなりそうですが。
もっと怖いのは、僕ら役者・被写体が参加するのが、素材の部分だけということです。1カットは、1本の作品を作り上げるためのパーツなんです。その後に色んな作業が入ってくるわけですが、ここはそれこそ作り上げるクリエイター次第。その人がどういう意識を持ってお客さんの前に出す作品を編み上げるか、というのは、僕たち(役者)にとってはノータッチ、アンタッチャブルなので。だからこそ、そのテイク、素材の中ではイメージすることを意識する。ナ・ホンジンの演出が素晴らしいと思うのは、お客さんがどこでどう感じるかというのを細やかに考えながら作っているところですね。
――何をしたいのかが非常に明快な監督なんですね。
明快ですね、彼は。明快なだけじゃなく、「才能豊かというのはこういうことか」という、天賦の才のようなものをもっています。今はデジタルなので、現場で撮ったテープを粗く繋いだものをモニターで見ることができる。(ナ・ホンジンは)次のテイクのことも考えながら、繋いだ撮っている最中のテイクについて「こういう流れでこう繋いでいったら?」と考えだす。そこに対してどんどん新しいイメージが出来るらしいんです。と言うことは、「このバリエーションでもう一回撮ってみたい」という風になるわけで。ひとつのテイクを撮りだしたら、現場が終わらない。これが困ったことになる(笑)。
――それはすごい才能ですね。
才能ある監督とやると、こちらの体力がなくなっていく(笑)。だからナ・ホンジンが恐れられているんだと思います(笑)。肉体的にはこれ以上ないくらいに、こちらが「もう、この1テイクでやめてね」と言わないと、いくらでもやる人ですから。どんどん出てくるんですよ、撮りたいイメージが。だから困った。僕、何回言いましたかね……「もう、あかん!体力的に無理」って、こっちでストップかけないと。「人間やから!機械やないねんから、こっちも」って(笑)。
國村隼 撮影=岩間辰徳
――鹿にかぶりつくシーンは特に大変そうでしたね。
あれは、鹿自体はフェイクなんです。さすがに本物は使えないので。ただ、僕が食らいついて引きちぎっているところには、本物の生肉が仕込んであるんです。僕は生肉を食べるのが大好きなんですが……その僕が吐きそうになるくらいテイクを重ねますから。「俺、生肉大好きやけど、その俺がもう気持ち悪いから!このテイク、次で終わって」って言いましたから(笑)。
――國村さんはナ・ホンジン監督の『チェイサー』や『哀しき獣』も大好きだそうですが、以前から韓国映画に興味がおありだったんですか?
そうですね。ナ・ホンジンが、というよりも、その前のずっと前の『シュリ』とか、アン・ソンギさん主演、ぺ・チャンホ監督の『神さまこんにちは』とか、ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』も大好きだったので。「韓国映画ってすごくパワフルだな」「なんでこんなに役者さんにすごく存在感があるのか?」と思っていました。良い役者さんもいっぱいいて、気になってしょうがなかったんです。そんな中で『哭声/コクソン』のオファーを下さった。それまで、ナ・ホンジンという名前は知らなかったんですけど、『チェイサー』『哀しき獣』を見せていただいて、『哭声/コクソン』の脚本を読んだら、「この世界観は見たことないようなものが出来る。是非やりたい」と思いました。
――本国韓国で大ヒットしましたが、その手ごたえはありますか?
あります……と言うより、(手ごたえが)異常ですね、『哭声/コクソン』に関しては。「果たしてどれくらいのお客さんが、この世界観を楽しんでくれるんやろう」とある意味不安を持っていたくらいなんですけど、700万人近い人が観てくれたので、「ええっ!?」って(笑)。うれしい驚きというか、言い方を変えれば「韓国すごいな!」と思いました。韓国のお客さんがすごい、といったほうがいいのかもしれません。この『哭声/コクソン』の楽しみ方をわかるお客さんがこんなにたくさんいる。ましてや、あのキャラクターを演じた僕を「すごい良かったよ!」と褒めてくれはる。
――現地の生の反響ですね。
実際、韓国で道を歩いていると、写真を撮ってくださることもありました。ある時なんか、ショッピングモールで10メートルも歩けなかったんです。最初にベビーカーを押したママさん3人が、僕を見つけて「わあ!悪魔!ファンです!写真撮って!」と。「怖かった!」と言いながらもニコニコしていたので、「怖かったんちゃうんかい!」と思いましたけど(笑)。ベビーカーを何台も並べてニコニコしながら「写真撮って」って、なんか不思議やなあ、と思いました。
――それだけ映画として楽しかったということなんでしょうね。
でしょうね。だから、日本のお客さんもそうやって楽しんでほしいな、という思いが強いです。
――日本では『シュリ』や『JSA』が盛り上がっていた頃に比べて興行規模が小さくなっている現状もあります。そんな中でも『哭声/コクソン』は國村さんが出ていらっしゃるので、韓国映画に馴染みのない方にも観ていただける可能性があるのではないでしょうか。日本人が韓国映画に出演して、賞をもらって、しかも映画が大ヒットするなんてことはなかったですから。
ありがとうございます。ある意味プレッシャーにも感じていますが、ひとりでも多くのお客さんが劇場に足を運んでくださって、ロングランできるようになれば嬉しいですね。そうなれば、この『哭声/コクソン』もやった甲斐があります。実は、この仕事をしていて初めてもらった(映画の)賞なんです。それが、初めて出た韓国映画でもらえるなんて夢にも思っていなかったので、びっくりすると同時に嬉しかったです。
青龍映画賞 授賞式での國村隼
――韓国だけではなくて、2年ほど香港で活動されて、『ハード・ボイルド 新・男たちの挽歌』などに出演されていた時期もありますね。その後も、『キル・ビル Vol.1』など海外作品に多数出演されている印象があります。
香港に行ったのはリドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』に出演した後です。『ブラック・レイン』は、本当の意味での2作目の映画で、初めて出演したのは『ガキ帝国』です。それから10年くらい経ってから『ブラック・レイン』があって、その後に香港に行って5、6本やって、最後に出たのがジョン・ウー監督の『ハード・ボイルド 新・男たちの挽歌』でした。それが、結果的にジョン・ウー監督の香港での最後の映画になったわけですが。そんなことをやっているうちに、日本で映画をやりだして。映画の色んなスキルや経験を先に教えてもらったのは、リドリー・スコットであったり、ジョン・ウーだったりですね。井筒(和幸)さんと『ガキ帝国』をやったときは、まだ戸惑いしかなかったですから。映画のことは、1本やってもさっぱりわからんかったですから(笑)。
――監督の演出意図は言語が違っていても共有できるし、作品にもボーダーはないということでしょうか。
そうですね。だから、最初から僕はそこに対する違和感はなかったです。韓国でナ・ホンジンとやっても全然違和感はなかったですし、『哭声/コクソン』と前後してベルギー/フランスの『KOKORO』という作品にも参加していますが、何の違和感もなかったです。あらかじめの共通項として脚本というものがありますから、映画の現場というのはやることは万国共通です。道具立ても一緒やし、キャメラがあって、照明があって、作り手がいて、ロケーションがあります。そこでキャメラのフレームの中でやることは一緒。映画というメディアはもともとそういうものだと思います。それに、出来上がった作品は一人歩きしていきますから。
――『哭声/コクソン』でそれを改めて確信できた、と。
そうですね。でも、『哭声/コクソン』という作品は自分の中でも、ある意味スペシャルなんです。というのも、まず映画として今までにないものですし、今までに経験したことのない現場、作品に携わって、それを観ていただけるまでになったということに特別な思い入れがあります。還暦を越えて肉体的にもひと回りしてから、過去を振り返って一番キツイ現場をやったのも初めてです。「やめてくれ」なんて、日本の現場で一回も言ったことなかったですからね(笑)。ほかの韓国の監督さんがおっしゃっていました。「『哭声/コクソン』の現場を韓国のスタンダードだと思わないでくれ。ナ・ホンジンの現場が大変なだけだから!」と(笑)。
國村隼 撮影=岩間辰徳
インタビュー・文=藤本洋輔 撮影=岩間辰徳
映画『哭声/コクソン』
(C)2016 TWENTIETH CENTURY FOX FILM CORPORATION
(2016年/韓国/シネマスコープ/DCP5.1ch/156分)
監督:ナ・ホンジン
出演:クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村隼、チョン・ウヒ
<ストーリー>
平和な田舎の村に、得体の知れないよそ者がやってくる。彼がいつ、そしてなぜこの村に来たのかを誰も知らない。この男についての謎めいた噂が広がるにつれて、村人が自身の家族を残虐に殺す事件が多発していく。そして必ず殺人を犯した村人は、濁った眼に湿疹で爛れた肌をして、言葉を発することもできない状態で現場にいるのだ。事件を担当する村の警官ジョングは、ある日自分の娘に、殺人犯たちと同じ湿疹があることに気付く。ジョングが娘を救うためによそ者を追い詰めていくが、そのことで村は混乱の渦となっていき、誰も想像てきない結末へと走り出す。
公式サイト:http://kokuson.com/
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