音楽家・蓮沼執太インタビュー 音と気配のコンポジション
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俳優の森山未來が主演する舞台『JUDAS, CHRIST WITH SOY ユダ、キリスト ウィズ ソイ~太宰治「駈込み訴え」より~』が、2017年1月4日より神奈川・横浜赤レンガ倉庫 1号館3Fホールにて再演が決定した。ガールズ・アートークでは舞台音楽を担当する音楽家の蓮沼執太にインタビューを実施。ダンス音楽から映画音楽、ライブ活動といったさまざまな音楽活動だけでなく、美術館で個展も開催する蓮沼氏。あらゆる空間を行き来できる稀有な音楽家の、中々聞けない作曲方法やその素顔に迫ります。
――森山未來さん主演舞台『JUDAS, CHRIST WITH SOY ユダ、キリスト ウィズ ソイ~太宰治「駈込み訴え」より~』は今回の公演で3回目となります。蓮沼さんは、1年前の2回目公演から引き続き舞台音楽を担当されていますが、再演にあたって、蓮沼さんの中でなにか変化はありますか? 音楽を担当されることになった経緯も合わせて教えてください。
第1回目の公演に関しては、未來(俳優・ダンサー 森山未來氏)とエラ(振付家・ダンサー エラ・ホチルド氏)と音楽を担当された音楽家の吉井盛悟さんが、会場で舞台を作っていった過程があるんですよ。
photo:bozzo
当時、僕はその舞台の存在を知りませんでした。その公演が終わって、横浜での再演が決まったときに未來から再演の音楽をやってもらいたい、というお誘いをいただきました。でも、3人で作り上げた作品に、新たに僕の要素が簡単に入ってしまっていいのかな、という不安もあって。吉井さんとは僕とは当然違う音楽性を持っているので、どのような視点で再演と関わり、オリジナリティを作っていくか、を考えて探っていくことが刺激的でした。初演を僕なりに解体、分析して音楽的に再構築出来たら面白いものになるなっていう思いもありましたね。
photo:bozzo
あと、これまでにもダンスのための音楽をやらせていただいていますが、今回の公演は未來とエラの2人の関係性がとても面白く、美しいものでした。ただ身体の動きの変化に音をつける、合わせるのではなく、2人に少しでも僕が寄り添ったり離れたり。逆に全く関係ないアプローチを音楽で出来たらいいのかなって考えました。あとは単純に今自分の関心がある音楽的要素を取り入れて、この作品の新しい要素としてチャレンジしてみたい、とも思っていました。
――今回の舞台自体に具体的なストーリー展開があるわけではなく、未來さんとエラさんの関係性から生じる歪みというか、ディスコミュニケーションがそのまま表現されていますね。音楽では具体的にどう表現されましたか?
まずは未來がイスラエル滞在時に作った作品から、日本とイスラエル間の言語や文化、社会の異なる背景や身体表現の壁というパーソナルな部分を感じ取ることが出来ました。ただ、方法論だけを切り取り音楽にそのまま応用していくわけにはいかないと感じていて。自分なりの方法を見つけなければと思ったんです。例えば、今回の演目は太宰治が作品アイデアの根底だからといって、太宰っぽい印象を感じさせるような音楽的演出は行いませんでした。どちらかというと、僕は音楽で舞台に色彩をつけていく作業に徹しましたね。
photo:bozzo
初演は『内子座』という伝統的な建物で上演されました。歴史的雰囲気が強く、踏み入るだけで舞台がすでにスタートしているように感じさせる不思議な環境でした。“特別な場所で特別な舞台を観る”という非日常的な空間だったんですね。僕的にはその空間の表象それ自体が“色”だと思います。
一方、前回(2回目)の会場であるHONMOKU AREA2は、桜木町からバスで一時間くらいの場所にある元映画館でした。いわゆるバブル崩壊後に次々とシネコンが無くなっていった流れの、廃墟のような空間です。とてもユニークな会場ではあったのですが、色を感じませんでした。“ゴースト映画館”、といえば伝わるでしょうか。それはそれでサイトスペシフィックなものとしては面白いのだけど、場所が持っているネガティブな要素をすごく強く感じてしまったことと、同時に人工的要素も強烈だったので、「どうにかして僕自身の個性が強く感じられるような演出的な色をつけられないか」という思いが、音楽を作る上での土台になりました。
photo:bozzo
――“音で色をつける”とはどういう作業なのでしょうか。
まずは皆さんも聞き馴染みのある“音色”という言葉がありますよね。音のパレットそのもので、ありふれた物言いですが、様々な音色で舞台上の物語に色をつけていきます。具象と抽象を行き来するようなアプローチでした。響きの距離感で音をつくっていく、色をつくっていく、という感じです。
――テクスチャーのようなイメージですか?
そうですね。テクスチャーもそうだし、より構造的に音を並べてどう聴かせられるか、というのもひとつの要素になります。
――建築物みたいですね。
はい。空間的に音楽や音を配置する感覚というのは、僕自身の展示やコンサートなどで追及している要素でもあるのですが、今回はさらに生演奏を意識しました。本番では、録音された音楽が大半を占めているという印象があると思うのですが、実際はたくさん演奏しているんですね。色んな音が流れてくるのですが、全部一人で必死に頑張っています。
――舞台の音楽はライブなのですか?
そうです。生演奏です。前回の公演では稽古中から即興演奏を録音して、それらをベースに本番に向けて作曲していきました。その音楽に合わせて即興からコンポジションされたフレーズなども生演奏して。今回に関しては、より”生っぽさ”にこだわり、その場で音を出力して気配を作り出しているアプローチを感じて欲しいです。
――ある程度土台をつくって、半分はアドリブで演奏する形なのでしょうか。
ある程度構成が決まっているところから、その場のニュアンスで自由に音を出せるような余地もある感じです。僕は身体表現の面白いところの一つに、人間的な時間のズレや、シンクロ出来ない感覚があると思っています。人間の体は機械では無いので、機械のように一致していくのとは違う意識をイメージして音楽も作っています。
舞台という場所は基本的に同じことは二度と起きない場所です。例えば、あるシーンの音楽でも、いくら時間を設定したとしてもその時の環境や状態でズレていきます。「わあ、今日はちょっと遅めだな……」みたいな。そのような現場で起きている偶発的な要素は自然に取り入れていき、矯正させないようにしていきたいです。その時に生まれる時空間のブレがとても大切だと思っています。
――蓮沼さんの過去のインタビューの中に「振付によって音や音楽を自然発生させる」という話がありました。今回もそういう感覚はありますか?
当然あります。未來もエラもとてもクレバーな考えを持った2人です。自分の身体が動くからダンスになる、ということだけでなく、あらゆる環境を把握して演出をしていくので「音楽はこうやって聴こえる」「ここで気配が立ち上がる」ということを彼らは常に意識し、感性を研ぎ澄ましています。目に見えない気配でのような音を彼らもよくわかっていて、身体の動きとシンクロしていきます。また、彼らはオーディエンス側に答えを委ねるような窓口が広い演出もあります。そのような想像性は僕も大きく共感しますね。フィクションの入口を作ってあげるような。
練習風景を見学させてもらいました。(左:エラ・ホチルド氏 右:森山未來氏)
――ヒントをあげる、みたいな?
はい。抽象的な音が舞台を通り過ぎた時に、それが何かのメタファーだったり、何かの始まりだったりするような。音楽というよりも効果音みたいな役割ですが、音をゼロから作り始めることは、身体が奏でる音と似ている気がします。
――色んなジャンルの活動をされていますが、ご自身における軸は何だと思いますか?
よく聞かれる質問なんですが、僕は一貫して音や音楽しか作ってません。アートやアート風な音楽を作ってる意識ではなく、自身としては極めてシンプルです。体はひとつなので同時にいくつもの制作も出来ませんしね。今はこの公演に集中しています。
――そもそもですが、どうして音を作るのでしょうか?
すごく根源的な質問ですね。それは、自分の人生にとって勉強になることがとても多いからですね。それは、音楽をつくっていなかったら経験出来なかったことですし。そういう学びの要素が大きいです。あとはやはり世界に脈々と続く膨大な歴史や文脈を繙きながらも、聴いたことのない音の色や響きを自分で作りたいし、聴いてみたいんだと思います。
――なるほど。「音楽を聴くのが好き!」が何よりの原動力ですね。
そうですね。制作していても全てが成功するわけじゃないですよね。失敗をして悔しがることもよくあります。そういう体系的なトライ&エラーを重ねてやっていってます。
――これから取り組むプロジェクトなどがあれば教えてください。
タブラ奏者のU-zhaan(ユザーン)と作ったアルバムが2月22日に発売予定です。文化庁の「東アジア文化交流使」にも選出していただき、中国の北京での展示(2017年1月14~2月19日)とパフォーマンスの予定があります。どちらも初めての試みなので楽しみです。
――公演後にすぐ発たれるのですね。お忙しい中、貴重なお話を聞かせていただきありがとうございました。最後に、蓮沼さんから読者に向けてメッセージをお願いします。
取材前に「初心者の目線に立って、お話を伺います」って言ってらしたじゃないですか。作品理解を深めるために歴史や文脈を理解した上で芸術に触れることは大切なことですが、それだけが芸術との接点ではないと思っています。物事を見たり聞いたりする時に、固定概念や理論を持って作品を鑑賞した場合、あまりにフォーカスしすぎてしまって、作品意図や思想を見落としてしまうかもしれません。固定された見方しか出来なくなってしまいますから、初心者的な視点というものは軽視出来ないですよね。
例えば、作り手が亡くなっているアート作品は、作者と作品の繋がりが現代を生きている僕たちからは当然一旦切れています。ただ、僕たちは今を生きています。その時代背景や環境の違い、グローバル以降の複層的な文脈など、芸術や社会を考える上でも様々な要素が必要です。現代を生きている作り手からすると、固定概念を持たずに作品に触れると圧倒的に情報量が多く、感じ取ったものは何かしら人生にフィードバックされる場面が必ずあると思います。だから、むしろ“初心者”というその視点や感覚を持続でお願いしたいです。
文=多田愛美 写真=吉澤威一郎
取材=多田愛美・新井まる
1983年、東京都生まれ。音楽作品のリリース、蓮沼執太フィルを組織して国内外でのコンサート公演をはじめ、映画、演劇、ダンス、音楽プロデュースなどでの制作多数。近年では、作曲という手法を様々なメディアに応用し、映像、サウンド、立体、インスタレーションを発表し、個展形式での展覧会やプロジェクトを活発に行っている。
http://www.shutahasunuma.com