服部百音 ヴァイオリン・リサイタルへの期待
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服部百音 © Chihoko Ishii
この演奏家が演奏したら、この指揮者がタクトを振ったらどんな演奏になるのだろう。コンサートに行きたいと思うモチベーションのひとつはそういう興味だが、現在、個人的にその期待度のもっとも高い人の一人が服部百音だ。
出会いはデビューCDの『ワックスマン:カルメン・ファンタジー | ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番』だった。これを聴いて、特にその濃密で内省的なドラマのようなショスタコーヴィチに感銘を受けた。正直、こういう世界を持っている曲なのかと思った。そのうち、ピアノとのデュオの生演奏に接する機会があり、その演奏家としてのストイックと言っていいようなスタイルに驚かされた。
さらに9月3日の「スーパーソロイスツ《第2回 服部百音》」での、パガニーニの1番とシベリウスのヴァイオリンコンチェルトを聴くに及んで、表現力の高さ、立ち上がってくる世界の深さについて、ちょっとやそっとでは現れないレベルのヴァイオリニストという確信に変わった。この人の中には何か得体の知れない美が息づいている。
服部百音 ©︎Chihoko Ishii
世の中にはさまざまなタイプのヴァイオリニストがいて、往年のヴィルトゥオーソの録音から若い世代の生演奏までさまざまな解釈やプレイを聴くことができる。一般的にヴァイオリニストに使われる言葉としては、艶やかな音を持っているとか、理知的な解釈とか、天馬空を駆けるようだとか、情熱的だとか、そんな表現だと思う。それ以前に、音程がいいとか、右手(ボウイング)がうまいといった言い方もあるだろう。もちろん服部百音は現代のトップレベルの演奏家がそうであるように右手も左手のテクニックも相当なレベルに到達している。
たとえばパガニーニの1番のヴァイオリンコンチェルトでのダブルフラジオレットの部分。率直に言って音を出すだけでも大変だし、その前後の通常の発音の部分と音量的にも差が付くのが普通だ。しかしこの人の場合、まず何の苦労もなくきれいにダブルフラジオレットが鳴ってしまうし、それがフレーズとしてきちんと歌われている。結果としてダブルフラジオレットというテクニック披露の部分ではなくて、音楽の要素として有機的だ。
と、同時に「ドヤ顔」がないのも特徴である。ワックスマンの「カルメン・ファンタジー」やパガニーニのような曲の場合、技巧を凝らした華やかに鳴る部分では、歌舞伎のミエを切る瞬間のように「どうだっ、凄いだろ」的な表情や仕種が多かれ少なかれ多くのヴァイオリニストにはあるものだし、聞き手としてもそれを楽しんでいる。その「どうだっ」が服部百音にはない。そんな瞬間をいくつも体験していってわかるのは、この人はオーディエンスに向かって弾いているというよりも、ただひたすら音楽に対峙していて、その造形やドラマを描き込み、演じているような、そういうタイプの演奏家ということなのだ。観客の一人としてはもう少しかまってほしい感じがないわけではないが、その音楽としての深さ、美しさにぐいぐい引きこまれていく。彼女にとって聴いてほしいのは「私」ではなく、そこに出来(しゅったい)させている音楽。しかもその訴える力がべらぼうに強い。
いささか回りくどい話になってしまうが指揮者の例を挙げてみたい。少し前に指揮者のロボットがオーケストラを指揮したという話題があった。スイスの企業が開発したもので、2本の腕を持つ人型ロボット「YuMi」がルッカ・フィルハーモニー交響楽団とテノール歌手、アンドレア・ボッチェリを指揮したのだった。あらかじめプログラムをセットしておけばさまざまな指揮者のタクトの振り方を再現できるという。そのニュースを受けてクラシック好きの友人と盛り上がったのは、バースタインの指揮をやるにはジャンプできないといけないとか、ヤマカズ(山田一雄)の場合は指揮台から落ちても振り続けてほしいとか、いやいや目線も再現しなければ、といったたわいのないものだった。まじめに考えると、指揮者の本質は譜面に書いてある音楽を読み取って、それをオーケストラのメンバーに伝えることである。棒のテクニックは大事かもしれないが分かりにくいタクトでも名指揮者はいる。さらに考えると”伝える”というよりは、音楽そのものがその指揮者の中で”鳴っている”のが大事なのだろう。あるいは指揮者自身がある音楽を“体現している”という感覚を持つこともある。そして、“音楽そのものの体現”によってオーケストラのメンバーだけでなく、観客席のオーディエンス対しても支配力を持ってしまっている場合もある
そう、服部百音にはその支配力がある。
それを端的に感じたのがシベリウスのヴァイオリンコンチェルト、第一楽章の冒頭の部分。9月3日の演奏を聴いて想起したのは、霧の立ち込めた林の奥の方から調べが聞えてきて、それは美しい精霊のようでいて、その内面には悲しみや悩み、苦みを持ちつつ意志を感じさせるような、そんなヒューマンな何かだ。そういうイメージが彫り深く、自分の脳にダイレクトに飛び込んできた。演劇で、ステージに大女優が登場しただけでその舞台が女優のものになってしまうように、服部百音の音楽が鳴り出しただけで空気ががらっと一変する。こんな力を持った人、そうそういないだろう。
ショスタコーヴィチのコンチェルトのCDでも、ヴァイオリン協奏曲を聴いているというよりも女優のモノローグを主体にした濃密なドラマを見ているような気になってきて、録音でさえそうなのだから、その演奏を生で聴くことはスリリングだ。たとえば「タイスの瞑想曲」のような多くの演奏家によって弾かれてきた曲でもどんな音楽になるのか、実はこんな美しいイメージだったのかと、こんなプロットがあったのかと屈伏させられたい。
生演奏の瞬間に立ち会って、初めて聴いた曲のような感興を体験してみたい。そう心の底から思える一人が服部百音だ。
文=鈴木 裕(すずき・ゆたか)
■日時:2017年11月16日(木)開演:19:00
■会場:紀尾井ホール
■日時:2017年11月14日(火)開演:19:00
■会場:札幌コンサートホール Kitara小ホール
■日時:2017年11月10日(金)開演:19:00
■会場:あいおいニッセイ同和損保 ザ・フェニックスホール
■日時:2017年11月8日(水)開演:18:45
■会場:三井住友海上しらかわホール
■予定プログラム:
ジンバリスト:R=コルサコフの《金鶏》の主題による演奏会用幻想曲
エルンスト:シューベルトの《魔王》による大奇想曲
プロコフィエフ:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ヘ短調
ショーソン:詩曲
マスネ:タイスの瞑想曲
エルンスト:《夏の名残のばら》による変奏曲
ラヴェル:ツィガーヌ
■公式サイト:http://mone-hattori.com/