長塚圭史に聞く──ピランデッロ衝撃の実験演劇、KAAT公演『作者を探す六人の登場人物』

2017.10.27
動画
インタビュー
舞台

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『作者を探す六人の登場人物』 撮影:岡千里


1934年にノーベル文学賞を受賞した、イタリアの劇作家ピランデッロの『作者を探す六人の登場人物』が、10月26日からKAAT 神奈川芸術劇場で上演中だ(11月5日まで)。ある劇団が劇場で芝居の稽古をしていると、自分たちは「登場人物」であり、自分たちの台本を書く作者を探しているという6人の家族が現れる。彼らはいったい何者なのか。実験精神でいっぱいの戯曲に、フィジカルな表現にこだわりながら、新しい演出を試みる長塚圭史に話を聞いた。

上演しようと思ったきっかけ

──『作者を探す六人の登場人物』を上演しようと思ったきっかけを聞かせてください。

 もう、これは読んだ瞬間からものすごく好きで、最初に読んだのがどなたの訳だったのか、よく覚えていないんですが、ト書きがすごくややこしくて。ピランデッロは自分が思ったとおりに演出されないと、いろいろ書き加えたという話は、伝記で読みました。

 割愛した部分もありますが、むしろこれだけ時間が経ったので、逆に面白く感じるト書きもある。つまり、いまだったら、これはしないだろうということでも、面白いと思うト書きは活用させてもらっています。

 ただ小さな劇場のスタジオに、トイシアターみたいなものを作るかたちになるので、実際の劇場とはずいぶんちがいますから、ちがう解釈にしているところは、多々あります。

──劇団の俳優たちが稽古しているところへ、「登場人物」たちが現れるわけですから、その温度差なんかも、皮膚感覚で感じとることができる舞台になりそうですね。

 俳優部をやる人たちが、ほとんどダンサーであるなど、ずいぶん様子がちがうと思います。

 最初は、全員ダンサーの人たちで上演できないかなと……もちろん戯曲は使うんですよ。踊るという意味ではなく、体のありかたとして考えはじめたんです。だけど、これだけの量の台詞を扱っていることから、なかなか難しい。それで俳優も混ぜていこうと。で、「登場人物」と俳優を、ダンサーと俳優で分けるかたちなど、いろいろ考えたんですが、ワークショップをやっていくなかで、最終的には、混在したほうが面白いと思うようになりました。いまは俳優部にもダンサーや俳優が紛れているし、「登場人物」にも草刈民代さんをはじめとして、ダンサーにも入ってもらっています

 この劇に出てくる俳優たちは、言わば退廃です。そこに登場人物というまったくちがう発想が持ち込まれたことが、この時代にはセンセーショナルだったと思うんです。ただ、もともとのト書きでは、仮面をつけて、まったく位相を変えて演じるように書かれています。

──たしかに「はっきり印象付けるために、あらゆる方法を使うこと」とありますね。でも、仮面をつけるやりかただと、かつて西洋劇を上演したときに着用したカツラのように嘘くさくて、いまの観客には、またちがうものに見えてしまう。

 そこがいちばん無視してるところかもしれないですね。

 俳優たちがダンスとしてフィジカルを使うシーンは、短い時間だけどあります。でも、それは「登場人物」たちにはない。基本的には、俳優部は、日々をうつろいやすく生きていて、「登場人物」たちは、物語の頭から最後までの時間を生きている。

 いま、この瞬間を生きているけど、物語の時間を生きている。しかも、ここからここまでを生きているという時間に焦点をおいて作っているので、演技のしかたは、「登場人物」たちの言っていることがわかれば、俳優と同じようであっても、「登場人物」と言っているかぎりは「登場人物」であり、俳優がどんな芝居をしても、彼らは俳優だから、遊びだと言われることが、割と明確に見えてくる。そこが面白い。

 でも、「登場人物」たちは、実際には俳優が演じているわけですよね。その三重性が、具体的には、演技自体には大きなちがいをつけすぎないでやるほうが、現代性が帯びるし、この劇の本質的な面白さが見えてくると思っています。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『作者を探す六人の登場人物』 撮影:岡千里

ダンサーと俳優の混成チームによる上演

──ダンサーによって身体性を強調した舞台にしようとした理由について聞かせてください。

 ぼくは踊りを取り込みたいわけじゃないんです。踊るシーンもあるんですが、身体というのは、思考する体のありかたのこと。

 たとえば、俳優たちに言っているのは、劇団だということを身体でつかめないか。劇団は長年いっしょに過ごすので、見えないところで体をつなげることを意識したり、俳優の自意識を少し表に出すようにして連鎖させるとか、そういうエクササイズみたいなことをやりながら、彼らがひとつの劇団として、遠くから見ても俳優という存在に見えるようなものを、ダンサーの身体でつかんだらどうなのかとか。そういうことに興味を抱いています。

 それができて、なおかつ台詞も扱えたら、俳優にとっては驚異じゃないですか。もちろん簡単ではないですが、でも、その彼らの朴訥な台詞のありかたも含めて……別に流暢に話したりとか、そういうことではないものが……

──逆に、そういう語りかたも、味があったり、個性に見えるのかもしれません。これまでとはちがう新たなアプローチが……『作者を探す六人の登場人物』は新劇団によって上演されてきましたが……ちがう空気が入れられる。

 だから、俳優たちのうつろいやすさとかも、なんて言うんでしょう……俳優にそれを言っても、もちろん言葉がちがうのかもしれませんが、彼らに「スポットライトになってほしい」と言うと、サァーッとなっていくわけです。そういうものが自然と生まれるように、うつろいながら作っています。

 踊るシーンは当然、俳優以上に魅せることができます。そこではむしろ、「俳優」としての説得力というか、舞台に立つプロフェッショナルとしての説得力が見えるのではないかと考えています。

 言葉だけの世界ではなく、身体をも使った華やかさが、この作品を彩るんじゃないか。つまり、理屈だけで攻める劇のありかたではない、この劇の間口が広がるんじゃないか。

──たしかに、「登場人物」たちは、後悔とか、復讐とか、軽蔑とか、どれも内に秘めるマイナスイメージを背負ってやってくる。それに対して、「登場人物」たちを迎える俳優を演じるダンサーたちは、身体性を発揮することで、外へ外へとアピールする。両者は対照的に見えるでしょうね。

 稽古をしていて、つくづくわかることですけど、俳優たちが「登場人物」たちをどう聞くか、どう見るか、そのことがお客さんにとっての大きな手がかりになっていくわけで、そういった部分が、彼らと稽古をしていて面白いなと思えるところです。

──文学座アトリエの『作者を探す~』では、「登場人物」たちが、ちょっと古くて丁寧な言いまわしを使いました。「……でございます」のように、古風で丁寧な言いかたをするだけで、どこかちがう昔の人の感じがする。その一方で、劇団の人たちは、現代的なしゃべりかたをするという区別をしていました。

 言葉づかいで、「登場人物」たちが時代をまとっているのではなく、あらゆる時代に生きられる者たちとして、古い時代をまといすぎないようにしたい。ただし、劇構造としては、「登場人物」たちはある時間のなかにいて、その記憶と時間を持ち込んでいるから、いまこの瞬間の時間ではないですけど、過去の人たちみたいに扱うことはしていません。

──過去の人かもしれないが、現代を生きる人たちでもある。

 そうですね。たとえば、1930年代という時代の限定をするよりは、この本のなかの時間……存在しない本だけど……のなかを生きている人たちととらえていますね。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『作者を探す六人の登場人物』のチラシ。

作者とはいったい誰なのか

──『作者を探す六人の登場人物』の「作者」とはいったい誰なのか。どう考えていますか。

 劇のなかでは明らかに「彼」が出てきますので、劇の一部で、「彼」の書斎に行って、「彼」に書いてくれと頼んだことを考えると、明らかにそこに登場してくるのは、理屈としてはピランデッロなわけです。「彼」自身は、要するに、「六人の登場人物」たちが、自分たちを話にしてくれと頼みにいくのは、やはりピランデッロなわけです。

 そして「登場人物」たちも作者だと言及されるシーンがあります。だから、すでに「登場人物」たちは作者を探しているけど、作者そのものだと指摘されてしまっているんです。そこもちょっと面白いところで、気がつくと、「登場人物」たちは作者を探しているにもかかわらず、すでにそのまわりにいる俳優たち、演出家にとっては、作者と呼ばれはじめてしまうという一面も……

──それも面白い指摘ですね。自分は「作者」であるのに、「登場人物」として物語をたくさん生きすぎるあまり、「作者」であることを忘れてしまい、「登場人物」として特化していく。

 「登場人物」は、自分たちが生きている最初のアイデアは、「作者」のなかから生まれたものかもしれないけれど、ストーリーをこんな面白いところがあると言って、自分たちのキャラクターを自分たちで広げた結果、「作者」が見つからなくなったとも考えられるわけです。その意味では、「登場人物」自身が「作者」に見えてくる瞬間も多々あって、そこも面白いところです。

演出を手がける長塚圭史。

リアルな人物はひとりも登場しない

──劇場という、フィクション作る場所で俳優たちが稽古をしていると、実際に、本物の物語を持った「登場人物」たちがやってきて、芝居を作る人たちが、その人たちに圧倒され、翻弄されていくという筋書きなんですが……。

 この太刀打ちできなさは、喜劇ですよね。悲しいけど、喜劇。それで、先ほど言ったように、ぼくらには持ちえない時間をすべて持ってしまっていることが、面白く響いてきますね。

──特に、演技面でも、「登場人物」たちは、実際そのもので、ぼそぼそとしゃべるから、声が小さくて聞こえないところも出てくる。極端にリアルに再現すると、そうならざるをえない。演劇は、ある約束事のなかでの嘘があって、はじめてたくさん伝わるところがあるから。たとえば、声もある程度聞こえる大きさにしなきゃいけないとか、演技も、実際のそのときの動きよりも、いくぶん誇張したり、工夫しなくちゃいけない。そのことが、演劇の場合には、より真実を伝えることになるわけだけど、この「登場人物」たちは、そこまで知恵がまわらなくて、自分の時間しか生きることができない。そういう哀しい面もあります。

 面白いのは、山崎一さんは、やっぱりめっちゃ優れた役者なんです(笑)。めっちゃ優れた役者が、自分たちは登場人物だって言われちゃうと、この劇のなかでは、登場人物と言っている以上はまぎれもなく登場人物ですから、もうどうしようもない。

 彼らの言葉が、すでにそうだから、どんなに演技しようが、演技しまいが、ある意味、彼らは限りなく自由なんです。つまり、ぼくはリアルな演技が、つまらないと思っていて、この劇のなかには、ある意味ではどこにもリアルな人物は出てこないんです。だって、リアルって何かといっても、全部嘘ですから。

 フィジカルなちがいを設けていますが、現実的には全部芝居だから、我慢することなくみんな芝居だから、お客さんは勝手にとらえるしかないですよ。どれをどう受け取るかについても。

──そういう意味では、全部芝居であるので、いろんなレベルのちがいもあるけど、自由に見て楽しんでほしいと。

 その点は、ぼく自身が楽しむところですね。もちろん、そのちがいは作っているんです。でも、結局、虚構である。限りなくそのことが面白い。

KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『作者を探す六人の登場人物』左から、安藤輪子、山崎一。 撮影:岡千里

「登場人物」たちから見えてきた現代性

 ある時点から「登場人物」たちが、本当に国を失ってしまった難民のように見えてきてしまって……

──所属をどこにも持っていないわけですから、難民とも考えることもできますね。

 「登場人物」たちが言っている「場所がないんだ」「ぼくらは存在しているのに、存在していない。存在できない」ことを訴えている姿が、難民の姿と重なって見えてくる。ぼくはそのことを意識して作りはじめたわけじゃないけど、やっぱり普遍的に社会と通じてくるんですね。

――予想したよりも、はるかに自由で、しかも身体性を伴った『作者を探す六人の登場人物』になりそうですね。

 賑やかだと思いますよ。1921年にこの芝居が初演されたときには、お客さんが怒って、大騒ぎになったという。こんなセットで、こんな芝居やりやがって。作者のエゴみたいなものを見せられたと言って怒ったらしい。

──ピランデッロは何度もそういう目に遭っているみたいですね。

 そういう喧噪自体も面白いなと思って。ある猥雑さのなかで、舞台は限りなく偽物の劇場、トイシアターだし、演技はしてるけど、ぐんと間近で生々しいというような、舞台を蠢く人々の匂いを感じながら見られる芝居にしたいなと思ってます。

プロモーション動画


取材・文/野中広樹

公演情報
KAAT公演『作者を探す六人の登場人物』

■作:ルイージ・ピランデッロ
■訳:白澤定雄
■上演台本・演出:長塚圭史
■日時:10月26日(木)~11月5日(日)
■会場:KAAT 神奈川芸術劇場(中スタジオ)
■出演(戯曲配役順): 
山崎一 草刈民代 安藤輪子 香取直登 みのり 佐野仁香/藤戸野絵(ダブルキャスト) 平田敦子 
玉置孝匡 碓井菜央 中嶋野々子 水島晃太郎 並川花連 北川結 美木マサオ 岡部たかし
■公式サイト:http://www.kaat.jp/d/sakushawo_s

 
  • イープラス
  • 草刈民代
  • 長塚圭史に聞く──ピランデッロ衝撃の実験演劇、KAAT公演『作者を探す六人の登場人物』