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ステラ・アドラー・ジャパン集中ワークショップ体験レポート(寄稿:岩上紘一郎)

2018.2.16
レポート
舞台

 

■ステラ・アドラー・テクニックとの出会い

ニューメキシコ州サンタ・フェの大学に留学中、リアリズム演技手法の礎とされているスタニスラフスキー・システムや、いわゆる「メソッド」と称されているアクティングクラスを履修する機会に恵まれた。だが残念なことに、当時俳優を目指しながらも限界を感じ、深く学びあげるところまで至らなかった。

その後、キャスティング・ディレクターという天職に出会い、ハリウッド映画など世界中のアクターと国境を越えて関わるうちに、日本のアクターの足りない点が見えてきた。言葉の壁はもちろん、それ以外の演技に対する力不足だ。それは、正しく学ぶ環境が日本には根付いていない、ということだった。

国内の活動拠点を拡大しつつも、常にその不安はつきまとった。

そんな中、ステラ・アドラー・スタジオ出身の梶原涼晴氏(合同会社ドリームシーズ/アクターズクリニック代表)と縁あって出逢うことになる。日本における演技教育のあり方について定期的に議論するようになった。

そもそもステラ・アドラー・テクニックとはいったいどういったテクニックなのか?

現代演劇、すなわちリアリズム演劇の礎は、スタニスラフスキー・システムであることに間違いないが、そこからの分派は多岐にわたり、その優劣や本家分家といった議論は諸説ある。

梶原氏との定期勉強会(勉強会と言っても場所は決まって代々木の串カツ屋)での彼の言葉は腑に落ちた。

「メソッドでも、マイズナーでも、アドラーでも、どれでもいい、もっと言うと、どれもいい。とにかく日本人は学びをもっと尊重すべきだ」

もう少し踏み込むと、と梶原氏は続けた。

「メソッドは自分自身(個人的な感情の記憶)と向き合い、マイズナーは(主にレペテションという手法を用いて)パートナーとの関係性や距離感を尊重し、アドラーは脚本理解に基づいた忠実な役作りに重きを置いている」

私が記憶をたどると、アドラーが主張していたのは
『イマジネーションなくして役作りはできない、メソッドが唱える「感情の記憶」は素材の一部でしかない』ということだ。

そのとき、ステラ・アドラー・テクニックを深く知るということはとても大事なことだと知った。引き寄せられるかのように昨年末のワークショップに参加することとなった。

■プロフェッショナルクラス

初日からして想像を超える言葉の質と量に完全に頭がついて行かず、衝撃を受けた。

その言葉の主は、ステラ・アドラー・スタジオ主任講師のロン・バラス氏である。彼の頭の中には、演劇に関する歴史と知識が宇宙のように拡がっていると思えた。プロフェッショナルクラスは全8回のうち、前半はオーディションテクニック、後半はパートナーワークだった。

スタートしてランチブレイクまでのおよそ90分間、オーディションテクニックのレクチャーが始まるかと思いきや、否!

プロフェッショナルクラスの精鋭たちひとりひとりに、「今朝、何を見た?」という質問。何人かは返答に詰まる。それもそのはず、私達は日常で、「見る」ことを意識していない。いつも忙しくて……。私も山のようなキャスティング案件をひきずりながらこのスタジオに辿り着いたわけだし、道中で落ち着いて何かを見る、なんてゆとりない。そうは言っても何も見ずにここまで辿り着けるはずもなく、つまり私は今朝、オフィスからここまでの道中、いろいろ見てきたのは確かだ。自分のオフィス、エレベーター、エントランスロビー、ドア、空、街並み、駅、改札、人ごみ、車内吊り広告、高速道路……いつも通りの光景を見てきた。私のようにごく当たり前の回答、面白みのない回答を思いつくアクターも少なくなかった。

ロンは特別にドラマチックな発言を期待しているということでもないようだ。

「(何かを)見たという体験を、そのまま今この場で皆と共有するだけでいい。何も壮大なドラマを求めているわけじゃない。安心して。私はロマンチストではないから。むしろ究極的な現実主義者だ」

なるほど現代演劇がチェーホフから始まった「リアリズム演劇」であることを考えると、俳優も夢見るロマンチストよりは物事を具体的に捉える現実主義者の方が向いているのかもしれない。それにしても、この「見る」ことに意識を傾ける習慣が、実は演技にとってとても大切なことであり、後々演技のプロセスに欠かせない基本的要素である、とは想像だにしなかった。

一通りアクターたちとの共有が終わると、ロンはおもむろに「あるもの」を持って立ち上がった。私たち日本人には馴染みのあるそのものとは、大きな「リン」だ。ロンは日本の仏壇にあるようなそれよりもふたまわり大きな「リン」と「リン棒」を持って言った。

「7つ数える間に鼻から息を吸って、次に息を止めて、それから14数えきるまでに『アー』と言いながら息を吐ききってください。その後このリンを鳴すから耳を澄まして、その音を聞いて。聞こえなくなったら手を挙げて―」。

皆で目を瞑る。7カウント息を吸い、しばらく我慢して、次の7カウントで『アー』という具合だ。その後のリンの音。ロンのクラスでは、五感が優しく揺り起こされる。

いよいよオーディションテクニックのレクチャーが始まる。

通常ビデオカメラを前に、「読み手」とセリフのやりとりをする、という段取りで進められる。私の経験でも、これがグローバルスタンダードであり、最もオーソドックスなオーディションの進め方である。使用される台本のシーンのボリュームは、それほど大きくはない。シーンによってはたった数行のケースもある。

ロンはまず、アクターが取り組むシーンが本質的に何を表現しているのかを問う。ただそれはあくまでもスタート地点の共有に過ぎない。ロンは次にシーンをいくつかの「ビート」に分けていく(※ここで言う「ビート」とは、「区切り」という意味が近いだろう。もともとはロシアとアメリカのアクターが台本解釈について語り合っていた際にアメリカ人アクターが発した「ビット(bit)」をロシア人のアクターが「ビート(beat)」と聞き間違えて生まれた言葉らしい)。

そしてその「ビート」ごとに、台本から感じ取れるキャラクターとして実践したいアクション(行動)を、「ムーヴメント(または、ジェスチャー)」にしてみる。「ビート」ごとのこの作業は、想像以上に細かく「分解」されるのだが、気になるのは「ムーヴメント」。

リアリズムをそれなりに学んできた私は、ここで早速疑問を禁じ得ない。ビートごとにそんな風に、それこそパントマイムのようにムーヴメントを使って表現をするというのは、「不自然」ではないか?アクターたちも一様に混乱している。しかしロンはすべてお見通しであるかのように続ける。

「そのムーヴメントを、一旦自分の中に取り込んで、『体験』をしてみて」

(英語と日本語とで多少意味がズレてしまう恐れがあるので、ロンがよく使った単語を念のため記しておくと、彼は、ムーヴメントを体験し、それがセリフとして再び自分の外に出て行く、という様を説明する際、しばしば「スピン(spin)」という単語を使っていた。恐らく、自分の中に取り込んだムーヴメントを、セリフをもって『体験』するとき、その様は「スピン」して出て来るイメージ、ということだったのではないか)。

また、ムーヴメントのチョイスに関しては、単純な動詞を持ってくるよりも、イディオム(熟語、慣用句)を選ぶようにすると奥深さが増し、アクションの単調化が比較的避けやすくなるということだった。

それにしても、なぜ、わざわざこのように遠回りしなければならないのだろうか。

俗に言うところの「心を込めてセリフを……」といったアプローチではなぜ足りないのか。

そんな疑問に対するロンの答えはシンプルだった。

「脚本家が書いた嘘の世界(セリフ)を、いくら真実味をもって説明したり表現したりしても、それは嘘でしかない。アクターがしなくてはならないことは、脚本家が書いた嘘の世界を、アクションを通じて『体験』すること。そうすることで、嘘の世界は初めて真実へと昇華する」

思うと、日本のテレビドラマ等でしばしば要求されるリアリティは、実は本来演劇的な価値のないリアリティであることが多い。ひとつは何気ない日常のリアリティ、もうひとつは、無理やり汗をかいて得られる体育会的リアリティ。そのどちらもセリフをどう解釈し取り扱うか、というレベルに終始している。

そうは言っても、ここまで学術的に演技を分解し、分析し、実際に現場で活用していくことに、「そこまで細かく考えないとダメなの?」と懐疑的な面も残る。だって何だか息苦しくて、肩が凝るではないか。

確かに映像現場は無制限に自由ではいられない。特にテクニカルな事情で何度も撮り直しをしなければならないことも日常茶飯事。

ロンはこうも言う。

「日常生活で体験するのと同じように、感情から行動を起こしてしまうと、一回目は新鮮に過ごせても、撮り直しとなったら最後、そこで手詰まりになってしまう。だから、演技の場合は不思議なことにこの順序が入れ替わる。行動があって、その結果、感情が生まれる」

なるほどそうだ、彼は現実主義者だった。

残りのレクチャーも、ここでは紹介しきれない貴重な言葉がぎっしり詰まった4日間だった。すべて紹介したいところだが、それこそオーディションテクニックだけでも読むのに4日かかるほどの情報量なので我慢しよう(笑)。

さて、後半戦はパートナーワーク。

今度は撮影現場本番を想定して、オンカメラで進めていくわけだが、やはり最初は「テーブルワーク」と呼ばれる作業を皆で行った。オーディションテクニックで実践した「ビート」ごとの細かな作業である。アクターたちもここまで来て少しコツを得てきたのか、このアクション(すなわち、ムーヴメント)を決め込む作業を楽しんでるようだった。

ロンの言葉を借りて言うならば、
「脚本家が描いた結果に、アクターが原因を埋めていく作業」
とてもクリエイティブな時間が流れる。それからようやく本番を想定したリハーサルを経てオンカメラでのワーク。

リハーサルのあたりからアクターは改めて、これが映像向けに特化したアクティングクラスであることを痛感する。身体の動きはおろか、顔も、目線も、極度に制限された中でアクションを「体験」しなければならないのだ。それも今度は自分一人ではなく、パートナーとの不確定なやりとりの中で。バストアップのフレームでのシーンとした場合、フレームアウトするアクターが続出。

撮影された映像を見ると、常にアクターを取り巻く環境を創り上げ、目の前で流れる時間が真実であることを担保するのは「目線」だ、と誰もが強く認識する。目が嘘をつくと、それ以外のすべては嘘になる。目が真実を語っていれば、観客は自然と身を乗り出すのだ。しかしそれでもロンは現実主義者であり、冷静だ。ロンの視線は、アクターが「どう見えるか」よりも、その裏で「何をしているのか」に注がれる。何十年にも亘り、数え切れないくらいのアーティストを世に送り出してきたロンの演技観は、いつどんな状況でも変わらず静かにそこにあった。

■レギュラークラス

レギュラークラスは、全7回のレッスン。

主に「アクション(行動)」及び「ジャスティフィケーション(理由付け)」について習得する。

実はこの「ジャスティフィケーション」に関するレクチャーに最も興味を感じていた。

アクティング=アクションの実践、すなわち、演技とは、行動すること、という前提において、アクションの「理由」をどう持ちうるか、当然「ただ何となく」アクションを実践してもそこには説得力はない。

さて、設定は、空港の仮設ロビー。

そこへアクターたちがぞろぞろと現れる。搭乗する便は皆同じだが、その目的やここに至る経緯はそれぞれ異なる。ここで既にジャスティフィケーションが始まっている。「目的地へ行く理由付け」だ。

今回は、ハワイのホノルル国際空港行の便に搭乗、滞在は僅か1日、それからトンボ返りして成田へ、という旅程だ。

自分は一体なぜホノルル空港へ行くのか、一体何をしに行くのか、その「理由」を具体的に細かく創り上げて、次回のクラスでアクターたちは1泊3日分の「理由」をたくさん詰めたスーツケースを持って現れる。これだけでも相当な作業量だ。ただそれだけでは終わらない。

「今からスーツケースを持ってドアの向こうへ出て行って。合図があったら、この仮設ロビーに入って来ていくつかのアクティビティをして欲しい。それを5分以内にすべて終わらせて、ロビー中央に用意されている椅子に座ってアクティビティを続けてください」

決められたゴールに慣れきっている若者たちは、何かひとつでも抜けたら大変だといった形相で必死にロンのオリエンテーションを注視する。規定課題として出されたアクティビティとは、「名簿にサインアップする」、「本などがたくさん置いてあるテーブルへ行ってそこにあるものを物色する」、「売店へ行ってそこにあるものを物色する」というようなことであったと記憶している。ご想像の通り、これらすべてにスーツケースに詰められた「キャラクターの歴史」と繋がる「理由」が必要だ。つまり、本棚で本を手に取る理由が、「ただ読みたいから」とか、「面白そうだから」では、弱い。自分のキャラクターであり、そのキャラクターが背負っている歴史から導かれる理由であることが要求される。しかしこんなことをひとつひとついちいち本番で考えていたら、演技する余裕なんてなくなってしまうではないか、とも思った。

だが、ロンは言う
「何度もトレーニングをして順序と構造を身体で覚えたら、ひとつひとつわざわざ考えなくてもできるようになる」と。

それをトレーニングなしでできるのが、「天才」なのかもしれない。

こうして彼らは未だ一言もセリフを与えられず、指定されたアクティビティを一定の条件下で実践するだけで十分過ぎるほどにキャパオーバーだ。その様を見ていて素直に感心したのは、既に彼らはスーツケース一つ分の「真実」を獲得しているということだった。事実、こういった作業は誰にとっても面倒なことなのでその価値が分からない限り現場では割愛して誤魔化してしまうアクターも少なくないだろう。

さて、追ってロンから新たなミッションが与えられる。

それは、ホノルルに持って行く予定だった指輪をなくしてしまっていることに気づくこと。それ以降に9つの指定されたアクションを実践すること。

この時点でも、まだセリフは与えられない。

しかしイキナリ9つのアクション、それも、「インダイレクト・アクション」、(パートナーに直接向かわないアクションを意味する。もともと限られたインダイレクト・アクションのうち、代表的なものは、例えば「回想する」、「夢見る」といったような自分一人で完結し得るアクションが挙げられる)。で言うところの「段取り」のようなインダイレクト・アクションを順序通り積み上げるだけでもアクターたちは悪戦苦闘するところなのだが、重要なことはそこではない。

そのひとつひとつが、自分で創り上げたキャラクターにとって「真実」であることなのだ。ひとつひとつに、それ相当の「理由」が要求される。

最も興味深いのは、理由のチョイスについてロンが言った言葉だった。

「あらゆるチョイスの中からひとつの理由を決め込む拠り所は、『その理由によって自分はどれくらい強い刺激を受けるか』だ。その刺激の大きさが、アクションの大きさを左右し、ひいてはシーンのサイズを決定づける」

なるほど。演技においてアクションが「真実」であることはもちろん大前提として必要だが、忘れてはならないことはそれが脚本に描かれているサイズに相応しいか、ということだ。シーンの最中、何もしなければ確かにそれはある意味真実ではあるが、同時に何も起きていない以上、シーンとしてそこにそのキャラクターが存在する意味すら消失してしまう。

さて、空港での一幕も終盤。

先に述べた9つのインダイレクト・アクションに、いよいよセリフが足される。じっくり「体験」すると、単に空港ロビーで数分待っていろいろ物色しているうちに持っいてたはずの指輪がないことに気づく。あれこれ探し回ったり記憶を辿ったりする、という一連の「段取り」も、猛烈な密度であることに気づかされる。それだけでも大きな収穫だ。

最後に、指輪を失くした20余名の主人公たちは、任意の2~3人のパートナーに対して、指輪を失くしてしまったことを伝え、その指輪がどういう指輪かを説明し、そしてその指輪について何か知っていることはないかを尋ねる。いよいよダイレクト・アクションの実践だ。主人公は、自分が決めたパートナーに対し、それぞれのパートナーから受ける印象に基づいてアクションを決める。これもプロフェッショナルクラスと同じように、一旦ムーヴメントにしてみるという作業を経て、本番ではそれを自分の内面に落とし込んでセリフと一緒に「体験」する、といったワークだ。こうすることで、与えられたセリフの意味から自分自身を一旦解放し、あくまでパートナーに対するアクションの実践を最優先していくことに慣れていくのだ。

ロンはこう付け足す。
「アクションをムーヴメントとして可視化していくプロセスは、とてもトリッキーで思わぬ方向へ滑ってしまいやすい。それらに慣れていく方法のひとつは、経験の積み重ねだ」

■ワークショップを終えて

今回ロン・バラス氏のワークショップに初めて参加し、レギュラークラス、プロフェッショナルクラスの両方で学んだことは、何よりもまず、映像に特化したトレーニングの必要性であった。もちろん舞台も映像も基本的構造は同じだが、現場レベルで要求されるテクニックは、トレーニングなしには身につくものではない。また、現代のリアリズム演技とは、自己主張の強い過去から自分自身を現在へと連れ戻し、セリフという先入観から自分を解放し、自分が強く刺激を受ける理由をもって、アクションを自分の中に取り込み、体験し続けることだった。言うは易し、評論するだけでは身につくものでは到底ない。

日本で「演技レッスン」というと、しばしば、「エチュード」という言葉が聞かれる。これは、アクターたちに即興劇をやらせてその良し悪しを講師がコメントすることだろう。または「シーン」。講師にとっては最も楽な時間の潰し方だ。なぜなら、アクターたちに数ページのシーンを手渡し、覚えさせ、実際にやらせて、エチュードと同じようにその良し悪しをコメントすれば良いのだ。講師から良かった悪かったと言われて、アクターたちに何の収穫があろう、全くない。

ステラ・アドラーの言葉を借りると、
「演劇は2000年の歴史を持ち、俳優はその歴史を学び、次の時代へと継承していく責任を負っている」
「良いね、ダメだね」で語れる世界ではないはずだ。

だからこそ、現代のアクターには、殊日本のアクターには、歴史を尊ぶ精神と、学びを尊重する意思が不可欠だ。そして我々裏方は、彼らが深く演技に触れ、それを継承できる環境の必要性を声高に叫び続けていくことだ。学びの機会と場を増やしていくことを切に願い、尽力することを胸に誓った。


<プロフィール>
岩上紘一郎(いわがみこういちろう/Ko Iwagami):キャスティングディレクター、プロデューサー。1985年東京生まれ。幼い頃、映画『インディー・ジョーンズ』シリーズを観て、映画人になることを決心。 中学卒業後、単身でアメリカへ留学し、ニューメキシコ州サンタフェの大学在学中にインターンとして映画制作に携わる。 2009年ロバート・ダウニー・Jr.主演の映画『デュー・デート』より、制作スタッフとして本格的にハリウッド映画界へ。 『ブレイキング・バッド』『アベンジャーズ』『ラストスタンド』『ウルヴァリン:SAMURAI』など数多くの大作に参加。 海外作品を中心に、映画、CM、ミュージックビデオ等に携わっている。 世界で評価されるクールな日本人を輩出することを使命とし、キャスティングディレクターとして独立。株式会社カイジュウを立上げる。最近では、映画『THE FOREST』にて小澤征悦、米ドラマ『GIRLS』にて水嶋ヒロのアメリカデビューへの橋渡しを担った。 株式会社カイジュウ 代表取締役。
 
ワークショップ記録
ステラ・アドラー・スタジオ・オブ・アクティング in 銀座九劇アカデミア
 
【レギュラークラス】全6回+発表会
■日時:
2017年12月13日(水)14日(木)16日(土)18日(月)19日(火)20日(水)各18時~21時
2017年12月22日(金)13時~16時(発表会)
 
【プロフェッショナルクラス】全8回
■日時:
2017年12月13日(水)14日(木)15日(金)16日(土)18日(月)19日(火)20日(水)21日(木)各11時~17時

 
■会場:銀座九劇アカデミア
■公式サイト:https://asakusa-kokono.com/academia/
 
NEW ワークショップ情報
<銀座九劇アカデミアWS情報>
◆RADA(英国王立演劇アカデミー)元校長 ニコラス・バーター氏来日ワークショップ
 
アンソニー・ホプキンスやヴィヴィアン・リーといった、英国を代表する役者を数多く輩出する「Royal Academy of Dramatic Arts」(英国王立演劇アカデミー)の校長を務めた、ニコラス・バータ―氏を招聘。講話、エクササイズ(シアターゲーム)、インプロ、戯曲など、演技を学ぶために必要な基盤の習得をじっくりと、着実に実践していきます。
 
<講師プロフィール>
ニコラス・バーター:演出家/演技教師
ケンブリッジ大学を卒業後、様々な劇場の芸術監督、ディレクターを就任。アンソニー・ホプキンス、ヴィヴィアン・リー、ケネス・ブラナー、アラン・リックマン、トム・ヒドルストン、ベン・ウィショー、ジム・ノートン、サリー・ホーキンズ、アンドレア・ライスボローなど、英国を代表する役者を数多く輩出する「Royal Academy of Dramatic Arts(英国王立演劇アカデミー)」の校長を務める(2003年~2007年)
 
<イベント回数>
全5回

 
<日程>
2018年4月1日(日)~4月8日(日)
2クラス制/水曜休み
総授業時間:それぞれ12時間

 
<参加費>
40,000円(税抜)
税込金額43,200円

 
<定員>
各クラス最大20名(先着順とさせて頂き、定員になり次第締め切ります)
詳細、申し込みは銀座九劇アカデミアホームページから
https://asakusa-kokono.com/academia/