【コラム】追悼・劇団四季創立メンバー 浅利慶太さん「人生は素晴らしい、生きるに値する」
浅利慶太さん (撮影:五月女菜穂)
偉大なカリスマが旅立った。
浅利慶太さん 享年85歳。
もし、彼が劇団四季を創設しなかったら
日本の演劇界……ミュージカルは今より20年後れを取ったはずだ。
私は浅利氏に指導を受けたことはないし、直接の取材も数えるくらいしかしていない。が、物心つく前から劇団四季の舞台の客席に座り、人生を変えられたひとりの観客として、日本の演劇界に多大な影響を与えた氏の功績を振り返らせて頂きたいと思う。
◆フランス演劇の詩的な世界からミュージカルへ
『アルデールまたは聖女』(自由劇場にて撮影)
劇団四季は1953年、慶應義塾大学文学部仏文学科在学中の浅利氏ら学生たち10名によって設立された。当初「劇団荒地」の名で活動しようと演出家・芥川比呂志氏に相談したところ反対され、「劇団四季というのはどうだ」とアドバイスされて、この名に落ち着いたのは有名な話である。
創立当時から四季はフランスの劇作家、ジャン・アヌイやジロドゥの作品を多く上演した。戦争が終わり、いわゆる労働者階級の苦悩やイデオロギーを描いた新劇が全盛期だった時代に、美しく詩的な世界観にこだわった四季の作風は当時の演劇界で異質だったと想像できる。
『オンディーヌ』(加賀まりこ×北大路欣也)(筆者私物)
その後、寺山修司や石原慎太郎、谷川俊太郎らの戯曲を上演し、越路吹雪との共同作業を経て、劇団四季は浅利氏の演出でブロードウェイやウエストエンド発の海外ミュージカルを多く手掛けるようになる。
この頃の氏の演出作で特に鮮烈だったのは、1976年に日生劇場で上演されたアンドリュー・ロイド=ウェバー作曲のミュージカル『ジーザス・クライスト=スーパースター』ではないだろうか。エルサレムの荒地を忠実に再現し、砂埃が舞うような傾斜のついた装置や、台詞がほぼなく、歌のみで構成されるミュージカルは人々に大きな衝撃を与えた。
そして『ウェストサイド物語』『エビータ』『コーラスライン』と海外ミュージカルで多くの観客を獲得した劇団四季は、1983年に日本の演劇界に“革命”を起こす。そう、『キャッツ』のロングラン上演である。
◆日本の演劇界に革命を起こした『キャッツ』
『キャッツ』初演・再演パンフレット(筆者私物)
西新宿での専用劇場建設、オンラインの導入、1年間のロングランと、それまでの常識を打ち破ったミュージカル『キャッツ』は大評判となり、多くの観客が高層ビルの谷間に建つ「キャッツ・シアター」へと押し寄せた。誤解を恐れずに言えば、映像の世界でほぼ無名な俳優たちが出演する本作が大ヒットしたことは、四季が掲げる“作品主義”の正統性と可能性とを大きく示すきっかけになったとも思う。
『キャッツ』の大成功を受け、劇団四季は日生劇場、青山劇場を拠点に次々と大型ミュージカルの幕を開け、1995年に劇団初のディズニー作品『美女と野獣』を赤坂ミュージカル劇場(当時)で上演。続いて1998年には東京・浜松町に四季劇場[春][秋]をオープンさせ、同年『ライオンキング』の無期限ロングラン公演をスタート。と、ここから先は皆さまご存知の通りである。
◆作品の地方公演×ミュージカル+ストレートプレイの二本柱
四季劇場[秋]ホワイエにて撮影
浅利慶太氏が劇団の代表として成しえたことで特に強く訴えたいのが「作品の地方公演」と「ミュージカルとストレートプレイの両立」だ。
「作品の地方公演」に関しては北海道から沖縄の離島まで日本全国でさまざまな公演を打ち、多くの観客が良質な作品に触れる機会を作った。子ども時代に地元で初めて観た舞台が四季のミュージカルという人はかなりの数に上るのではないだろうか。現在も続くこの活動が、演劇全体の観客数を増やし、劇場をより身近な存在にしていることは言うまでもない。
また「ミュージカルとストレートプレイの両立」だが、人気海外ミュージカルの上演で劇団の規模を日本一に押し上げた氏は2003年、浜松町の[春][秋]に隣接した場所に客席数約500の自由劇場を建設し、ここで多くのストレートプレイの公演を打っていく。
自由劇場外観
もちろん80年代に『キャッツ』や『オペラ座の怪人』等、ロイド=ウェバー作品で多くの観客動員を得てからも四季はミュージカルと並行してストレートプレイの上演を続けてきた。それは浅利氏のひとつの、そして大きな信念だったのだと思う。
個人的な話になるが、自分の中で特に印象深いストレートプレイは、いずれも10代の頃に青山劇場と俳優座劇場で観劇した『エクウス』『ロミオとジュリエット』『この生命誰のもの』『オーファンズ』の四作品。それまでミュージカルでしか観たことがない俳優たちがシェイクスピアやピーター・シェーファーの台詞劇に出演する姿は衝撃的だったし、年齢的に内容が理解しづらかったものもあり、だからこそ戯曲を読んで勉強したいとも思った。
自由劇場で上演されるストレートプレイの客席には若い観客が非常に多い。いわゆる“小劇場演劇”でもなく、映像の世界で名前の売れた俳優が出演するわけでもないオーソドックスな台詞劇でこの客席の風景が見られるのは四季ならではだ。ミュージカルで生の舞台に触れた若い世代がその一歩先の世界にもしっかり踏み込んでくるのだろう。浅利慶太氏は、俳優だけでなく観客も育てたのだ。
『ジーザス・クライスト=スーパースター』1987年パンフレット(筆者私物)
また、私などが語るのは非常におこがましいのだが、ミュージカルに関して氏の代表作のひとつとして挙げたいのが1987年に上演された『ジーザス・クライスト=スーパースター』のエキゾチック・バージョン(現・ジャポネスク・バージョン)である。音楽に和楽器を取り入れ、舞台装置は大八車や白木の板。歌舞伎調の隈取りをアレンジした独特のメイクを施した俳優たちにより演じられるこのバージョンは唯一無二の世界観を醸し出していた。キリスト最後の7日間をこんな風に表現した演出家が他にいただろうか。
◆新たなステージ、浅利演出事務所の設立
『オンディーヌ』新旧パンフレット(筆者私物)
2014年に劇団四季の取締役社長を退任した氏は、翌年2015年に浅利演出事務所を設立。四季にとって思い出の地である参宮橋のアトリエで新たな作品作りを続け、自由劇場で浅利演出事務所の公演第一作目となる『オンディーヌ』を上演する。
その後も氏は外部から若い俳優たちを迎え入れ『ミュージカル 李香蘭』や『夢から醒めた夢』『この生命誰のもの』『思い出を売る男』等の作品を精力的に演出し続けた。
『思い出を売る男』(自由劇場)
日本各地の専用劇場建設、作品の無期限ロングラン上演、俳優がアルバイトをしなくとも生活できる環境作り……さまざまな“革命”を演劇界に起こしたひとつの星が空に還った。奇しくもその日は彼……浅利慶太氏が創立メンバーのひとりとして名を連ね、長らく代表として運営の舵を取ってきた劇団四季が創立65周年を迎える日の前日であった。
65年前の創立時から現在まで、劇団四季が新作上演の選定の基準にしているのが「人生は素晴らしい、生きるに値する」というメッセージを作品が宿しているかどうかだ。さまざまなミュージカル、そしてストレートプレイを世に送り出し、劇場に集う人々の生活に光をあて続けた浅利慶太氏にひとりの観客、そして劇場で人生を変えられたひとりの人間として心からの感謝と追悼の意を捧げたい。
浅利慶太さん……たくさんの夢と奇跡をありがとうございました。
(注:7月30日、内容の加筆修正を行いました)
文・写真提供=上村由紀子