歌舞伎俳優、片岡仁左衛門が文化功労者に「年中挑戦しています」俳優生活70年に向け思いを語った会見レポート
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片岡仁左衛門『文化功労者会見』
歌舞伎俳優の十五代目片岡仁左衛門が、2018年度の文化功労者に選出され、都内で会見が行われた。
「声よし、顔よし、姿よし」
この枕詞は、仁左衛門ファンだけでなく、多くの歌舞伎ファンをも頷かせる。1944(昭和19)年に、十三代目仁左衛門の三男として生まれ、1949年に片岡孝夫の名で初舞台。1998年に十五代目仁左衛門を襲名し、2015年には重要無形文化財保持者(人間国宝)の指定を受けた。
会見の冒頭で仁左衛門は、「文化功労者という栄誉に浴し、身の引き締まる思い」と挨拶をした。
選出の知らせを受けたのは、『芸術祭十月大歌舞伎座』の公演期間中のこと。同公演で仁左衛門は、74歳にして江戸一の色男・助六役をつとめ上げ、連日観客を魅了した。千穐楽に向けて、残る上演回数が減っていく中でも、勉強のためにと十一代目市川団十郎の『助六』の映像をみていたところ、連絡が入った。
「家内が『あなたと直接話したいって』と、電話をもってきました。今ビデオみてるのに何? って思いながら出ましたところ、そのお知らせでびっくりいたしました。『お受けいただけますでしょうか?』とおっしゃるので、謹んでお受けしますと。断る人も、いないと思いますが(一同、笑)。それからお仏壇に手をあわせ、父、母、先祖に報告しました」
会見中の仁左衛門は、自然体の受け答えで、時に一同を笑いで和ませつつ、歌舞伎への真摯な思いを語った。以下に、その一部をレポートする。
知らせを受けた時を再現する、片岡仁左衛門。
歌舞伎の魅力から逃げられなかった
——70年を迎える俳優人生の中では、大きな病気や怪我も経験されました。第一線を走り続けてこられた原動力は?
ただただ、歌舞伎が好き。廃業を考えた時期もありましたが、歌舞伎の魅力からは離れられず、逃げられませんでした。だから今日まで努力をしてこられたのだと思っています。
おこがましい言い方となりますが、(病気を乗り越え)再び舞台に立てると決まった時は、神様が「歌舞伎役者として頑張れ」とおっしゃって下さったのだと受け止めました。それからは仕事を極力歌舞伎一本に絞り、父も含め、さらにその上の「先輩方からの教えを後世に伝えなければ」「私自身、勉強していかなければ」という思いで、やってまいりました。
——関西の歌舞伎が、不振だった時代も経験されていますね。
今は毎月歌舞伎の幕が開きますし、公演回数も多い。本当にありがたいことです。
私が子どもだった頃、千日前にあった大阪歌舞伎座は、東京の歌舞伎座よりも収容人数の多い劇場でしたが、いつもお客様でいっぱいでした。しかし突如、お客様がひけ出すんですね。そうなると非常に早い。あの恐ろしさを知っていますから、「今はお客様の入りがいいから」と安心はできません。
歌舞伎座は、檜舞台の、世界に誇る歌舞伎の劇場です。江戸時代から明治、大正と、歌舞伎も変わっていますから、先輩達も守ることだけをしてきたわけではありませんが、歌舞伎には、江戸時代から伝わってきた先輩たちの精神、歌舞伎の心があります。このところは周りの環境の変化が著しい。けれど(変化だけを求め)それに乗ってはいけません。若い人たちにも、歌舞伎の真髄を究めながら、攻めていってほしいです。
——歌舞伎の神髄とは? 仁左衛門さんにとって、歌舞伎とは?
先輩からの大事な遺産であり、自分の中の宝です。今、私から歌舞伎をとったら何もなくなると思いますよ?(笑)
演じるのではなく、役になる
——かねてより「どの役も好き」とおっしゃっていますが、あの役は大きかったと思うものはありますか? また、どんな役にでも、役の気持ちになれますか?
あの役が大きかった等と、自分で考えることはしないですね。舞台に立つ前は嫌いだったお役も、舞台に立っていると好きになってしまうのでどのお役も好きです。役を「演じる」のではなく、役に「なる」ことが大事ですね。役の人物にならないと、お芝居は面白くなりません。同じ役でも役者によって表現は変わります。
——『菅原伝授手習鑑』の菅丞相役は、中でも、命がけの大きな役だったのでは?
(笑顔で首を横にふり)なんでも命がけ。
—— 歌舞伎俳優として、先人たちから伝わってきた役を作り上げることと、観客との対話や反応から舞台本番で作り上げられること、ご自身の中ではどちらに喜びを感じますか?
難しいですね。その境界線は入り乱れています。お客さんがノッてきてくだされば、相乗効果もあるのでしょうが、ノッてこない日もありますよね。そういう時、役者はふつう腐るのですが、私は腐らずにやれる。
全然興味を持っていただけないのは、役者として寂しいので、お客様に受け入れていただけるよう訴えかける。けれども、万が一受け入れていただけなくても、私は自分で楽しんでしまえる。結局、自分で好きなことをやらせていただいているからですね。
「楽しむ」といっても、お客様を無視するのではありません。その加減は難しい。先ほどの「役になりきる」というのも、非常に曖昧な言葉です。あくまでも台本にのっとっているので、その兼ね合いも難しいですね。
——今月の助六役は「これが最後」とおっしゃっていました。一世一代を意識されることが多くなっていますか?
自惚れといいますか甘えもありますが、「この程度ならお見せしても恥ずかしくないな」と思える段階でやめたい。「惜しいな」と思っていただける間にやめたいなと思うんです。
ようやく慣れてきたところ
——襲名から20年、仁左衛門の名前とどのように付き合ってきましたか?
そういう風に理論づけるのが、僕は非常に苦手でね(一同、笑)。
襲名は自分の名前というより、お預かりするものです。本当のことを言えば、名前なんて何でもいいんです。識別できればABCでもいい。それでも「いい名前」と言われるのは、名乗っている役者がいいからです。
例えば初代吉右衛門のおじさん。それまでにはなかった吉右衛門という名前が、今は「吉右衛門はすごくいい名前だ」 と言われる。役者がいいからですよね。役者が悪ければ悪い名前にもなりますから、格を落とさないように努めてきました。私に血縁関係なければ、あの名前を継ぎたいと、次の世代の方々に思ってもらえるような役者でいたいです。
この頃はやっと「仁左衛門」と呼ばれ、振り返れるようになりました(笑)。前はノボリが立っていても着到板をみても、自分と違うような気がして。ようやく慣れてきたところです。
—— お父さま(十三世仁左衛門)も文化功労者でした。追いついた実感はありますか?
ありません。 先輩方をみて、どうして自分はあのラインに行けないのだろう、という気持ちの方が大きいです。だって映像でも写真でも、昔の方々は本当にすごい! 人間そのものも、芸そのものも、今の私の年齢以下で、すごいんだもの! 足元にも及びつきません。
この日の服装についてコメントを求められると「中学1年か2年の時に、父がくれた腕時計をしています。ほとんどいつもしてはいるのですが、今日も父と一緒に」と仁左衛門。
目新しさではなく、掘り下げてつかまえる
——文化功労者に選出された後は、京都南座で2ヶ月連続興行です。意気込みは?
選出いただいたことで特別に意識することはなく、今まで通りの自分でいきたいです。
——新たに挑戦したいことは?
新たな挑戦……。私は常に挑戦しているんです。くり返し上演している作品も挑戦です。ご質問の答えとは違うかもしれませんが、挑戦の気持ちは常にもっており、年がら年中挑戦しています。
——これからの抱負は?
古典物の掘り下げ。そして演技法の掘り下げ。掘り下げることで、芝居の新しい魅力を引き出し、歌舞伎をまだご存じない皆さま方にも訴えていきたい。(お客様の心を)目新しいことでつかまえるのではなく、掘り下げてつかまえる。その努力をすることが大事。言い古された言葉ですが、死ぬまで修行です。我々に終点はありませんから、体力の許す限り、歌舞伎を多くの人に伝えていきたい。
でも僕は、本当に頼りない男でね、「不逆流生(ふぎゃくりゅうせい)」。流されるのではなく、流れを生かしていく。この言葉をモットーにしていますから、来年どういう流れがくるか。その流れを生かしていきたいです。
片岡仁左衛門
11月1日には京都四條南座が新開場し、『吉例顔見世興行』が初日を迎える。仁左衛門は11月1日~25日まで、昼の部『恋飛脚大和往来』「封印切」の亀屋忠兵衛と、夜の部『寿曽我対面』の工藤左衛門祐経を演じ、高麗屋三代襲名の『口上』に出演する。12月1日~26日は、昼の部『ぢいさんばあさん』の美濃部伊織役と、夜の部『義経千本桜』のいがみの権太役を勤める。
装いを新たにした南座で、挑戦し続ける仁左衛門の歌舞伎の真髄をみてほしい。
イベント情報
二代目松本白鸚、十代目松本幸四郎、八代目市川染五郎襲名披露
■会場:京都四條南座
■日程:平成30年11月1日(木)~25日(日)
■会場:京都四條南座
第一 義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)