ヤツイフェスにも出演したタバサリサが激動の人生を超え再び走り出した先にあるものとは?SPICE初登場で語ること
タバサリサ
札幌出身のシンガーソングライター・タバサリサ。パワフルなロックサウンドから繊細なバラードまで、様々な楽曲を手がけている彼女は、今年6月に開催された「YATSUI FESTIVAL! 2021」に出演。現在は、これまで発表してきた自身の楽曲のミュージックビデオ全8曲を、毎週1本ずつアップするという企画を行なっている。SPICE初登場となる今回は、彼女の生い立ちから話を聞いたのだが、これがなんとも波乱万丈で……。そこはこの後のテキストを読んでいただきたいのだが、しかし、その激動の人生で積み上げてきたものたちは、すべて彼女の音楽に注ぎ込まれていた。活動休止を経験しながらも、再び走り始めた彼女に話を聞いた。
──小さい頃から音楽には触れていたんですか?
母がピアノの講師だったので、3歳ぐらいの頃からクラシックピアノ教えてもらってました。でも、親に教えてもらうあるあるなんですけど、最後にケンカして終わるという(笑)。でも、なんとか10年ぐらいはやってました。あと、母はクラシックピアノの先生をしていたけど、Led Zeppelinとかも好きだったんですよ。なので、小さい頃からクラシックとロックはすごく聴いていて。それもあって、自分が曲を作るようになってからは、ストリングスをよく入れるんです。そこは小さい頃の影響が大きいのかなと思います。
──他にも習い事とかはされていたんですか?
あとは、クラシックバレエ、お茶、お花ですね。その辺りは物心がついた頃にはやっていました。おばあちゃんがお茶とお花の先生だったので、自動的にやっていて。今考えると、習い事をいろいろやらせてもらえていたのはありがたいなと思います。
──そんな中で、音楽が好きだなと思ったのはいつ頃?
小学生のときです。初めてCDを買ったんですよ。L'Arc〜en〜Cielだったんですけど、その頃から音楽がすごく好きになりました。でも、小学校までは習い事をたくさんしたり、友達も多くて陽気なタイプだったんですけど、中学校に入ってから先輩に目をつけられてしまって、そこから学校に行くのが嫌になって。
──そうでしたか……。
で、学校に行った振りして、公園に行ってたんです。そのときに、暇だから音楽をずっと聴いていたんですよね。そういう根暗なところは、なんかちょっとミュージシャンっぽいのかなって(笑)。あと、そういう経験があったことで、反骨心みたいなものがすごく芽生えて、なにか自分の作品を世に残したいなっていう気持ちが出てきました。
当時は地元を歩いていたら写真を撮られるレベルのギャルだったんですよ、私。
タバサリサ
──そういう沸々としたものを抱えながら、公園でひとり音楽をずっと聴いていたと。
でも、学校に行ってなかったので、成績がすごく悪くなっちゃって、入れる高校が北海道で一番のヤンキー学校しかなかったんですよ。それで入学式に行ったら、生徒だけじゃなくて保護者もみんなヤンキーで、ウチの親がビックリして帰っちゃったんです。「怖い!」って。私も最初は驚いたんですけど……。なんか、そこからギャルになったんです、私(笑)。
──なんかすごい展開に……。
その当時、ギャル/ギャル男がブームだったんですよ。昔のすごく流行ったときじゃなくて、その次のブームのときだったんですけど、まんまとギャルになってしまって。そのときにパラパラがまた少し流行っていて、なぜかわかないけど、パラパラで頂点獲ってやると思って(笑)。そこから練習して、avex主催のパラパラ全国大会に、北海道代表で2年間出たんです。
──へぇー! すごい!
そのときに、やっぱりこういうふうに自分の証拠を残していくのっていいなって。まだ音楽やってないですけどね(笑)。パラパラは踊ってましたけど。でも、なんていうか……当時は地元を歩いていたら写真を撮られるレベルのギャルだったんですよ、私。
──「パラパラの子だ!」みたいな?
そういうのもあったし、ピカチュウの着ぐるみを着てた人達っていたじゃないですか。ああいう感じだったんで、海外の人に写真を撮られたりとか。パラパラ全国大会もavexがお金を出してくれて東京まで行っていたし、「めざましテレビ」とかに取材されたり、地元の番組で取り上げられたりして。そういう感じだったので、卒業した後に普通に就職したんですけど、すごいつまらなくなってしまったんですよね、自分の人生が。
藍井エイルさんのデビュー曲が、私の人生を変えてくれました
タバサリサ
──そこから音楽の道にどう進んで行ったんですか?
知り合いがライヴバーで働いていたんですけど、カラオケに一緒に行ったときに「歌うまいし、募集してるから歌ってみれば?」って言われて。そこからそのお店でちょっとだけ働くことになったんですけど、ジャニスジョプリンとか、ガチでうまい人が歌うタイプの曲を歌うことになったので、全然歌えなくて。あと、それぐらいの頃から、今ほどではないんですけど、いわゆるアニソンのジャンルが出来上がってきたんです。
──アニメは昔から好きだったんですか?
中学生の頃から好きだったんです。学校に行っていなかったときによく観ていたので。だから、本当は洋楽とかじゃなくて、アニソンみたいな曲が歌いたいんだけどな、もうこのライヴバーも向いてないかな……と思っていたときに、藍井エイルさんがデビューされたんですよね。で、藍井エイルさんも北海道の方なので、レコード会社の人が、私が働いていたライヴバーにたまたま来たんです。そのときに「声の性質が似ている人がデビューするから、チェックしてみなよ」って言われて。私、今まで誰かに声が似ているって言われたことがなかったので、気になって調べたら、すごく感動したんです。それでなぜか上京したんですよ(笑)。
──自分もデビューしたいと思ったからではなく?
というよりは、正直音楽はもう無理だろうなと思ったんですよね。でも、藍井エイルさんの「MEMORIA」を聴いたときに、東京に行ったら、何か自分に向いているものがあるかもしれないって。もちろん本当は音楽がいいんだけど、これをやって生きていきたいと思える何かが見つかるかもしれないと思ったんです。
──とにかく現状を変えたかったんですね。
そうですね。だから、藍井エイルさんのデビュー曲が、私の人生を変えてくれました。
やっぱりどうしてもアニメの主題歌を歌いたかったんですよ
タバサリサ
──ここまでのお話を振り返ると、タバサさんの楽曲から感じられるものが、キーワード的にかなり出てきていますよね。最初に買ったCDがL'Arc〜en〜Cielというお話がありましたけど、曲の雰囲気やメロディラインに、90年代中盤から後半にかけてのロックバンドの雰囲気があるというか。
中学校のときにJanne Da ArcとかAcid Black Cherryが流行っていて、めちゃくちゃ好きだったんですよ。なので、その影響は絶対に受けてますね。
──あと、「アニソンが歌いたい」というところで言うと、楽曲のアレンジはまさにその方向性ですし。
アレンジに関しては……東京に出てきて、なんだかんだでやっぱり音楽に関わりたいなと思って、仮歌のバイトをしてたんです。そこがボイトレもやっている会社だったので、じゃあちょっとやってみようかなって。そこからオリジナル曲を作ってみたら?ということになって、初めて自分で作ったのが「MOMENT of the WIND」という曲なんですけど、それはちょっとアニソンっぽくしたかったんですよね。で、藍井エイルさんの作曲をされている安田貴広(Ao)さんは、北海道でバンド活動している方だったので、もしかしたら伝手でいけるかもしれないと思って、お姉ちゃんを送ったんです。ちょっと行ってきて!って(笑)。そしたら依頼を受けているとのことだったので、アレンジをお願いして。だから、自分の人生を変えた楽曲を作った作家さんにお願いできたんですよ。その方が私のことをちょっと広めてくれて、藍井エイルさんのファンの方も知ってくださったりしたんですけど。
──自分の人生を変えた曲を作った作家さんにアレンジをお願いできたのは嬉しいですよね。
めちゃくちゃ感動しましたね。アレンジしてくださったこともそうだし、自分の作ったものがこんなふうになるんだ!って。そのときに、シンガソングライターというか、もっと自分の作品を残していこうと思いました。そこから曲を作り出したんですけど、やっぱりどうしてもアニメの主題歌を歌いたかったんですよ。今ならわかるんですけど、やっぱりアニメの曲を出すとなると、いろんな話が絡んでくるじゃないですか。当時はそんなことも知らなかったので、いつでも使われていいように、全部アニソン寄りの曲にしていました。
気づいたら、電気と、ガスと、なんなら携帯まで止まっていて(笑)
タバサリサ
──なるほど。そこからライヴ活動をスタートされて。
都内のライヴハウスにデモを送って、合うイベントに入れてもらっていたんですけど……なんか、神様のいたずらなのか、初めて出たライヴってお客さんが3人しかいなかったのに、その中のひとりがいまだに通ってくれているんですよ。しばらくお客さんができなかったら、向いていないなと思ってやめていたと思うんですけど、少ない人数の中でファンができたことが嬉しかったし、私、行ける!と思っちゃって(笑)。そこからずっとライヴハウスで活動をしていたんですけど、このままだとお客さんは増えても20~30人だろうと。それで何か良い方法はないかと思って、ワンマンをやろうと思ったんです。
──だいぶ攻めますね。
攻めがちなんですよ。攻めすぎて精神がやられて、最終的に活動休止したんですけど(苦笑)。で、なんとかしなきゃと思って、ネット配信のオーディションに出たんです。まだSHOWROOMが出始めの頃だったんですけど、そのオーディションは、上位2位までがオープニングアクトとしてライヴに出演できるというものだったんです。それが『ちばアニ』というアニメのイベントで、これに出たいと思ったし、出たら自分の中で何かが変わるんじゃないかなと思って。そのオーディションに参加したら、いつもライヴに来てくれる方たちとか、藍井エイルさんのファンの方々も応援してくれて、なんとかオープニングアクトの出演権を獲得できました。その3ヶ月後にワンマンがあったんですけど、最初はが5枚しか売れてなくてどうしようと思っていたら、最終的に80人ぐらい来てくれて。
──おおー。
それがやっぱりすごく嬉しかったし、なぜかもっといけると思ってしまって、「半年後、渋谷eggmanでワンマンやります!」って、会場を押さえちゃったんです。その後はご想像通りと言いますか……(笑)。なんていうか、ライヴをやるときは絶対にバンドを入れたかったし、バンドメンバーのレベルも下げられなかったんです。そこのクオリティは絶対に落としたくなかったので。でも、ライヴをやるごとに毎回20〜30万は赤字になっちゃうんですよね。毎月それだけの金額が飛んで行って、気づいたら、電気と、ガスと、なんなら携帯まで止まっていて(笑)。
タバサリサ
──ボロボロじゃないですか……。
とにかくなんとかしなきゃと思って動くんですけど、ライヴの集客もない、動画の再生回数も少ない、いろんなものが止まるってなったときに、やっぱり限界が来たんです。今はもう全然健康なので笑って聞いていただきたいんですけど、耳が聞こえなくなっちゃったんですよ。
──全然笑えないですって!
(笑)。なんか、突発性難聴になってしまって。
──めっちゃ軽く言いますね(苦笑)。
で、さすがにヤバいと思って、一旦全部ストップしたんですけど、休んでいる間に世の中がコロナ禍になってたんですよね。物理的にライヴができない状況になってしまって。だから、戻ってくるにしてもどうしようと思って。でも、特に何も言わずに休んでしまって、何も言わずに復活することになるから、自分ができる範囲でいいから、変わらず聴いてくれている人達に、何かお土産を持っていきたいなって。それで、これまで出した曲のMVを作って配信し始めたんです。
もうちょっとシンプルになったというか。自分のやりたいものを出していこうかなって。
タバサリサ
──現在は8本のミュージックビデオを毎週1本ずつアップする企画を行われていますが、そういうキッカケだったんですね。ただ、お土産を持っていくのはすごく素敵なことですけど、MVを8本作るのってかなり大変だし、やっぱり攻めてるというか。
そうですね、変わってなかったです(笑)。
──撮影された中で、特に思い入れがあるMVを挙げるとすると?
「勿忘草」ですね。今までは恋愛とか、ファンに向けてとか、ざっくりとした感じで曲を作っていたんですけど、この曲は、初めてひとりの人に目掛けて作ったんです。
──どんな方なんですか?
ライヴを観に来てくれた方なんですけど、私ではなく、サポートメンバーのファンだったんですよ。感受性が強い方なのか、ライヴにすごく感動したみたいで、涙ながらにそのことを直接伝えてくれて。そういう気持ちを伝えるのって、すごく勇気がいるじゃないですか。きっと心が綺麗な人なんだろうなと思って、SNSを見に行ったんです。そしたら、その方がご家族を、直前に亡くされていたんですよね。それがなんだかすごく気になってしまって、何か救ってあげられないかと思って作ったのが「勿忘草」なんです。歌詞からして恋愛の曲と思われがちではあるんですけど、実は人の生き死にについて書いていて。
──そういった出来事から生まれた楽曲を撮影されたと。
撮影の前に監督にそのことを話したら、すごく印象に残ったみたいで。で、スケジュール的に1日で5本MVを撮ることになっていて、「勿忘草」が1本目の撮影だったんです。それで普通に歌っていたら、監督に止められて、「この曲はそんな曲じゃないから!」って。いや、私の曲だけど!?って思ったんですけど(笑)、監督も感受性が強い方なので、「そんな軽い曲じゃない! そんな薄く歌わないで!」って。もう何回も止められて、撮影がすごい押しちゃったんですけど、心を込めて歌っていたら涙が出てきたんです。MV撮影でここまで深く入り込めたのは初めてだったし、アーティストとしてこういうふうになれたのも初めてだなって。
──思い出深い作品になりましたね。再始動してからは曲も作り出しているんですか?
現在水面下で進行しているプロジェクトがありまして、ファンの皆様にお伝えできるまでもう少しお時間もらえたらと。でも、昔はアニソン歌手じゃないと嫌だ!っていう気持ちがあったんですけど、休んでからは、そこにこだわりすぎなくてもいいのかなという気持ちが大きくなりました。このまま活動を続けて、そういうタイミングや導かれるものがあれば、もちろん歌わせていただきたいんですけど、もうちょっとシンプルになったというか。自分のやりたいものを出していこうかなって。アニソンっぽい楽曲となると、たとえばライヴだとコールが多少あったり、お客さんがペンライトを振って……みたいなところをイメージして作っていたけど、そうじゃなくてもいいかなと思うようになりました。
──そう思ったのは、あまりライヴができないという世の中の状況とリンクしているところもあるんでしょうか。
ああ。そうかもしれないですね。なんていうか、休止をする前って、やっぱりワンマンをやってナンボみたいなところがあったんですよ。でも、そういった縛りがなくなったというか。
──ライヴをすることに対して、ちょっと重荷に感じてしまっていた時期もあったんですか?
すごくありました。やっぱりライヴって、聴いてくれる人がいてやるものというのをすごく実感したんですよね。昔は自己満足だったと思うんです。ワンマンがやりたいとか、ライヴをやるときはバンドを入れたいとか。もちろんそういう勢いが大事なときもあるんだけど、やっぱりそれって全部自分のためだったんですよね。でも、やっぱり本来、ライヴってお客さんのためのものじゃないですか。聴いてくれる人がいないとライヴは成立しないし、聴いてくれる人がまた増えてきたら、この曲をライヴで届けたいという気持ちも出てくると思うんですけど。でも、今はまだそこまで行けていないというか、最初の作品を出したときよりも新人だと思うんです。いろいろ失敗もしたし、お金もなくなったので(笑)。
私、プラネタリウムのプロデュースをしてみたいんですよ
タバサリサ
──これからどんな活動をしていきたいですか?
すごくシンプルな感じになっちゃいますけど、やっぱりもう一度アルバムを出したいですね。あと、今まではロック系だったり、煌びやかなJ-POPサウンドみたいな感じでしたけど、ダンスミュージック寄りなものにも挑戦していきたいなって。ユーロビートとか好きなので。
──そこはパラパラをやっていたからこそな部分ですね。その先の夢とか野望みたいなものはあります?
なんだろうな……私、プラネタリウムのプロデュースをしてみたいんですよ。やっぱりちょっと根暗な部分があるのか、ひとりでプラネタリウムに行くのが好きなんです。こういう状況なので、なかなか行けないことも多いんですけど、閉館していない限り、2週間に1回ぐらいは行っていて。都内のプラネタリウムに関しては、自分で表を作って、ここは星いくつみたいな(笑)。
──採点してるんですか!?
そうです(笑)。世界観とか、ナレーションとか。そういうのを全部プロデュースしてみたいんですよね。楽曲だけじゃなくて。
──ああ。なるほど。プラネタリウムとなると、その空間や世界観をひとつ丸ごと作る感じになりますからね。
そうそう! そうなんです。曲だけじゃなくて、こういうコンセプトにしましょうとか、こういうテイストにしましょうっていうのをやりたくて。そうやって世界観を丸ごと作ることに憧れがあるんだと思います。
──何かを作りたい、残したいという気持ちがやはり強いんですね。
そうですね。やっぱりクリエイティブなことをしないと生きていけないタイプなんだなっていうのも、休んでみてよくわかりました。やっぱりフツーに就職できるタイプじゃないんだなって(笑)。
取材・文=山口哲生 Photo by 菊池貴裕