「“想定外”の演劇が待ち受けているだろう」~9/24開幕、作 谷碧仁・演出 シライケイタによるPARCO PRODUCE2022『ホームレッスン』
PARCO PRODUCE2022『ホームレッスン』
2022年9月24日(土)より紀伊國屋ホールにて、PARCO PRODUCE2022『ホームレッスン』が開幕する。その上演台本についてレポートする、というお声がけを頂いた時、正直なところ「困ったな」と思った。なぜなら、私は元よりこの作品を観劇しようと決めていたからである。
綺麗に整えられた家のリビングで「家族」と思しき人が5名。みな笑顔である。そんなチラシのビジュアルだけを見ると、仲睦まじい家族が送る温かなホームドラマのような演劇を想像する人も多いだろう。しかし、その上部に「作:谷碧仁 演出:シライケイタ」という名前を見て、「いやはや、それでは済まないだろう」と腹を括った。物語にも演出にもきっと「想定外」なことが起こる。このタッグならば、この仲睦まじそうな家族の、いや一人ひとりの人間そのものの中に潜在するひやりとするような本質を「なかったこと」には出来ないまでに暴くに違いない。そう思って、手帳の観劇リストに『ホームレッスン』と付け加えた。人間の「怖いもの見たさ」と言う好奇心は本当に恐ろしい。
谷碧仁が主宰し、作・演出を手がける劇団時間制作の舞台を初めて観たのは2年ほど前のこと、東京芸術劇場で上演された『迷子』という作品だった。3つの家族に起きたある不幸な事故、それを巡る「正義」の衝突がそれぞれの家族にひとつふたつと影を落としていく。過去を終わらせるとはどういうことか。それは果たして可能なのだろうか。痛々しい記憶との邂逅にどこまでもズームし、心の奥底で蓋をしていた、いや、本来蓋など閉まるはずもないほど荒れて膨れ上がった傷を再び切り開いていくような演劇は、痛く、苦しくも、劇団の掲げる「人間が見てみぬふりをしている現実、感情と向き合う時間を制作」しており、その衝撃作は誰でもない観劇後の私の心を「迷子」にした。
今作もまた、『ホームレッスン』と言うその文字通り「家族」を巡る物語である。
一見どこにでもありそうな幸せな家庭は、長女の妊娠・結婚を機に揺らぎ始める。
家族が内側に抱えるある問題にメスを入れるのは、外側から来た人間・長女の婚約者であった。
中学教諭の伊藤大夢は、結婚の挨拶のため恋人である三上花蓮の家を初めて訪れる。結婚よりも前に子どもができてしまったこともあり、緊張しながら三上家の食卓に座るも、この家族の会話はどうもおかしいのだ。大夢が発言をする度に「1点」「2点」と何やら「点数」を口にする母・奈津子を筆頭に、父・歳三も花蓮も何かに則って会話を進めている。それもそのはずだった。三上家には独自に作られた“100の家訓”があり、家族はみなそれを厳格に守って生活していたのである。余談だが、私の通っていた中学には「昼食を学校外の店で買う場合、惣菜パンと牛乳は可、菓子パン・おにぎり・ペットボトル飲料は不可とする」という“とんでも校則”があった。今となっては甚だ疑問の校則であるが、三上家にはそれに匹敵、または超越する“とんでも家訓”が多数存在するので、どうか聞き逃さないでほしい。その一例はこうだ。
2条 「家訓について決して他言してはならない」
8条 「正しい箸の持ち方以外をしてはならない」
35条 「食後の踊りを疎かにしてはならない」
54条 「相手の言葉をオウム返しにしてはならない」
「踊りって?」「オウム返しもダメなの?」と思わず聞き返したくなるが、今私が三上家の食卓でそう口に出していたならば、この地点ですでに2点の減点。家訓には内容に応じて点数がそれぞれついているのだ。踊りは5点、オウム返しは1点、ちなみに2条を破ると20点。減点にはやはりペナルティがあるのだろうか。家訓は「〇〇しなければならない」ではなく、「○○してはならない」と禁止形である。禁止というものは往々にしてそれに至る出来事があるはずだ。この家訓の背景には一体どんな出来事があったのだろうか。
と、ここまでが上演台本の最初のシーンを読み終えたところ、上演時間に換算すると、15分前後ほどだろうか。たったこれだけの時間でもうこの物語ののっぴきならない怪しさにすっかり魅了されてしまっている。続きは客席で観たいところだが、心して読み進める。違和感を抱えながらも「自分の家族を持つこと」に強い憧れを持っていた大夢は、そのまま三上家で家族とともに暮らし始める。妙な家訓にも慣れ、両親とも打ち解けてきたある日、大夢は家の物置部屋でもうひとりの家族に遭遇する。花蓮の弟で三上家の長男の朔太郎であった。
「さすがにおかしい」。そう感じた大夢はある行動に出る。ここから三上家に定められた「家訓」という名の「ルール」を巡って、家族の歪みが徐々に詳らかになっていく。残念ながら、物語について触れられるのはここまでである。ここから先に起こる“想定外”の出来事については、是非客席で目撃してほしい。
ここからはネタバレを避けながら、上演台本の魅力について少し記したいと思う。
台本は会話が大半を占め、ト書きは少ない。しかし、その会話の応酬には三上家に走る緊張と緩和が温度感を伴ってまざまざと表出されている。時折、挿入される登場人物の<独白>もまた特徴のひとつだろう。この<独白>の言葉がまた興味深い。物語上の重要なキーとして作用することは勿論、言葉のチョイスに谷碧仁という作家の持ち味でもある「当然に対する疑問」が忍び込んでいるように感じる。「当然」は、辞書によると「だれが考えてもそうであるはずだという意を表す時に使う語。あたりまえ」とある。しかし、この物語は、終始こう問うている気がするのである。
「だれが考えてもそうであるはず」のものなど、果たして存在するのか? と。
「ルール」や「規則」もそうである。特定のコミュニティに設定されるそれらは、その内側にいる人間にとっては「そうであるはず」のものであり、“当然”守るべきもの、とされている。
しかし、その「当然」に疑問を持たず、または疑問を打ち消す存在への畏怖によってそれらを遂行していく内にマインドコントロール状態になり、悲惨な結果になってしまった出来事もこの世の中にはある。
台本を読みながら、私は数年前に新宿で観たある演劇のことを思い出していた。
本作の演出を担う、温泉ドラゴンのメンバーであり劇作家のシライケイタが上演台本・演出を手がけた若松孝二生誕80年祭特別企画 舞台版『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』である。忘れえない、凄まじい劇体験だった。「山岳ベース事件」を題材にしたこの演劇でも、特定のコミュニティにおける「ルール」を破った人間が「自己批判」をする様、さらには、“自己”の“批判”だけでは済まない事態になっていく様相が生々しく描かれていた。ひとつふたつと消えていく命の火を前にこの手に握らされたのはやはり人間の潜在的な暴力性であった。
これまでも、数々の作品で人間の「潜在的な本質」を痛いまでに生々しくあぶり出してきた谷碧仁とシライケイタという二人の劇作家・演出家のタッグによって描かれる『ホームレッスン』という作品は、私たち観客を忽ち人間の心の深淵へと引き摺り込んで行くだろう、と改めて覚悟する。
「家族」という最も身近なコミュニティと「家訓」という最も内なるルール。演劇を介してそれらを解体・縫合する本作には、多かれ少なかれ見覚えのある風景も出てくるのではないだろうか。人間の複雑さと脆弱さ、そしてその得体の知れなさ。台本の言葉を一部拝借するならば、昼とも夜ともつかない夕方や、大人とも子どもともつかない18歳、そして、幸せでなければ不幸で、不幸でなければ幸せなのかという問い。「境目があやふやなもの」が溢れる世の中で「当然」とされていることに「適合」することは、果たして幸か不幸か。
台本を読み終えて、再びチラシに目をやる。相変わらずそこには「家族」の笑顔があるが、同じはずの表情が台本を読む前とは全く違う手触りで心に落ちてくる。言葉がかける魔法というものはいつだって素晴らしく、そして恐ろしい。チラシをさらに近づけてみると、その画がところどころ継ぎ接ぎのようになっていることに気づく。目を凝らしてみなければわからないほどのわずかなモザイク。「見てみぬふり」をしようと思えばできるような不具合だが、家族の様相を示唆しているように思えてならない。
しかし、こんな風にチラシを横目にあれこれ想像しつつ台本を夢中で読んだところで、その物語がどんな風景として立ち上がるのか、どんな劇世界になるのかは全く未知数なのであった。言うまでもなく、その劇世界には俳優の存在がとても大きい。谷碧仁の言葉の魔法に加えて、田中俊介、武田玲奈、堀夏喜、宮地雅子、堀部圭亮という5名の個性溢れる俳優の魅力とシライケイタの演出の魔法が合わさる時、そこにはやはり“想定外”の演劇が待ち受けているだろうと待望する。上演を楽しみにしていたからこそ、それに先駆けて台本を読むことに「困ったな」と感じた私であるが、今はそんな待望の仕方もこれはこれで贅沢なのではないかと思っている。
文=丘田ミイ子
公演情報
会場:紀伊國屋ホール
演出:シライケイタ
出演:田中俊介、武田玲奈、堀 夏喜(FANTASTICS from EXILE TRIBE)、宮地雅子、堀部圭亮
公式サイト https://stage.parco.jp/program/homelesson/
ハッシュタグ #舞台ホームレッスン
一般発売日:2022年8月20日(土)
企画・製作:株式会社パルコ
公演に関するお問合せ パルコステージ 03-3477-5858(時間短縮営業中) https://stage.parco.jp/