《連載》もっと文楽!~文楽技芸員インタビュー~ Vol. 8 竹澤團七(文楽三味線弾き)

2024.4.12
インタビュー
舞台

厳しく優しかった彌七師匠

1953年8月に入門し、内弟子としての修業をスタートさせた團七さん。

「内弟子時代は、朝6時頃に起きて、家中、雑巾掛けをして、師匠のお子さん3人が学校へ行く前にご飯を食べさせて、片付けて……。でも、ご飯を食べさせてもらって、一番肝心なお稽古をしてもらえるんだもの。そんなこと、苦労だなんて思わなかった」

翌年1月、竹澤團二郎の名で、大阪の四ツ橋文楽座にて初舞台。「入門した時には、舞台に出るどころか三味線の調子もロクに合わない状態。それから半年で舞台に出るよう頑張りました」と胸を張る。

「大変だったのは、覚えること。文楽の三味線は暗譜でしょう? 1月の初舞台で『寿式三番叟』と『壺坂観音霊験記』のツレ弾きを勤めて、1月の大阪公演が終わったら、1月末に名古屋の公演が6日間。公演は朝の10時過ぎから夜9時過ぎまであり、一部にだいたい4つ出し物があって、必ず昼夜共に道行物や景事物が出るから、大抵それに出してもらう。で、その時分、東京の新橋演舞場でもそうでしたけど、二の替わりと言って、中日から狂言が全部変わるんですよ。だから1月の公演の最中に、次の名古屋の公演のために『団子売』と『義経千本桜』の道行の2つを覚えて、名古屋の公演の後半に向けて『釣女』を覚えなきゃいけない。『なんで俺、こんなに頭悪いんだろう』と焦ったものです。覚えにくいと言えば、袴の畳み方もね。自分の袴だけではなく、師匠はもちろん、先輩方の袴も畳まなければならない。それまでは触ったこともなかったですから」

ただでさえ、初舞台を踏んだばかりで余裕のない中、さらに結核にもかかってしまう。

「そんなにひどくなかったから、療養所にも入らず通い医者で治して。治るまで2年ぐらいかかりましたかね。先生がものすごい文楽ファンで、私にお金を使わせずに治してくれた。その先生のお世話になったおかげで、私は88年生きてきて、一度も入院したことがないんです」

なお、一緒に初舞台を踏んだ同期は、鶴澤清治。まだ8歳だった。

「一緒に稽古して、びっくりしましたよ。私が頭も手も動かない時代に、彼は覚えるのは早いし、手もよく動いて、すぐ弾けて。天才でしたね。清治くんが10歳下で、1年後輩の咲太夫くんが9歳下ですから、私は若く見られたかった。ジーンズを履いたのなんて、文楽では私が最初でしょうね。ある会合にジーンズ姿で寄ったら、(二世野澤)喜左衛門師匠に『なんという格好だ』と言われたことがあります。真っ赤な靴下を履いて楽屋へ上がった時には、山城師匠がじっと見て『なんという足だ』(笑)。彌七師匠はそういうことにはうるさくなかったですが、芸には怖かったですよ。お稽古をしてもらっていると、『違う!』と張扇を投げてくるから、三味線で受けて。落ちた扇を渡すと、またしばらくして飛んできて……。昔はそういうことが普通で、喜左衛門師匠なんて夢中になるとバチを投げてくるから、お弟子の(二世野澤)勝太郎師匠の顔には傷がついていました。でも彌七師匠は、2階の稽古で散々怒っても、『有難うございました』と言って下へ降りたら『おい、おやつ食べるか』。ガラッと変わる。それをこっちもわかっていました。何しろ8年も内弟子にいたんですから」

8年も内弟子修業をしたのには理由がある。

「父親が亡くなってからは貧乏で、お米が買えないから中学校にお弁当も持って行けなかったんです。文楽に入っても、自分の給料で自活できるわけがない。それをわかっているから、師匠はずっと食べさせてくれたんです。内弟子生活が終わったのは、私が結婚したくなったから。家内は20年前に亡くなりましたが、赤坂の芸者で、東京で西川流の舞踊をやっていたんです。ある時、(十七世)中村勘三郎さんと(二世)西川鯉三郎さんと(初世)尾上菊之丞さんがなさっていた『扇の会』の舞踊会で北條秀司さんの『油屋お鹿』をやることになり、私も師匠と一緒に出演したのですが、師匠の楽屋に『教えて下さい』と来たのが、芸妓役の家内でした」

厳しさと優しさを併せ持つ彌七師匠の言葉は、團七さんにとって今も大切な教えだ。

「一番は、『文楽の三味線の演奏には一バチも無駄なバチはないぞ』と言われたこと。作曲者の意図はわからなくても、自分で意味づけて弾くのと弾かないのとでは随分違う。一バチずつ、情景と情の描写をしなさい、と。いちいち考えるわけではなく、瞬間にそうならなきゃいけないんです。『音のないところを弾け』とも言われました。小説で言うなら行間。そこで仕事をする演奏ができなければ、プロとは言えないんです」

彌七師匠と。       提供:竹澤團七


 

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