奇才キム・ギドク監督、壮絶な暴力表現に込めた真意を告白

2016.1.14
インタビュー
アート


韓国が生んだ奇才中の奇才、キム・ギドク監督。『嘆きのピエタ』(12)、『メビウス』(13)と、近年も生と性をむき出しに描いた衝撃作を発表し、暴力性と叙情性を見事に両立させた作風で、観る者の心を激しく波立たせてきた。監督最新作『殺されたミンジュ』(1月16日公開)は、いまの鬱屈した社会に一矢を報いようとする、痛烈な意欲作である。来日したキム・ギドク監督に単独インタビューし、暴力描写に裏打ちされた社会の不条理さについて語ってもらった。

『殺されたミンジュ』は、ある少女の無残な殺人事件で幕を開ける。事件から1年後、ミンジュの死の真相を執拗に追いかける謎の集団が、事件に関与した男たちを襲い、制裁を与えていく。果たしてミンジュは誰に殺されたのか?そして、武装集団の真意とは?

今回キム・ギドク監督は、韓国の社会問題に斬り込んだ。「本作は、韓国の現在の政治状況を比喩した物語です。民主主義国家だと言われていますが、実際には全くそうではなく、人々は愚かな状況を受け入れながら生きています」。

いろんなコスチュームをまとったテロリストたちが、拉致した男たちを拷問していくシーンが強烈だ。「テロリストたちが7回、コスチュームを変えて登場します。ある時は国家諜報員だったり、特殊部隊だったり、米軍だったり、暴力団員のようだったりと、7回衣装を変えています。それは、朝鮮戦争以降の韓国の現代史の事件を風刺しているからです。彼らは5・16軍事クーデターや、光州事件を起こした軍人であったり、韓国にいまも駐屯している米軍だったり、政治などにも絡んでいる暴力団だったりするわけです。すなわち、韓国の人々が、民主化を求める過程で背負った歴史のトラウマを表現したかったのです」。

いつもながら、目を背けたくなるような拷問シーンもあるが、その暴力描写が激しければ激しいほど、悲しみや絶望感も色濃く浮き彫りになる。それは、ある意味、キム・ギドク監督の慟哭でもあるのではないか。「そうですね。観客が映画を観て辛いと感じることは、私自身も経験しているものです。映画を撮りながらも、かなり危険で、もしかしたら事故につながりかねないシーンもありましたし。ただ、撮る側は、この苦痛を伝えなければいけないと腹をすえて、演出をしているわけです」。

正義と悪、暴力と非暴力という価値観は、中盤から錯綜していく。暴力におけるアイロニカルな表現が、キム・ギドク監督作における真骨頂だ。「彼らは、暴力で暴力を精算しようとするが、そんなことをして一体何になりますか?結局また、暴力のための暴力を生み出していく。これは危険な発言かもしれないけど、暴力はある種、人間が生きていくうえでのエネルギーなのかもしれない。それは、悲劇的な答えでもあります」。

劇中で「人を殴っても全く解決にならない」と直接的に訴えかけるシーンもあるが、そのことについて監督は「私の希望的な願いです」と言う。「世の中が少しでも良くなってほしいと願う意味が込められています。でも、結局、この世から暴力はなくならない。私は、その理由を知りたくて、こういう映画を撮り続けているんだとも思います」。

カンヌ、ベルリン、ヴェネチア、世界三大映画祭を制し、世界中から熱い眼差しを受けているキム・ギドク監督。『殺されたミンジュ』は、記念すべき長編監督作20本目となる。

「私は、20年間、一生懸命映画を撮ってきました。それはお金儲けのためではなく、私自身が人間や社会をどのように見つめているのかを表現していきたいと思ったからです。その結果、各国で私の映画を観てくださる方たちも増えていき、それに伴う責任感も改めて重く感じるようにはなってきました。ただ、人類にはこの先も、いろんな悲しいことが起きていくでしょうし、私はそれを映し出し、何かを貢献できるよう、これからも模索していくつもりです。政治の方が映画よりも遥かに強い力をもっているのでしょうけど、私は映画にも人類に何か変化をもたらす役割があるのではないかと考えています」。【取材・文/山崎伸子】