四国を代表するイベンター・DUKE 宮垣睦男会長ロングインタビュー、創立50年の歴史、香川の野外フェス『MONSTER baSH』の誕生秘話を語る

2025.8.7
インタビュー
音楽

撮影=河上良

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四国を代表するコンサートイベンター・DUKEは、今年78歳を迎える宮垣睦男会長が1976年の大学生時代に立ち上げた。元々は、その3年ほど前の高知大学在籍中に好きなフォークシンガーを学園祭へ呼びたいと動いたことから始まり、今に繋がっていく。加川良、高田渡、友部正人、遠藤賢司、三上寛、泉谷しげる、井上陽水など名だたるミュージシャンを高知に呼んでコンサートを開催し、いつの間にやら四国ツアーまで手掛け、松山千春、小田和正らといったレジェンドたちから今もなお愛され続けている。

2000年には四国を代表する野外フェス『MONSTER baSH』を本格的にスタートさせて、今年でDUKEも50周年を迎えた。今回SPICEでのインタビューを通して、あくまで好きなこと・やりたいことを続けてきただけで、当時は会社という発想もなかったという驚きの事実も話してもらえた。それにしても、何故ここまで四国民から愛され、アーティストたちからも信頼され愛され続けているのかに迫った。最後は坂本龍馬の話題まで飛び出した壮大であり、何よりも誠実真摯なインタビューを是非とも読んでいただきたい。

ーーDUKEを設立されて50周年を迎えられました。

そうですね、1976年の昭和51年からですね。その前の3年くらいは、大学生で確定申告をする個人事業主といった発想がなかったですから。それが会社を立ち上げざるを得ないくらいに大きくなったので。

ーー 一番最初は大学の学園祭にフォークシンガーの加川良さんをお呼びされたところから始まったのですよね?

昭和47年、高知大学の学園祭にお呼びしたいと交渉して内定が出ていたんですが、事務所から加川良がふらっと出かけて連絡が取れないときて。「そのかわり誰か希望があるか? 何でもする」と言われて、遠藤賢司が空いてると。それで高田渡、友部正人、遠藤賢司の3人でイベントを開催して、満員で盛大に終わったんです。でも、自分としてはどうしても加川良とやりたいと。なので、その年の4月の新入生歓迎会の実行委員として三上寛のコンサートの手伝いもしていたので、加川良と三上寛のクリスマスジョイントコンサートを開催しました。それも売り切れて、興行成績としては素人ながら良かったと思います。

ーー学園祭とクリスマスコンサートは共に大学の講堂や体育館で開催されたのですよね?

いやいや、高新ホールという950席のホールですね。学園祭とは名ばかりで、勝手に名付けて発表して、売り出していたので。当時、高知には、このホールしかなかったので、ほとんどの催し物はここで行われていましたね。

ーーてっきり学校内で開催したのだと思っていました。

学生に特化したくなくて。だけど学生の特権を使ったので、高知放送などのメディア媒体にも話をもっていきやすくて。おもしろがって接してくれましたね。時代的にいうとデタラメな学生だったし、学校も「どうぞ勝手にやって下さい」くらいの時代で。

ーーということは、学校から補助金や支援金などの資金は一切出ていないということですよね。

正規の学園祭とかの催し物ではないので、引け目があって申請する気もなかった。キャンパスの名を使えば何をやってもいいという考えだったし、何かをやっちゃいけないという考えもなかったですね。若松孝二監督のピンク映画を教室で流そうとしたりしてましたから(笑)。

ーー時代的には学生運動の頃ですよね。

70年安保闘争があり、高知大学も時流に乗って、それなりに学生運動もありました。でも勢力が落ちていき、ノンポリ的な動きもぽつぽつ出てきてね。日本のフォークソングは反戦の岡林信康や高石ともやなどの関西フォークと、小室等のカレッジフォークの両建てだったと思いますね。高知は関西の影響が強かったかも知れないです。僕は大学に入った時にフォークソング同好会に自ら入部した奴なんですね。先輩からギターや歌ができるかと聞かれたけど、「できません」と言って。それに浪人と病気もあったりして、3年かかって入学しているので、同級生とは3歳差があったので、とてつもなく偉そうで図々しい奴だと思われていたでしょうね。それで男ふたり女ふたりのユニットを作らされて、カレッジフォークのコピーをしろと言われたんだけど、つまらないし情けなくて。夏休み前には全く行かなくなって、夏休みで地元の九州に行って高知に帰ってきたら、ヘルメットを被った人がいて騒然としていましたね。その頃は斜に構えて見ている方がおもしろかった。でも、新入生歓迎会で三上寛を手伝った時はヘルメットを被る側にいて、夜に教室を貸せと学校と不毛の論争をしたりしていましたね。

ーー大学生時代は将来イベンターで食べていこうなんて思ってなかったんですよね?

全く。俗にいうサラリーマンでもするしかないのかなと。そんな中、東京の事務所からコンサートオファーがあって、泉谷しげるが(1971年に)デビューした翌年でね。「そんなことができるのか!?」と驚いたけど、加川良とのジョイントコンサートをしていいよと言われて、また高新ホールでやったら超満員。だから、出演料、宿泊料、打ち上げ代を出しても、お金が残るわけです。通帳に何十万もお金があったけど、その頃の下宿は4000円とかでしたから。これで何かできるのではと、大学の農学部があった近くの高知空港あたりで「コーヒーハウスDUKE」を学生4人で始めて。授業もパズルで組み合わせて、4人のシフトを作りましたね。アパートの大家さんが元々ドライブインレストランだった場所を貸してくれて、2階は宴会場だったのですが、そこに住み着いてしまいました。もちろんタダでは貸してもらえないし、ビジネスとして喫茶店になかなかお客さんが入るものではないともわかっていたので、そこでライブハウスができないかと。喫茶店は夕方6時に終わって、机や椅子を取っ払って、コンサートを始めました。(出演者が)上にも泊まっていけるしね。

ーー喫茶店がライブハウスになり、出演者が寝泊まりもできる場所に。

加川良も開店の時に手伝っていましたよ。<国道55号線を走ってコーヒーハウスデュークまで>という歌(「かかしのブルース」)を、キングレコードのベルウッド(レーベル)から出していましたね。1週間くらい滞在していたのかな。チャーハンやスパゲッティを喫茶店で作っていたから、食材はあるので、泊まって飯を食ってね。井上陽水も喫茶店が始まる年(1971年)にデビューしたけど、四国3ヶ所でコンサートをしたり。斎藤哲夫もいて、その時のギターが白井良明(ムーンライダーズ)。山崎ハコの旦那の安田裕美がギタリストでいたりとかという時代ですよ。今年の4月にDUKE50周年で友部正人・大塚まさじのコンサートをやったけど、その頃の会社になる前のDUKEの思い出話もしましたよ。

ーーすごい時代です。

当時、全てのコンサートの問い合わせは「コーヒーハウスDUKE」の公衆電話でした。前年四国でコンサートをした陽水は翌年も来て、その時のバックバンドが鈴木ヒロミツや星勝のザ・モップス。も即完して売り上げが入って精算しても、通帳に結構な額が残ってね。その少し前に「コーヒーハウスDUKE」を始めた4人でこのまま続けるか否かも話し合っていたんです。やってられないという奴らと、仕方なしにやらないといけないという僕ともうひとりの相方がいて。僕と彼は喫茶店を畳んで一緒にコンサート事務所をやろうと。​喫茶店は南国市にあったんだけど高知市内のマンションに引越しをして、コンサート専門の事務所を寝室も兼ねて作った。その頃もまだ法人化はしてなかったし、いつでも辞められるという逃げ道として大学の籍も延ばし延ばしにして。当時、事務所は高知だけど、松山でも高松でもコンサートをやれると東京の事務所に言って、四国ツアーという形も本格的にスタートさせた。松山市民会館や高松市民会館が取れたら、東京の事務所に提案してツアーが成立していた。夜にポスター貼りもしていたな。出演者に払うギャランティーの源泉という言葉も知らない時で、税務署から確定申告を確認されてね。学生たちが(コンサート興業のイベンターとして)メインストリームになってきたので、東京の事務所からも「とにかく法人化した方が良い」とアドバイスされて、本屋で会社の作り方についての本を買って書類を作って、司法書士さんのところに行って、呆れた顔をされながらも色々と教えてもらいました。だから、発想としては会社をやろうなんて別になかった。

ーーその会社が50年も続くなんて……。

全く思わなかったです。そしたら銀行から金を貸すから不動産を買ったらと連絡があったりして、中古の建物を買って会社らしくなってきた。それが6、7年目くらいかな。20年目くらいには資金繰りも良かったので、また違う銀行から連絡があって、またお金を借りることになってね。それは腹を括らんとアカンくらいのお金で、それで事務所の上にライブハウスを作った。それが1991年。槇原敬之にも事務所の上のライブハウスで歌ってもらいましたよ。それからレコードショップの・DUKE SHOPも作ったりしたね。その頃のライブハウスはもうないけど、後の高知X-pt.(クロスポイント/2006年オープン)に繋がっていきます。

ーー大学生が何気に始めたことが50年も続く大企業になって、あの松山千春さんが「俺たちは宮垣が一声かければ、四国どこでも駆けつける」とおっしゃるくらいまでの関係性を築かれるのは本当に凄すぎます。

そういう時代だったというか。当時は胡散臭い芸能事と思われて、社会的信頼もない職種だと思われていたんでしょうね。でも、俺たちは、そういう会社とは違って、アーティストというカテゴリーを確立して、表現する場を用意して、そういうやり取りがずっと続いていった。興行には委託と手打ちがあって、大きなイベントは委託なんです。リスクは負わないけど楽しくはない。手打ちはリスクを背負うけど緊張感がある。それがこの仕事を続けていくキッカケとなったし、こういうビジネスを成立させてきた自負はあります。全国各地の同時代のイベンターは、みんな同じ場を踏んできてる。

ーー2022年開催の『MONSTER baSH』では、50年来の付き合いがある小田和正さんが出演されて、「最後のお願いかも知れない」と急遽楽曲変更されてまで、宮垣さんのリクエストにサプライズで応えられたのには胸にくるものがありました……。昔から宮垣さんは、コンサートの構成や曲順についてうるさかったとも、小田さんは振り返られていますよね。

こないだ斎藤哲夫にも、歌う曲を出して見せてもらって「曲順ちょっと違うかも」と言ったら「相変わらずうるせーよ!」と言われましたね(笑)。だけど客の立場としては、この曲が入ってないと納得しないということがある。だから、楽屋で入れ替えたり修正してもらったりしました。当時は、そんなことを言う奴がいなかったんじゃないかな。相手が売れてないから言えたんだろうし。でも、みんなライブは当時から凄かったのでリスペクトはしていましたけど、「できることならば、こうしましょう」と言えることは言い続けてきたつもり。『MONSTER baSH』の時に、小田の大将はセットリストになかった「東京の空」をワンコーラス歌ったんだよね。MCの時には涙が出てきたし、お客さんたちからも「良かった!」と言われたから、大将には「次のツアーでもやったら」と言ったけど、せせら笑いされたね。「やっぱり名曲だし、今の時代だからこそ歌った方が良い」と言っているから、またいつか歌うんじゃないかな。今年のツアーが最後かもしれないとも言っているけど、声も出ているし、もっとやれるんじゃないのと思っているから、追加公演をけしかけようかな(笑)。

ーーそんなことを小田さんに言えるのは、宮垣さんだけですよ。そして、僕が本当に凄くて素晴らしいなと思うのは、同世代の方々だけでなく、三回りも離れた息子世代で地元四国のバンドである四星球への強い気持ち、強い愛なんですよね。それこそ2022年の『MONSTER baSH』で北島康雄君が話していたんですけど、2008年に弱冠25歳で『MONSTER baSH』初出場した時に、本番前にプロフェッショナルな現場スタッフの職人さんたちに緊張しながら、四星球特有の細かいライブ構成演出を説明していたらしいんです。そしたら、宮垣さんが現れて、康雄君の肩に手を置き、「日本一のライブバンドに育てたいと思っているので、どうぞ宜しくお願いします」と頭を下げてくれたことに感動していて……。

そういう風に康雄君は言ってくれるけど、そういう物言いしかできなかっただけでね。康雄君が全員プロのスタッフに対して一生懸命喋っているけど、今ひとつ打てど響かない。それは(スタッフも)初見だから仕方ない。僕が言うことでなんとかなればと、どういう表現が良いかなと考えて喋ったんでしょうね。その頃、インディーズで地元バンドのCDを作って出していて、必ず1回はバンドの話を聞いていたんだけど、『MONSTER baSH』に出られるレベルまで来たのは彼らが早かった。ただのお笑いじゃないぞと(スタッフに)伝えたかったんでしょうね。彼らは頑張っていますから。まぁ、そんな大袈裟な話じゃないですよ。それに自分の立場を利用してバンドとの関係性も作りたくないので。

ーーその姿勢が本当に素敵だと思います。やはり地元四国のバンドを育てたいという想いもあるのでしょうか?

育てたいというか、機会を量産させたい。「お前ら頑張れよ!」と思っているし、ステップアップして(DUKEを)使ってくれと。こちらも閉鎖したらつまらないイベントになるので。地元のスターになって欲しい。自信があるならば、(『MONSTER baSH』に)出られると思うなら言ってこいと思っているし、もしくはウチ(DUKE)が探してこいと思っているので。

ーーそんな想いを抱かれてる『MONSTER baSH』についても改めてお伺いしたいのですが、2000年に香川県綾歌町にあるテーマパークのレオマワールド内で野外イベントとして開催されましたよね。実は、その前の1996年から2000年まで毎年同じレオマワールド内で野外イベント『Supernova』が開催されています。山崎まさよし、thee michelle gun elephant、サニーデイ・サービス、GRAPEVINE、くるり、POLYSICS、MONGOL800などなど、今考えるととんでもない面子が当時新人若手として出演されていましたよね。この『Supernova』が礎となって、『MONSTER baSH』へと繋がったのではとも思っていて。

野外は当時から憧れのイベントだったので、果たしてどこが良いのかは考えていました。近くに住宅地がない場所とかを探していましたけど、なかなか見つからなくて。その時にレオマワールドが(1991年に)始まって、どこからでも開放的に観られるし、凄いなと。そしたら「使っていいよ」と言ってもらえて、『Supernova』がスタートできました。『Supernova』は超新星という意味で、そのうち凄いことになるぞ、光り輝くぞという新しいアーティストに想い入れを込めて始めましたね。ひとひとりで何かをやるのは難しいけど、one of themから全体的に何かを始めるのは意味があると思っていました。そしたら、レオマワールドが(2000年に)営業休止になって、『MONSTER baSH』の2回目(2001年度)が実現できなくなり。なので、(2001年は)アスティとくしま(徳島県)で、それも平日に2日間やりました。大コケしてしまったんですけど、翌年(2002年)にDragon Ashが音頭を取って先頭に立ってキャスティングも協力してくれて、今もやっている国営讃岐まんのう公園が会場として使わせてくれるようになったんです。

ーー1996年から2000年まで開催の『Supernova』、2000年から現在まで開催し続けている『MONSTER baSH』は、日本の野外イベント野外フェスの歴史としても、とても早い動きだったなと思っています。

流行りものには手を上げておこうという性格なので、いつか真似事をできたらいいなとは考えていました。1988年前後、愛媛県の松山総合運動公園でサザンオールスターズの野外コンサートなどがあって、野外ライブが確立する芽生えの時期だったんです。ただ、陸上競技場でもあるのでトラックの出し入れで芝生が傷んでしまい、リスクが高いから退いてしまったけど、どっかでやれないかとはずっと考えていました。なので、『Supernova』から『MONSTER baSH』の経験は大きかったと思います。

ーー『MONSTER baSH』が25年も長く続くとは思われていましたか?

どこかで止めざるを得ないだろうとは思っていました。自然の問題もありますから。今DUKEが生き残っているのは『MONSTER baSH』のせいだと思います(笑)。10人くらいしかいないしょぼい会社だったのに、今や何十人もいる忙しい会社ですから。1年間で何百本もコンサートを開催しているなんて考えられないですよ。

ーーここまでの会社に成長した要因は何だと捉えられていますか?

九州から出てきて住み着いたのが、たまたまこうなっただけで。自分の能力の範囲内でやっていたら、こうなったと。色々なデコボコはありましたけど、何かを目指したり、何か意気込んだりはなかったので。

ーー2012年には社長から代表権を持たない会長になられて、御自身とはタイプが全く違う社員の方を社長に選ばれましたよね。それは何故だったのですか?

宮垣と同じ考えの人がトップに立ったら、(自分と同じ)壁を乗り越えるのは大変でハードだろうなと。ただ、宮垣と違う視点で見ることができたら簡単じゃないかなという発想です。

ーー普通一般の大企業では家族身内で継いでいく手法もある中で、宮垣さんは完全に代表権を持たれなかったというのもそう簡単にできることではないと思うんです。

身内でやる発想は全くなかったですし、そこは関係ないので。(身内にも)昔から言っていましたしね。

ーーDUKEの未来に対しての思いなどはありますか?

その時のトップが考えたらいいわけで、こうして欲しいというのはないです。(自分が)死んだ後のことは関係ないので、どうぞ好きにやって下さいと(笑)。迷惑をかけないように引き継いでいるので。僕の見栄もあるので、これより悪くなったらお前のせい、これ以上良くなったらお前のおかげという。アドバイスしてくれとも言われますけど、アドバイスほどいい加減なことはないので。まぁ、社員がついてこない会社は駄目なんじゃないかというくらいで。

ーー代表権を持たれないで、現場も基本は離れておられますが、自分ならばこうするのにと思われたりすることはないですか?

現場が全てと思ってきましたし、中途半端に現場を知っているだけに、創業者なだけに、「もうちょっと気を利かせろ!」「もうちょっとセンス何とかならないか!」とイライラすることはありますよ(笑)。ただ、言っても無駄な場合がありますし、本人が気付くまでは仕方ないですよね。時代も違いますから。

ーー後、僕は関西出身なんですが、周りには高知出身者を含めて、四国出身者が多くて、子供の頃からテレビなども含めDUKEのことをよく知っていると言いますし、四国のコンサートと言えばDUKEだったと嬉しそうに話すのが凄い印象的なんです。

それは嬉しいですね。でも、独占状態が高い閉鎖的なエリアですから。海の向こうはアメリカ、グアムですし(笑)。今お話しして下さったみたいに、高知新聞の読者の方が、子供時代からのDUKEへの想い入れを込めてDUKE50周年についての記事を投稿して下さってね​。そういう人が結構いるんですよ。でも、自分のやりたいこと、好きなことをやっていたら飯を食えただけで。なのに、県民の人たちが自分が思う以上に、自分の商売を「青春時代でした」と言ってくれて。「DUKE SHOPにを買うために並んでいました!」とかも言われるけど、気に入られようと目指したりしたわけじゃないから。一生懸命していただけの民間企業なのに、地元の新聞やテレビやラジオもサポートしてくれましたね。

ーーやりたいこと好きなことをやっていただけとおっしゃいますが、やはりそれはとんでもなく凄いことです。

「あなたは土佐人じゃなかったから」と言う人がいてね。土佐人は土佐人を叩くんです。坂本龍馬もそれが嫌で脱藩していますから。よその人には寛容なのか、それとも何も知らんのではと思ってくれているのか、だから伸び伸び仕事ができたのではないかなと思います。有難い褒め言葉ですよね。足を引っ張られた記憶もないですから。鈍感で気付かなかっただけかもしれませんが(笑)。僕にとって高知は本当に住みやすいし、いいところなんです。

取材・文=鈴木淳史 撮影=河上良

会社情報

株式会社デューク
https://www.duke.co.jp/

イベント情報

『MONSTER baSH 2025』
日程:2025年8月23日(土)・24日(日)
時間:OPEN 9:00 / START 11:00 [予定]
会場:香川・国営讃岐まんのう公園
※雨天決行・荒天中止 ※出演者の変更・キャンセルに伴う払戻は致しません。
https://www.monsterbash.jp/

<出演アーティスト>
● 8月23日(土)
aiko / AKASAKI / ammo / カメレオン・ライム・ウーピーパイ / Chimothy→ / 超能力戦士ドリアン / go!go!vanillas / ハルカミライ / Hump Back / jo0ji / KANA-BOON / 氣志團 / Kroi / 眞名子 新 / MAN WITH A MISSION / マキシマム ザ ホルモン / 森山直太朗 / muque / My Hair is Bad / 小山田壮平 / PEDRO / 離婚伝説 / RIP SLYME / SHISHAMO / シャイトープ / SIX LOUNGE / 菅原卓郎SESSION2025 / This is LAST / T字路s / 友成空 / 打首獄門同好会
 
● 8月24日(日)
あいみょん / FRUITS ZIPPER / ガガガSP / ハンブレッダーズ / 川崎鷹也 / コレサワ / KUZIRA / LONGMAN / マルシィ / 丸山純奈 / MONGOL800 / なきごと / PIANO baSH performed by 清塚信也 / 礼賛 / レキシ / サバシスター / さかいゆう / Saucy Dog / 終活クラブ / シンガーズハイ / スキマスイッチ / SUPER BEAVER / Survive Said The Prophet (Acoustic Set) / 四星球 / 竹原ピストル / Taku Muramatsu four color sessions / Tele / 冨岡 愛 / UVERworld / 八生 / ズーカラデル

<TICKET INFO>
1日券:¥13,000
2日通し券:¥23,000 ※SOLD OUT
※入園料・消費税込み ※未就学児無料(保護者同伴条件)

【主催・問い合わせ】
デューク高松 TEL : 087-822-2520(平日11:00~17:00)
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