夜ピアノシリーズに登場 ジャン・チャクムル本人によるプログラム・ノートが到着

2025.9.4
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ミューザ川崎シンフォニーホールにて開催されている、世界の音楽界を席巻する若きピアニストが登場する『夜ピアノ』シリーズ(主催:神奈川芸術協会)。2025年10月1日(水)には、2018年浜松国際ピアノコンクール優勝のジャン・チャクムルが登場する。

トルコ出身のピアニスト、ジャン・チャクムルは、2018年浜松国際ピアノコンクール優勝者にして、2021年には「シューベルト/リスト:白鳥の歌」の録音でICMA賞(国際クラシック音楽賞)でヤング・アーティスト・オブ・ザ・イヤーを受賞するなど、多方面から称賛を受けている。夜ピアノシリーズ開催を前に、ジャン・チャクムル自らが執筆したプログラム・ノートが到着した。

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私は日ごろから、作品をどうご紹介すれば皆さんにとってより親しみやすく、より生き生きと感じられるかをよく考えます。このテキストは曲目の解説というよりも、音楽日記のようなものです。

ファジル・サイ:インサン・インサン変奏曲(2024)

ファジル・サイは非常にユニークな人物であり、芸術家です。これほどまでに社会に対する鋭い洞察力を持つ人には、滅多に出会いません。彼の作品は、その洞察を自伝のように反映しており、それは彼の音楽を理解する上で非常に重要な要素となります。

「インサン・インサン変奏曲」は、最後にしか現れない旋律をもとにした変奏曲です。この旋律は16世紀のトルコの神秘主義詩人ムヒディン・アブダルの詩に基づいて作曲されたファジル自身の歌曲「インサン・インサン」から引用されています。

They used to speak of “man, mankind” — 「人間、人類」と呼ばれていたもの——
Now I know what man may be. 今、私は人間とは何かを知った。
They used to call it “soul, the soul” — 「魂、霊魂」と呼ばれていたもの——
Now the soul is clear to me. 今、私は魂をはっきりと見ることができる。

To Muhyiddin, he says, “The Truth is Power,” ムヒディンに向けて彼はこう語る。「真実は力である」
Present in all things we see. それは私たちが見るものすべてに存在する。
What is manifest, what concealed, 何が顕在化し、何が隠され
What is the sign — now known to me. その兆候が何なのか——今、私には見えている。

この歌曲はトルコで大変な人気を博し(訳注:「インサン・インサン」はファジル・サイの公式YouTubeでも公開されており、再生回数は1,100万回を超える)、クラシックのジャンルを超えて支持されたことが変奏曲の誕生のきっかけとなったのでしょう。変奏曲のイスタンブールでの初演後、私は作品について直接彼に尋ねました。彼は一言だけ私に答えました。

「君ならわかるよ」

この作品は、この歌曲を引用することで、彼自身のより良い社会への闘いを反映し、そしてトルコで芸術家として生きることの現実の難しさを仄めかしているように私には思えます。彼がそうしたように、私もこの作品を一言で表すならこう言うでしょう。

「昔とは違うのだ」

F. シューベルト:4つの即興曲 D935 Op.142

シューベルトは、これまでの私の音楽人生で最も大きな役割を果たした作曲家かもしれません。私は子供の頃に歌曲を年代順に並べて何度も聴くほど、彼の音楽に夢中でした。初めて「4つの即興曲 D 935 Op.142」を聴いた時のことも、覚えています。もともと「4つの即興曲 D 899 Op.90」はよく聴いていて、その直接的でドラマティックな音楽を気に入っていましたが、「D 935」には期待していたようなドラマティックさやロマンティックさは無く、瞑想的、かつ洗練された古典的雰囲気があり、当時の私はそれらを理解していたとは言えませんでした。

しかし後に録音する際、私はなぜそう感じていたのかに気づきました。シューベルトは静かなダイナミクスでの表現を好む作曲家です。この作品はその最たるもので、フォルティッシモは全曲にわたってわずか16小節ほどしかありません。

最初の3曲は、非常に個人的な音楽のように思えます。それらを演奏するとき、私は時間や舞台でのドラマを忘れ、小さな部屋でピアノと対話しているような感覚になります。終わりのないハーモニーのやりとりを楽しみながら、時には憂鬱に、時には情熱的に。決して完全に幸福ではないけれど、儚い平穏を求め続けるのです。

しかし最後の曲は、まったく異なる世界のものです。スペインの古い舞曲、恐らくファンダンゴに触発されたものでしょう。シューベルトらしく、陰鬱な雰囲気が漂い、死の舞踏のような不気味ささえあります。私にとって、シューベルト作品の中でも最も難しい曲の一つです。

J.S.バッハ(ブラームス編): シャコンヌ

バッハの「シャコンヌ」に向き合うとき、私はこう自問します。「彼がこの作品を書くに至るまで、何があったのだろうか?」と。

作曲における技術面での完成度は語るまでもないでしょう。ドラマと内省、情熱と敬虔、感情と技巧のバランス…非の打ち所がありません。しかし、この作品を特別なものにしているのは、技術面ではなく、聴く人を変容させるような力です。この作品は、聴く人自身が何か変わったと感じるような力を持つ芸術作品です。

曲は3つのセクションに分かれており、それぞれ異なる頂点を迎えます。第1部は徐々に激しさを増し、情熱的になり、主題の再現で終わります。ここで一曲が終わってもよいくらい、長いセクションです。

第2部と第3部で変容が起こります。厳粛で威厳のある第2部を喜びや希望と表現するつもりはありませんが、えもいわれぬ高揚感のあるセクションです。歴史的には正しくないかもしれませんが、ゲーテの戯曲『ファウスト』の「日の出の場面」を思わせます。

The pulses of life beat, fresh and full of vigor, 命の鼓動が力強く脈打ち
gently greeting the ethereal dawn. 優しく霊的な夜明けを迎える。
You, Earth, have been steadfast through the night 大地よ、あなたは夜を耐え抜き
and breathe, newly refreshed, at my feet. 新たな息吹を私の足元に吹き込む。
Already you begin, with joy, to enfold me; あなたは喜びとともに私を包み込み
you awaken and stir a resolute will 決意を呼び覚まし
to strive unceasingly toward the highest life. 最高の生を目指して絶えず努力する意志を奮い立たせる。

―――――J. W. フォン・ゲーテ『ファウスト』第2部より

日の出の光景のように、この栄光は長くは続きません。第3部は最も繊細で心に響くセクションです。バロック音楽では鮮やかな情景を描くことが多いのに対し、感傷に浸ることが少ないですが、ここでは1分間ほど、それが起こります。それは短いながらも、長く余韻として残るものです。そして曲の終わりにかけて、その深く暗い感情の谷に揺さぶられ続けながら進みます。バロックの変奏曲の慣習通り、テーマは最後にもう一度明白に提示されます。ロマン派の作曲家なら、主題の再現をクライマックスとしてダイナミックに仕立てたでしょうが——実際、ブゾーニは両手用編曲でそうしました——、私は原型の方を好みます。なぜなら、バッハが楽譜の最後に記した「Soli Deo Gloria(神にのみ栄光を)」という言葉のように、「起こることは起こるべくして起こる、そしてそれが全能の神の意志なのだ」と語っているように感じられるからです。

ジェム・エセン:Eilenriede Op.37  ※日本初演

ジェム・エセンは私の幼なじみです。私たちの音楽人生はあらゆる段階で交差していて、彼の成長を間近で見られたことは、この上ない特権でした。ジェムは、私がこれまで出会った中で最も完璧な音感の持ち主です。彼にとって初めての複雑な曲を耳で聴いただけで演奏したり、即興でどんな作曲家のスタイルでも模倣したりするのを何度も目の当たりにしました。私は彼に旋律を渡して「スクリャービン風に」「プロコフィエフ風に」「ショパン風に」と頼むと、彼は喜んで応じてくれました。彼の才能は唯一無二のものです。

このような才能は、当然ながら作曲の道へと向かいます。最初は即興演奏を記録する手法から始まりました。何時間も即興を続け、その中で最もふさわしいと感じた部分を書き留めていたのです。やがて彼はこのプロセスを洗練させ、前のフレーズに最も自然に続く形を探しながら、作品として練り上げるようになりました。こうして彼は、主に19世紀後半の手法を吸収し、自身の作品作りに同化させることにより、彼の音楽言語(用いる技法、夢のような雰囲気、そして皮肉)を独自のものにしたのです。

ジェムは私と同じく2015年にドイツに引っ越しました。私はワイマールに行き、彼はハノーファーへ。ハノーファーは、彼にとって本当の意味で幸せな場所ではなかったかもしれません。たとえそれが、彼が間接的に作曲のきっかけを得ることになった場所だとしても。アイレンリーデはハノーファーの都市公園であり、北ドイツの森林のような場所で、市の約4分の1を占める広大な自然空間です。この作品は、その場所——必ずしも幸福ではないけれど、重要で欠かすことのできない場所——との対峙を描いているように思えます。

F. シューベルト:さすらい人幻想曲 ハ長調 D 760 Op.15

シューベルトのピアノ作品のほぼすべてを演奏した私が「さすらい人幻想曲」を取り上げるのにこれほど長くの時間を必要としたことは、不思議な気もします。私はかつてこの作品が技巧的要素だけに走ったもののように感じて、あえて距離を置いていた時期がありました。この曲は、技巧の披露のためだけに難しくされたように感じていたのです。ただ、その和声の蠱惑的な推進力、高揚感に満ちた壮大な音楽には魅力を感じていました。

この作品にはさまざまな逸話があり、とりわけリストが簡略化したことはよく語られます(訳注:リストはこの作品のピアノ協奏曲版、2台ピアノ版、そして弾きやすくした校訂版を発表している)。シューベルト作品としてはかなり異色の存在であり、技巧的な演奏家(ヴィルトゥオーゾ)のための作品を書いたらどうなるかをシューベルト自身が試したのではないかと推測されています。

私がこの作品を理解するに至ったのは、作品の時系列的には逆の順序でした。幻想曲の後に作曲されたソナタを録音したことにより、この作品の技術的要求が、単に虚栄に満ちたものではないということに気づいたのです。もちろん、音楽的性格は異なります。「さすらい人幻想曲」は一種の演奏会用独奏曲であり、対して後のソナタは交響曲の仮面を被ったような作品たちなのです。私はシューベルトを精緻なドラマ性と煌めくような華やかさを併せ持った作曲家でもあると評価するようになり、「さすらい人幻想曲」はそのイメージにぴたりとはまりました。シューベルトが時に極めて優美で魅力的なサロン音楽を書いていたことは、もっと評価されても良いのかもしれません。

私は「さすらい人幻想曲」を、シューベルトが大衆の好みや鍵盤上の技巧的な制約に縛られることなく、自らの天才性に導かれて筆を進めた作品ではないかと捉えています。そう考えると、技巧のためにこの作品が生まれたのではなく、むしろ作品のために技巧や強烈なニュアンスが必然となったのではないでしょうか。「さすらい人幻想曲」は本質的に希望に満ちた作品であり、若き作曲家が翼を広げ、インスピレーションに導かれて新たな自信と表現を獲得する姿が描かれているのです。

公演情報

夜ピアノ 2025 season
『ジャン・チャクムル ピアノ・リサイタル』
 
公演日・開演時間:2025年10月1日(水)午後7:00開演
会場: ミューザ川崎 シンフォニーホール
 
席種・料金
1回券 S席(1~3階席)6,000円
1回券 A席(4階席)5,000円
1回券 P席(舞台後方席)4,000円
 
出演者:ピアノ ジャン・チャクムル