シンガーソングライター/俳優・阪本奨悟、歌のみならずギタリストとしての高いスキルと探求心で魅せるアーティストサイドに迫る

インタビュー
音楽
19:30
阪本奨悟

阪本奨悟

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シンガーソングライターとしての活動と並行して、数々の舞台作品への出演も精力的に重ねている奨悟。堀川国広を演じているミュージカル『刀剣乱舞』も代表作の1つ。彼の音楽に対する深い愛情と情熱は、ご存知の方も多いだろう。SNSなどで公開されているバンドセッション動画やギターインストを通じてもミュージシャンとしての高いスキルと探求心が伝わってくる。2021年から毎年開催しているワンマンライブも観客を魅了し続けてきた。9月14日(日)・埼玉・HEAVEN'S ROCK さいたま新都心VJ‐3、9月15日(月・祝)大阪・心斎橋JANUS 、9月20日(土)・東京・下北沢シャングリラ――バンド編成で3ヶ所を回るツアー『奨悟ONE-MAN LIVE 2025「Make Lemonade」』への期待も高まる。これまでの音楽活動の軌跡とツアーへの意気込みを彼に語ってもらった。

――お父様がジャズギタリストですよね?

はい。家でジャズが流れていて、ギターを弾いている父親がいる環境で育ちました。父親の部屋に置いてあるギターをこっそり触って音を出してみたりとかしていましたね。

――小さい頃は、どんな音楽を聴いていました?

J-POPです。ジャズを聴いてもあんまりわからなくて、「大人の音楽だな」という感じでした。影響として大きかったのは、母親が車で流していたJ-POPです。Mr.Childrenさん、サザンオールスターズさん、ポルノグラフィティさん、福山雅治さんとか、J-POPの王道で育ちました。周りの子たちと変わらなかったと思います。

――ジャズを耳にしていたことによって培われた感覚はあるんじゃないですか?

それはあると思います。ジャズギターのコードの押さえ方はポップスではあまり使わないものも多いんですけど、父親から最初にそういうのを教わったんです。ポップスで育ってきた人たちに「変わった押さえ方してるね」と言われたりします。そういう部分が今となっては僕の引き出しになっているので、小さい頃からジャズに触れさせてもらえたことに感謝しています。

――演技のお仕事を始めたのはいつ頃でした?

役者を始めたのは10歳くらいの頃です。母親が履歴書を事務所に送って、レッスンを受けるようになりました。11歳くらいの時にちょこっとCMに出させていただいたのが最初のお仕事でした。

――ミュージカル『テニスの王子様』の4代目越前リョーマ役は、大きな転機でしたよね?

はい。大きな舞台に立たせていただきました。14歳の時でしたね。人前でちゃんと歌ったのも、それが初めてだったんですよ。「歌うの楽しい! 歌をもっと歌いたい!」となったきっかけでした。それまでもカラオケとかで歌のは好きだったんですけど、を買って会場に来てくださった方々に聴いていただくのは初めての体験で、「こんなに幸せなことなんだ! もっと上手になったら喜んでいただけるし、聴いてくださる人も増えるかもしれない」と感じました。

――音楽に対して積極的に取り組もうと思ったのは、その時が初めてですか?

はい。それまでは趣味の範囲でしたから、真剣にいろいろ勉強したり、練習したりとかはなかったんです。たまに好きなアーティストさんの曲をカバーして、「こういうコードがあるんだな」と知るような感じだったので。でも、14歳、15歳の頃から歌に積極的に取り組むようになって、曲も作るようになりました。今になって思うと音楽理論がまだわかっていなかった時期なので、的外れのコードを使っていたりするんですけど(笑)。そういうことの繰り返しの中で身についていったものがあったと思います。「自分で曲を作る」ということに対する憧れもあったんです。宇多田ヒカルさんや福山雅治さんとか、自分で曲を作って自分の人生を切り拓いてらっしゃるのがかっこいいなと思っていたので。

――音楽と真剣に向き合うようになって、舞台とかのお仕事もたくさんするようになりましたけど、高校の時に一旦事務所をやめて地元に戻ったのはなぜだったんですか?

小っちゃい頃から役者のお仕事をしていたのもあって、「このまま進んで行っていいのだろうか?」とわからなくなってしまったんです。事務所のスタッフさんたちに「音楽がやりたいのでもっと歌わせてください」と言っていたんですけど、メインのお仕事はほぼ役者で、ライブに関しても役者としてのイベントで少し歌わせていただくだけでした。そういう状況に気持ちの折り合いがつけられなくてグレてましたね。「思い描いていたのと違う!」となって、事務所と喧嘩してやめました(笑)。若気の至りです。

――「このままでいいのだろうか?」と悩むのは、その世代の普遍的な姿ですよ。

岐路に立たされる時期ですからね。僕がそういう時期を迎えていたのは、ONE OK ROCKさんがデビューしたての頃だったんです。ジャニーズ事務所をやめて音楽を始めたTAKAさんがかっこいいと思いました。ロックミュージシャンのそういう姿に惹かれるようになっていたので、当時の自分がかっこよくないなと感じるようになっていたんです。今になって思えばバカな選択だったんですけど、あの時期にそういう選択をしなかったらこんなに音楽にのめり込んではいなかったので、それはそれで良かったのかなと。片方を捨てなければもう片方を選べないですし、そういう選択だったのかなと思っています。

――地元に戻ってからは、どんな活動をしていたんですか?

路上ライブをやっていました。最初の頃はつらかったですねえ。オリジナル曲を歌っても全然聴いてもらえなくて。大阪駅の路上だったんですけど、足を止めて聴いてくれる人は全然いなくて、「俺は何をやっているのだろう?」と(笑)。「聴いてもらうためにはカバー曲を歌うべきなのか?」とか考えて、洋楽のニッケルバック、SUM 41、オフスプリング、リンキン・パークとかを歌ったりもしたんですけど、全然だめでした。

――ニッケルバックはアコースティックギターで歌ってもはまると思いますけど、リンキン・パークとかは、なかなかの挑戦ですね。

やるしかなかったんです(笑)。アコギでパワーコードを弾いたりして。そんな感じのカバーでしたから、もちろん誰も足を止めてくれなかったです。全然上手く行かなくて、気持ちが荒みました。最初に路上をやった後、次にまたやるまでに1ヶ月くらいかかった記憶があります。「もうやりたくない……」ってなりましたから。でも、そんな時に前にいた事務所のドンさん(現Don-crew代表)が、「なんでもいいからやれ! やんないと始まんないんだからとりあえずやれ!」と言ってくれて。その言葉通りに、嫌々ながらも路上をやっていました。当時の僕にはそれしかなかったんです。

――続ける中で、聴いてくれる人は増えていきましたか?

はい。ほんとにちょっとずつでしたけど。同じように路上ミュージシャンをやっている人がやる場所は2ヶ所くらいしかなかったので、「3曲ずつにしましょうか?」とか決めるようになって、そういう中で知り合った女の子のミュージシャンがライブハウスのイベントを企画して、僕に声をかけてくれたんです。その人はネットを使って発信することにも長けていて、「もともとミュージカルとかやってたみたいなんだけど、奨悟くんが今度、私の企画に出てくれます」と宣伝してくれたんですよね。それで過去に僕が出演したミュージカルを観てくださっていた何人かが気になったみたいで。

――お客さんは、どれくらい増えました?

それまではライブハウスでやっても20人くらいしかお客さんがいなかったんですけど、それがきっかけとなって50人くらいの前でやれるようになりました。小さなライブハウスでしたけど、いっぱいになっているのを見て、「ライブしてるな」ってなったのは、そこからでしたね。

阪本奨悟

阪本奨悟

――そういう積み重ねが2017年の歌手としてのメジャーデビューに繋がったいったということでしょうか?

どうなんでしょうね? とんとん拍子で進んで行ったわけではなかったので。ワンマンライブは60人くらいのお客さんで、ライブハウスでの対バンは月に4、5回、自分のお客さんは20人か30人くらい。そういうのを22歳くらいまでやっていました。自分の窓口となるホームページを始めて、問い合わせフォームも作ってみたりして。韓国のイベンターさんから連絡が来て、韓国でイベントをやったり。そういう中での出会いがその後に繋がった感じでした。「奨悟、いろいろ頑張ってるらしいよ」というのをドンさんが知ってくださって、「本格的に活動したいんだったら、もう1回やるか?」と……いや、そんなきれいな感じではなかった(笑)。当時、別の事務所からスカウトされていて、「スカウトされている事務所に行きます」って言ったら、「ちょっと待て」と言われたんです。

――2017年のメジャーデビュー作は、両A面シングル『鼻声/しょっぱい涙』。福山雅治さんのプロデュースでしたね。

本当に良い経験をさせていただきました。歌詞を書くということ、シンガーソングライターとして歌を届けるということの根本的な部分を福山さんに教えていただいたんです。自分と向き合う作業、言葉の選び方や紡ぎ出し方とか、たくさん学ばせていただいた福山さんにとても感謝しています。

――福山さんとは、その前にもお会いになったことがあったんですよね?

はい。一旦地元に戻る前の時期に。事務所の大先輩が福山さんで、ライブを観に行った際にご挨拶をさせていただいたりしていました。一方的に「大ファンです!」と言い続けていて、当時の僕のマネージャーが「なんでもいいので、奨悟にギターをあげられませんか?」と福山さんにお願いしたこともありましたね。福山さんが『龍馬伝』の撮影中の時期だったから、ものすごくお忙しかったはずなのに。僕のイベントの時に福山さんがビデオレターを贈ってくださって、ギターも頂きました。

――どんなギターを頂いたんですか?

ヤマハのFG-Customです。福山さんが発注したモデルだと思うんですけど、「福山雅治」って書いてあって、本当に畏れ多くて(笑)。

――(笑)。その数年後にプロデュースもしていただくというのは、ものすごいご縁ですよ。

普通だったら僕みたいなのを相手にしてくれないと思うんですけど、なんでなんですかね?

――福山さんはミュージシャンとしてスタートした後に俳優としても活躍されるようになったので、昔の自分を見るような感覚があったのかもしれないですよ。

もしそんな風に思ってくださっているのならば、本当に光栄なことです。

――「鼻声」と「しょっぱい涙」の制作は、どのような感じで進んでいったんですか?

スタジオに入らせていただいて、「この曲、良いと思うんですけど」というのをマネージャーさんやレコード会社のスタッフさんと5、6曲選んで、それを福山さんに聴いていただいたんです。「鼻声」のデモが福山さんの中でピンとくるものがあったそうで、「いいね。この《好きだよ 好きだよ》っていうリフレインがすごくいいから、ブラッシュアップしていこうか?」ということになりました。

――制作の過程で、福山さんはどんなことをおっしゃっていました?

福山さんはデビューしても売れなくて、「どう打破していったらいいんだろう?」と迷った時期にドラマの曲のタイアップが決まって、それに向けてラブソングを書くことになったそうなんです。でも、当時の福山さんはラブソングを書くことができなくて、プロデューサーさんとインタビューみたいに話して過去の恋愛について引き出していただき、そこから歌詞になっていったとおっしゃっていました。そういう経験をしていらっしゃったので、僕のリアルな恋愛のエピソード、これまでに好きになった女の子についてのお話をしながら歌詞に反映していきましたね。「どういう女の子だった?」「うーん……鼻声でしたね」「それいいじゃん!」って(笑)。「華奢な指先でした」「身長は何cmだった?」「153cmくらいだったと思います」「どんな服装をしてた?」「スニーカーが多くて、あんまりヒールとか履いてなかったかもしれないです」とか。歌詞を書く上での脚本というか、役を細かく分析していくような作業を全部一緒にやってくださったんです。そういうプロセスを経ると、書いた人の匂いがするような歌詞になりました。最初、それがすごく恥ずかしかったんですけど。「俺のデビュー曲のタイトルは「鼻声」か……」と思ったり(笑)。

――なるほど(笑)。

でも、客観的にそういう曲と向き合うと、シンガーソングライターとしてそっちの方が良いと思いました。歌っている人、作った人の匂いがして、人生が伝わってくると感じたので。その時に学んだことは、今でも自分の礎ですね。近年、AIも曲を作って歌詞も書くじゃないですか? そういうものをたまに聴くことがあるんですけど、面白くないんですよ。その人の辿ってきた人生は美化されたようなものではなくて、血が滲むような感じなんだと思うんです。AIの作る音楽はきれいですし、ポップでおしゃれなものもあって完成度が高いですけど、完璧ではないものがあるのが人間。それが表現だと思うんですよね。

――例えば「宝物」は、さんのリアルな姿が伝わってくる曲の1つだと思います。地元に一旦戻った頃の経験とかも反映されている歌なんだろうなと聴きながら感じますから。

嬉しいですね。ありがとうございます。

――YouTubeの公式チャンネルにアップロードされているライブ映像を観て、感銘を受けました。

再生回数が伸びなくて(笑)。最初の10秒くらいのMCの映像が要らなくて、すぐに曲から始めた方が良かったのかも。観ていただくには、どうしたらいいですかね?

――このインタビュー記事で推しておきます。

よろしくお願いします(笑)。

阪本奨悟

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――(笑)。メジャーデビューしてからしばらく経って、俳優のお仕事もするようになりましたよね。一度は離れた世界に再び向き合うことは、すぐに受け入れられたんでしょうか?

めっちゃ躊躇がありました。めっちゃ迷いましたね。音楽の活動を始めていたし、「俺は音楽をやるために戻ってきた」というスタンスだったんですけど、「役者のお仕事はどうですか?」と声をかけてくださる方々がありがたいことにいらっしゃったんです。「ミュージカルの『刀剣乱舞』という人気のある作品なんだけど、出ませんか?」と言われた時も、すっごく迷ったんですよ。2.5次元の作品って、つまりは自分がかつてやっていたテニミュじゃないですか? それにもう1回自分が戻るのって、「お前、結局、何がやりたいんだよ?」と思われるんじゃないかなと。

――決断に至るまでに、どんなことを考えました?

地元に戻った高校生の頃を一から思い出してみたんです。「結局俺は何がやりたいのか? 音楽がやりたい。それしかない」と当時は思っていたんですけど、曲を作る中で過去に自分が役者をやっていた経験が意外と歌詞とかに反映されたのを思い出しました。だから「これからまた役者の仕事をしていくからこそ出る言葉もあるのかもしれない」と思えたんですよね。「見え方とかを考えてかっこつけるのも大事だけど、いろいろ経験してを肥やしにしていくべきなんじゃないかな?」と。それが、また役者をやる決断に繋がりました。

――音楽と演技を「表現活動」として地続きで捉えられるようにもなったんじゃないですか?

はい。今はそう思えています。やればやるほどそう思えるようになっていますね。最初は「これで合ってるのかな?」と半信半疑なところがあったんですけど。例えば僕はそんなにダンスは得意じゃないですけど、それも全て繋がっているんだなと感じるようになりました。

――音楽活動に関しては、レコーディングエンジニア的な部分も追求するようになっていますよね。自宅で作業して完成させるCD『HOME RECORDING』もシリーズになっていますし。

僕、オタクっぽいところがあって、機材を集めるのも好きなんです。『HOME RECORDING』の最初のCDの時はまだ機材も揃っていなくて、買ってくださるみなさんには「これはデモです。聴きたい人は聴いてね。おまけのグッズみたいな感じですよ」という感じで伝えていたんですけど、「もっとクオリティの高いものにしたいな」と思うようになって、どんどんのめり込んでいった結果、1日中カチカチと作業するようになりました(笑)。それで最近、やっと納得できるクオリティになってきました。

――ギターを弾くのも、とても好きですよね? エリック・ジョンソンとかのカバーもしていらっしゃいますし。

エリック・ジョンソン、大好きです。僕の神です。もともとジョン・メイヤーが好きだったんですけど、彼がストラトキャスターを弾いていて、彼のギターを作っているクラフトマンがジョン・クルーズというフェンダーのマスタービルダーなんです。僕もジョン・クルーズが手掛けたストラトを買って、「やっぱいいギターだなあ」と思いながら音作りをするようになりました。「ストラトを愛用しているギタリストっていっぱいいるんだな。もっと深掘りしてみよう」となった中でエリック・ジョンソンと出会い、スティーヴ・ヴァイ、ジョー・サトリアーニとかも聴くようになり、「かっこいい人、いっぱいいるやん!」となってさらに深掘りしていったら、機材だらけになっていました(笑)。

――(笑)。ギターインストのオリジナル曲「PURPLE NIGHT」も作りましたよね。

はい。「PURPLE NIGHT」には、僕の好きな要素が詰まっていますね。アンプを家に置いて、そこにマイクを立てて録ったんです。近所から苦情が来ないように防音をして(笑)。そういうのが好きです。バンドで演奏するのも好きですし、やっぱり音楽って楽しいんですよね。

――エフェクターメーカー・FREE THE TONEのホームページで有名ギタリストたちと並んでさんのエフェクターボードが紹介されているのを見ましたよ。

ありがとうございます。ああいうのも楽しいんです。

――好きなギターは、やはりストラトキャスターですか?

はい。モダンなギターもいっぱい試してきたんですけど、やっぱりザ・ストラトな音が好きなんですよね。クリーンでハーフトーンで鳴らした時のあの感じは、フェンダーでしか出せないんですよ。

――ボディ材に関してもアルダーとアッシュ、それぞれの音の魅力がありますし。

どっちも欲しくなって、2本持ってます。同じサンバーストなんですけど、指板の材の違うストラトがそれぞれ1本ずつです。

――マニアックな機材談義をたくさんすると読者がびっくりしちゃうので、これくらいにしましょう(笑)。ガチで音楽が好きな人だというのは、バンドリハの動画とかからも伝わってきますよ。

ほんとガチなんです。ガチになりたくないんですけどね。だって音楽って食えないのにお金がかかるので(笑)。ガチになればなるほどつらいので、「良い感じの距離を置かないと自分が壊れる」と最近思うようになって、なるべく努力しています。マブダチではなくて、たまに会う友だちみたいな距離感というか。

――会ったらものすごく楽しくて、一晩中飲み明かしちゃう友だちみたいな感じじゃないですか?

まさにそうです(笑)。音楽って結局、売れるためにやっても売れないし、わかる人にわかってもらえればいいと思ってやっています。ファッションもそうですし、人生もそうですけど、わかる人にわかってもらえたら、それでいいんですよ。僕のライブに来てくださるみなさんはわかってくださっていると思っています。

阪本奨悟

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――9月に埼玉、大阪、東京の3ヶ所を回るツアーがありますよね。どのような公演にしたいと思っていますか?

ロックを意識というか、攻めたものにしたいと思っています。今までは1日2回公演だったんですけど、今回は1回で燃え尽きたいなと。音楽好きな人が来ても、絶対に楽しいですよ。音楽が好きな人は楽器の音をめっちゃ聴くじゃないですか? 僕もロックバンドのライブに行くと歌ばかりを聴くのではなくて、「今のこのドラムのプレイ、かっこいいな」とかなるんです。ライブはそういうトータルの音を感じていただける時間にしたいので僕はいつも生バンドでやっているし、インストもやるし、メンバーにもソロを弾いてもらうんですよね。そして、歌ももちろんいっぱい歌います。もともと大阪のライブハウスで音楽を本格的に始めたので、今回のツアーではその時の感じを思い出したいというのもありますね。10年ぶりくらいにやる曲とかも用意しています。

――ツアータイトルの『Make Lemonade』には、どのような意味が込められているんでしょうか?

僕、今年の3月に怪我をしちゃって、舞台に出られなくなっちゃったんです。すごくショックだったんですけど、「きっとこれは未来への布石になるし、そうしなきゃいけない」と思ったんですね。そんな時期に友人の永田崇人くんとご飯に行ったんですけど、彼も怪我で仕事が止まっちゃったことがあったんです。「その頃に観てたドラマがあるんだよ」と教えてくれたのが、海外ドラマの『THIS IS US/ディス・イズ・アス』でした。『Make Lemonade』は、そこから来ているんです。

――どんなドラマなんですか?

主人公の奥さんが三つ子を身ごもって、出産の時に1人流産しちゃうんです。それがとてもつらい経験だったんですけど、分娩に立ち会ったお医者さんが、「人生には苦いレモンを差し出されることもある。でも、そのレモンをレモネードに変えることもできるんだよ。それはあなたの生き方次第」というようなことを言うんです。それがすごく自分に刺さったんですよ。「無理に頑張ろうとしなくていいし、自分が何を選択しても間違いではないし、全部肯定してあげられればいい」と考えることができました。このツアーは怪我をした今の自分だからこそできるものになるはずだし、そうあってほしいと思ってタイトルを『Make Lemonade』にしました。

――さんは今までの活動の中で『Make Lemonade』を積み重ねてきたんじゃないですか?

今はまだレモネードじゃなくて、ちょっと酸味が強いかもしれないですけど(笑)。音楽は「楽曲に昇華する」という意味で『Make Lemonade』です。でも、それ以外でも怪我の功名みたいなことってあるんです。例えば、怪我をしない身体にするためのトレーニングを始めて、それによって歌いやすくなったのに気づいたりもしていて。身体に筋肉がついたことで喉の負担が減ったみたいです。

――ツアーに関しては、他に付け加えたいことはありますか?

これ、まだマネージャーにも話してないんですけど(笑)。「このまま年1回の恒例行事としてライブをやっていていいのかな?」と思っていて。僕は飽き性なので、もしかしたら来年からライブをやらないかもしれないです。その代わり何か違うことをするかも。今回のツアーが次の自分の音楽を切り拓くためのターニングポイントかもしれないですね。次に向かって考え始めているので、それも楽しみにしていてほしいです。新しい音楽の形を提供しますので。


取材・文=田中大 撮影=大塚秀美

阪本奨悟「宝物」from ONE-MAN LIVE Fall 2024「Fall in Music」TOKYO

ツアー情報

阪本奨悟ONE-MAN LIVE 2025『Make Lemonade』
9月14日(日)HEAVEN'S ROCK さいたま新都心VJ‐3
9月15日(月祝)心斎橋JANUS
9月20日(土)下北沢シャングリラ
 
全公演 開場16:30 開演17:00
オールスタンディング ¥7,300-(+1ドリンクオーダー)
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