「革命を描くフランス・ミュージカルを見事に宝塚の舞台に移した『1789−バスティーユの恋人たち』」/天野道映
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「1789」とはフランス革命の年である。
この年7月14日パリの民衆はバスティーユ要塞を襲撃して、フランス革命が始まった。メーンタイトルはそのことを語っている。革命をどういう視点から描こうとしているのか。サブタイトル「バスティーユの恋人たち」がそのことを明かしている。
恋人たちは有名な革命家ではなく、革命に打ち倒される王家の人びとでもない。小さなコクリコのように、風に揺れながら歴史の波間に呑み込まれていった愛すべき無名の、架空の人物である。そういう名もなき民衆が、時代の波の奥深いところで動いて、革命の津波を引き起こした。彼らをそこまで駆り立てたものは、王権(広い意味で政権)と民意の乖離である。これはよその国の遠い昔の話ではない。
原作のフランス・ミュージカルは2012年にパリで初演され、日本では宝塚歌劇月組により、2015年4−5月の宝塚大劇場を経て、6−7月の東京宝塚劇場で上演されている。小池修一郎の潤色・演出はかなり大胆な変更を加えているが、民衆の視点を外すことはない。
主人公ロナン・マズリエは農民の息子である。旱魃でマズリエ家は税金を納められなくなり、父親は土地を取り上げられたうえ、兵士たちに連行されそうになる。人びとが抗議すると、父は射殺され、息子はパリへ逃れる。そこで革命家たちの仲間に加わり、オランプ・デュ・ピュジェと恋に落ちる。ロナンの妹も兄の後を追う。
多分最初にロナンのキャラクターが作られ、恋人オランプはロナンに合わせて設定された。彼女は姓に貴族の証し「デュ」を持ち、ヴェルサイユ王宮に出仕している。だが仕事は養育係のアシスタント(sous gouvernante)という軽い身分なので、恐らく下級貴族であろう。彼女も民衆の一員である。同時に曲がりなりにも貴族なので、観客を王宮の内部にまで導いてくれる。するとそこにはフランス革命のハートのエース、マリー・アントワネット王妃がいる。
庶民派の恋人たちが下層階級と上流社会を結ぶ軸になり、その両端でロナンの目が革命派の、オランプの目が王室の事情を内側から捉える。それが作品の骨格を形作っている。
原作の運びはハイライト主義で、個々の人物に目を注ぐよりも、むしろ時代の大きな光景を綴り合わせていく。このことは作品成立のプロセスと関わりがある。総合プロデューサーのドーヴ・アチアが、自身を含む12人の作曲家に依頼して、まずCDアルバムを作り、その評判がよいのを見て、フランソワ・シュケと共同で曲をつなぎ合わせる台本を書いた。CDナンバーは当然ながら時代のハイライトを歌っていた。
宝塚歌劇団月組公演『1789—バスティーユの恋人たち—』 ©宝塚歌劇団 禁無断転載
ロナンが故郷を捨てると、次のハイライトはヴェルサイユ宮殿になり、王妃マリー・アントワネットが孔雀のように羽根を広げて、夜通し賭けごとにふけっている。 宝塚版はもう少していねいに、パリにたどり着いたロナンの後を追う。彼は空腹で倒れそうになりながら、革命派ジャン・ポール・マラー(綾月せり)が経営する印刷所の前を通りかかる。そこにはカミーユ・デムーラン(凪七瑠海)、マクシミリアン・ロベスピエール(珠城りょう)も来ていた。ロナンは身の上を語り、印刷所に雇ってもらう。こうして彼は革命家の仲間に加わった。この場をはさんで、次にヴェルサイユ宮殿になり、マリー・アントワネットが登場する。
恋人たちの出会いはオランプの行為がきっかけになる。彼女は王妃マリー・アントワネットとその恋人スウェーデン人フェルゼン伯爵の密会を手引きして、王妃をヴェルサイユからパリのパレ・ロワイヤルに案内する。ここは革命派と娼婦の溜まり場になっていた。ロナンは印刷所に職を得たが住む家がなく、パレ・ロワイヤルで夜を明かしていた。
王妃の後をラマール(紫門ゆりあ)ら秘密警察の3人組が尾行して、密会の現場を押さえようとする。夜の闇のなかに怪しげな人影がうごめき、オランプはとっさに、見ず知らずのロナンに暴漢の濡れ衣を着せて警察の注意をそらし、その間に王妃とフェルゼンを逃がた。ロナンは持ち物を調べられ、革命派の新聞を持っていたので、バスティーユ要塞の牢獄に連行されてしまう。
オランプは気がとがめてバスティーユに忍び込み、ロナンを救い出す。幸い彼女の父デュ・ピュジェ中尉(飛鳥裕)はバスティーユ守備隊の将校だった。オランプは王宮にもバスティーユにも自由に出入りできる便利なカードを持っている。原作では娘は父親の鍵を盗み出し独力でロナンの独房を探し当て、宝塚版では父親が医師に変装して娘を独房に案内し、ロナンを脱獄させる。
ヴェルサイユ宮殿で驕慢な姿を印象づけ、パレ・ロワイヤルでは不倫の恋に溺れていたマリー・アントワネットはまた、病弱な王太子の母親でもあった。彼女の次のハイライトシーンは、王太子を失って深い悲しみに沈む姿である。オランプも養育係として職責に悔いが残る。ロナンは彼女の悲しみを知って、王太子の葬儀のミサがおこなわれているサン・ドニ大聖堂に駆けつけ、ここで2人は初めて互いの気持ちを確かめ合う。
スターシステムを採る宝塚が、民衆主体のドラマをどのように上演するか。演出家が潤色版を上演する際の苦心はいちにかかってこの点にあったに違いない。トップ男役の龍真咲がロナンを演じる。ロナンは作品の主題を担う役なのでこれは動かしようがない。だが派手な場面は、やはり革命家にせよ王族にせよ、歴史上の有名人たちがさらっていく。
そこで宝塚版はロナンに見せ場を用意した。ロナンの故郷喪失を語る発端の前に、新しくプロローグを置き、ロナンがバスティーユ要塞の外壁をよじ登っていく。最上部まで達すると、彼は引き上げてある跳ね橋の鎖を斧で断ち切る。跳ね橋の先端が舞台正面先へ向かって下りて来る。暗転になって、ロナンの父親が銃殺される故郷の場が始まる。
田舎出のロナンは革命家グループに加わりながらも、疎外感を抱き続けていた。革命の指導者たちは高等教育を受けた知的エリートであり、庶民の苦しみを本当に理解しているかどうか疑問が拭い切れない。その疑問を金平糖のケシの種にして、ドラマは進んでいく。彼の出した答えを宝塚版では最初に目に見える形で示した。
王室は財政赤字に苦しみ、国民の税金で補填しようとする。このため国王ルイ16世(美城れん)は聖職者、貴族、平民からなる三部会をヴェルサイユに召集したが、新たな納税は拒否され、政権と民意の乖離は決定的になった。これこそ他人事ではない。財政赤字は現代の日本を蝕む根深い病根であり、何を措いても解決しなければならないが、政権は問題を先送りにしている。
国王は第三身分の会議場を閉鎖する。だが平民議員たちは、解散することなく球戯場に集まり、名高い「球戯場の誓い」を立て、国民議会の成立を宣言する。この時ロナンは妹ソレーヌ(花陽みら・晴音アキのWキャスト)と共にパリのパレ・ロワイヤルにいて、知らせを聞く。故郷を出て以来離ればなれになった妹は再会して見ると娼婦になっていた。妹の男性エリートに対する不信感は兄以上に強い。
一庶民たるロナンは、会議場を締め出された平民議員の中にすら加わっていない。「どうするの。兄さん」。兄はエリートに対する普段の屈折した思いを断ち切る。「見届けてやろう。歴史を動かすのは議員だけじゃない。俺たちだ」
ドラマの核心はここにある。
原作は人物の動きを肌理こまかく追うことがないので、第三身分が会議場から締め出されたれた時、ロナンは既にデムーラン、ロベスピエールらと共にヴェルサイユで隊列を組んでいる。
民衆のまなざしは恐らくパリの初演の年と深く結びついている。その2012年は「アラブの春」のさなかで、この時も民衆のエネルギーが政権と民意の乖離の狭間からが大きく噴き上げた。
宝塚歌劇団月組公演『1789—バスティーユの恋人たち—』 ©宝塚歌劇団 禁無断転載
宝塚のキャスティングではトップ男役がヒーローを演じ、トップ娘役(この公演の月組では愛希れいか)はヒロインを受け持つ。原作のヒロインはオランプである。では愛希がオランプを演じ、王妃マリー・アントワネットは原作どおりワキに置くのか。そうすることは、しかし「ベルサイユのばら」王国の宝塚では、たぶん劇団の潜在意識が許さない。
ここでもやはり王妃をヒロインにして、トップ娘役が演じる演出が取られた。そのために王妃の役をふくらませる。オランプはワキに回し、そのうえWキャスト(早乙女わかば・海乃美月)を組んで、目立ち過ぎないようにした。
宝塚版の王妃のナンバーをたどると、どのようにこの役をふくらませたかがよく分かる。最初にヴェルサイユ宮殿に登場して、羽根を広げた孔雀のように驕慢な姿で歌うソロナンバーは原作そのままである。次にオランプの手引きでパレ・ロワイヤルに忍び、フェルゼンと密会するとき宝塚版は2人に原作にはないデュエットを歌わせる。原作の別の箇所でオランプがロナンへの思いを吐露するソロ「La sentence」(判決・罰)を宝塚版では「許されぬ愛」としてここへ持ってきた。王妃はただ恋に溺れているのではなく、罪の意識に付きまとわれている。
アントワネット「ああ。この恋を葬り去れというの/許されぬ愛だと知りながら/諦める事などできない」。
2人「神様に厳しく裁かれて/重い罰を受けても構わない/運命が命ずるまま生きてゆく」
ロナンとオランプがサン・ドニ大聖堂の王太子の葬儀のミサで出会って心を通い合わせたのち時を経て、オランプは同じサン・ドニ大聖堂へ今度は王妃の手紙をこっそりフェルゼンに届けに行く。彼女が秘密警察と王弟アルトワ伯爵(美弥るりか)に付きまとわれて困っていると、再びロナンが現れて助けた。
人びとが去って2人きりになる。このとき原作にはないことだが、銀橋にいる若い恋人たちの背後の本舞台(たぶんに異空間)に王妃とフェルゼンが登場して、しかも4人でカルテットを歌う。原作にない場面なので、ナンバーは宝塚版用に新しく作曲された。王妃は良心の呵責に苦しむ。だが人を愛した記憶を消し去ることはできない。
アントワネット「ああ。この思いに/別れを告げ断ち切ろう」。
4人「もしこの地上に終わりが来ても/愛の記憶は残る/闇に閉ざされても/愛の記憶は輝き続ける」
ロナン&オランプは、フェルゼン&アントワネットと、ダブルイメージを形作っている。あるいは庶民の恋は王家の恋のパロディである。宝塚版を見ると一層この感が深い。
王妃は最後に側近のポリニャック夫人(憧花ゆりの)に別れを告げて、観客の目から去って行く。
この時も宝塚版は王とフェルゼンを併せて登場させて、一層胸に染みる場面を描き出している。王妃は王、フェルゼン、ポリニャック夫人のひとりひとりと心のこもった言葉を交わし、3人が去った後オランプの労をねぎらって、養育係の職を解く。それはもはやかつての驕慢な王妃ではなく、人間味に溢れた姿である。「あなた。恋をしているのでしょう。行っておあげなさい。その人の元へ」。そして澄んだ美しい心をバラードに託して歌う。
「神様が赦し給うのなら/最後のその日がくるまでは/妻と母として生きて行きたい/我が愛を家族のためだけに捧げて」
歌い終わると、原作ではギロチンの大きな刃の映像がホリゾントにさっと落ちてくる。宝塚版では王が作ったギロチンの模型の中で、小さな刃が不気味にことりと落ちる。
王妃は「ベルばら」のどのヴァージョンよりも素敵な女性に描かれ、トップ娘役が演じるのにふさわしい。愛希は辺りを払うばかりの品位に満ち、滴るような情感を湛えている。
こうしていよいよ最後のバスティーユ要塞襲撃の場になる。原作では人びとが要塞の壁をよじ登って跳ね橋に取り付くが、宝塚版ではプロローグでロナンが鎖を断ち切っていたので、跳ね橋は既に下りている。時間はプロローグと直接つながり、要塞の門からロナンがオランプの父親デュ・ピュジェ中尉を庇いながら走り出てくる。
先にオランプがロナンを獄中から救出した時、宝塚版が彼女の父親中尉の協力を描いたのは、このための伏線だった。ロナンの革命的行為は同時に中尉への恩報じでもあった。ベイロール伯爵(星条海斗)が兵を率いて要塞守備隊の救援に到着し、ロナンは銃弾に倒れる。ベイロールは発端では農民を虐げ、ロナンの父親を射殺していた。
オランプが駆け寄って、恋人の遺体をかき抱いて泣く。これが原作初演版の結末で、宝塚は初演版に従っている。宝塚版ではオランプの悲しみは、恋人の死が自分の父親を助けるためだったという思いと重なり合っている。翌年の原作再演版では、結末はオランプが死ぬように改訂された。2つの版の両立こそ作品の主題を裏側から語っている。主役が民衆だからどちらが死んでも成立する
最後は1789年8月26日に国民議会によって採択された「人権宣言」の発表の場面である。ハイライト主義はここに極まり、王族も貴族も平民も、生者も死者も、全ての登場人物が集まって合唱する。宝塚版はこれを踏襲しつつ、ロナンとマリー・アントワネットにソロパートを与えて、人が自由に生きる権利と同時に、人が愛する意味を強調することを忘れない。
ロナン「悲しみの報いとして/人は夢を見る権利を得る」
アントワネット「苦しみの報いとして/人は許す心を持つ」
フィナーレの歌手「愛し合うことが罪だと言うなら/そんな世界など滅び去っても/構いはしない」
フランス革命はこの後、民衆の心を解さないエリートの指導者たちが、血で血を洗う抗争を繰り広げていく。歴史は今も繰り返す。エジプトにおける「アラブの春」を導きながら、軍のクーデターで捕らえられたムルシ元大統領は、去る6月16日に死刑を言い渡された。歴史の表舞台は、そのつど勝利する者によって綴られるが、やがて彼らも去り、裏側に潜む目に見えない大きな波の動きは、無告の民ロナンのまなざしによって残される。
(2015年7月4日・記)
付記。せりふと歌詞について。宝塚版は「Le CINQ」165(宝塚クリエイティブアーツ。2015年)、原作はフランス語LIVRET(Version 15 JUIN 2013)によった。