TPAM in Yokohama、そしてマーク・テ『Baling』に関する覚え書き/藤井慎太郎
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TPAM2016 マーク・テ『Baling』 Photo: Kazuomi Furuya
I
TPAM in Yokohama(以下、TPAMと略記する)が2016年2月6日から14日まで開催された。前身となる東京芸術見本市(Tokyo Performing Arts Market、TPAMはその略称であった)が創設された1995年から数えて、今年で20回目を迎えた。
もはや短くもなくなったその歴史において、TPAMは幾度となく大きな変化を遂げてきた(その経緯は丸岡ひろみのインタヴューにも詳しい)。2011年からは東京から横浜に会場を移すとともに、MarketをMeetingに読み替え、見本市としての作品の売買から、(「舞台芸術の国際ネットワーク」を謳うIETMに通じる)演劇人同士の国際的ネットワーキングの場の形成へと中心軸を移している。このとき以来、国際交流基金、横浜市芸術文化振興財団、神奈川芸術文化財団、PARC(国際舞台芸術交流センター)の四者が主催者を構成し、PARCが事務局の運営にあたっている。それ以前、2010年までは地域創造も主催者に名を連ね、日本の地方公共文化施設への舞台作品の供給もTPAMのミッションのひとつになっていたのだが、地域創造が主催者から外れ、国際交流基金が主に開催費用を負担することになり、必然的に国際交流に重点が置かれることになったのだった。といっても自前の予算が潤沢にあったわけではなく、各国の国際文化交流機関が費用を一部負担して、当該国のアーティストの作品や人物の招聘がなされる場合も多かった。だが、昨年2015年からは、その前年に国際交流基金アジアセンターが発足したことから、予算に余裕が生まれるとともに、TPAMの持つ国際性も欧米諸国から(東南)アジアへと大きくシフトしている。アジアセンターは、安倍首相のイニシャティヴによって始められた、その名も「文化のWA(和・環・輪)」(!)プロジェクトの一環として、2014年度から2020年度まで、7か年の総予算200億円(国際交流基金の通常予算とは完全に別枠である)を用いて、ASEAN加盟国を中心とするアジア諸国との文化交流を促進する役割を担っている(かつて基金内に存在したアジアセンターが単に復活したわけではない)。
TPAMのプログラムは、1)複数のディレクター(美術でいうキュレーターで、今年は恩田晃、加藤弓奈、コ・ジュヨン、タン・フクエン、中島奈那子の5名)に作品選定を依頼したTPAMディレクション、2)TPAMが共同製作に名を連ねる作品からなるTPAMコプロダクション、3)TPAMコンテンポラリー・クラシックス(以上が作品の上演を伴う)、4)プロフェッショナル同士のスピード・ミーティングの場であるTPAMエクスチェンジ、5)国内外の演劇人によるトーク、シンポジウム、レクチャーから構成されている。ここまでがTPAMの狭義の主催事業であり、演劇・ダンス・パフォーマンスに加えて、今年から音楽も本格的にプログラムされている。そこに6)フリンジ的な性格を持つTPAMショーケースが付け加わり(2016年は36団体46作品が参加した公募プログラムで、都内での上演も可能であるが、移動のしやすさから横浜市内が多い)、さらには横浜ダンスコレクションEXも同時期に開催されることも手伝って、ひとつの巨大なフェスティバルと呼んでも差し支えない、芸術的、時間的、人脈的に凝縮された密度の濃い空間が2月の横浜に生まれることになる。
とはいえ、TPAMはその重要度に反して、一般的な知名度はまだそれほど高くないであろう。その理由は、TPAMが一般の観客よりも制作者や芸術家などの舞台芸術のプロフェッショナルをターゲットとしている点にある。事実、TPAM(およびフェスティバル/トーキョーなどの国際フェスティバル)は、国内外のアーティスト、プレゼンターが数多く訪れ、互いに出会う場である(昼間の出会いを夜にさらに深められるように、バーまでもが周到に用意されている)。2016年のTPAMに参加したプロフェッショナルの人数は、主催者によれば717名に上る(うち国外からの参加が293名、国内からの参加が424名、いずれもアーティストとプレゼンターを合わせた数であり、後者については東南アジアと東アジアの諸国がそれぞれ3分の1ずつを占める)。現代舞台芸術の国際交流にとって、TPAMは欠くことができない存在である。
最近の欧米の劇場の現代日本舞台芸術への関心の高まりにも助けられていようが、TPAMが契機となって日本国外に知られるようになったアーティストや作品、生まれた国際交流プロジェクトは数多い。過去には(有名なところで)チェルフィッチュ『三月の5日間』、昨年では、岡崎藝術座『+51、アビアシオン、サンボルハ』や川口隆夫『大野一雄について』などが、TPAMをきっかけにヨーロッパの主要なフェスティバルや劇場に招聘されている。そうした成功が演劇界で知られるようになったことがTPAMショーケースの活況を支えているのだといえよう。
TPAMは日本と世界をつなぐ重要な架け橋なのだが、その重要性は作品の売買や人的ネットワークの拡大に限られるものではない。字幕ないしシノプシス(梗概)、カンパニー資料を英語で作成したり、国外の演劇人と外国語でやりとりをしたりすることを通じて、日本の制作者もアーティストも、日本以外にも存在する観客の視線を意識せざるを得なくなる。そうした多様な観客を充分に意識したとき、アーティストの世界観にも広がりと奥行きが生まれ、作品の主題と方法においても、普遍性につながるような多層性が備わるであろう。その重要性は決して軽く見るべきではない。
TPAM2016 マーク・テ『Baling』 Photo: Kazuomi Furuya
II
後半では、今年のTPAMにおいて(ひいては今年に限らず)、群を抜く出来であったマーク・テ(Mark Teh)の『Baling』を取り上げたい。本作品は、英領マラヤ連邦時代末期の(意図的に)忘却された歴史を明るみに出すとともに、演劇自体を問い直してその可能性を拡張する、きわめて意欲的なドキュメンタリー演劇である。1981年生まれのマーク・テはファイブ・アーツ・センター(クアラルンプール)に所属するアーティストのひとりであり、ロンドン大学ゴールドスミス校に留学した経験を持ち、現在はサンウェイ大学で教鞭も執りながら、ヴィジュアル・アーツとパフォーミング・アーツにまたがる作品を創作している。ファイブ・アーツ・センターはクリシェン・ジット、マリオン・ドゥ・クルーズらによって1984年に創設されたアーティストの共同体であり、検閲が制度として残るマレーシアにあって、ときに当局と対立しながら、意欲的な作品を英語で制作してきた(マリオン・ドゥ・クルーズのインタビューを日本語で読むことができる)。本作もまた英語による上演である。
マーク・テ『Baling』は、TPAMも共同製作に名を連ねるTPAMコプロダクションの作品のひとつで、光州(韓国)で初演された後、KAAT神奈川芸術劇場大スタジオにおいて、2月9・10日に計3回の公演が行われた。この作品は2005-6年にクアラルンプールでワークショップ的なパフォーマンスとして始められ、2011年5月にはシンガポール・アーツ・フェスティバルにて同名のパフォーマンスが行われてもいる。長い時間をかけて鍛えられてきただけあって、完成よりも変化と運動を美学的に志向している(と思われる)TPAMにおいて、例外的に高い完成度を見せていた。作品のタイトルでもある「バリン」とは、マラヤ共産党の武力行動によって内戦が勃発しかねなくなったマレーシアにおいて、その非常事態を終結させるべく、1955年に政界の要人3人による会談が開かれた町の名前である。その3人とは、中国共産党の強い影響のもとで華僑を中心として活動していたマラヤ共産党の指導者チン・ペン(陣平)、その2年後に英国から独立を勝ちとることになるマレーシアとシンガポールを代表する政治家トゥンク・アブドゥル・ラーマンとデヴィッド・マーシャルである。
階段座席を取り払って巨大な直方体空間へと変化したKAAT大スタジオで公演は行われた。観客は手渡されたクッションを持って、好きなところに陣取る(コーヒーのサービスつきであって、ブレヒト流に「リラックスして」作品に臨むようにいざなわれる)。だが、いずれ上演の進行に伴って俳優たちが移動したり、ちがう壁面に映像が投影されたりすることで、観客もまた場所を、少なくとも視線の方向を変えていくことになる。
出演者のひとりであるファーミ・ファジール(彼のインタビューも日本語で読むことができる)が現れ、これから始まる作品がバリン会談の記録の朗読であることを告げる。そして、かろうじて当時マレー半島を統治していた英国政府がつくらせた反共プロパガンダの映像が投影される。その後、三者会談の演劇的再現の場面へと移行する(観客も場所や向きを変える)。チン・ペン、トゥンク、マーシャルの3人(あるいはむしろ彼らを表す4人——私が見た回は3人——の俳優)が登場して、チン・ペンをはじめとする共産党員の投降/恩赦の可能性と条件をめぐって、緊迫した議論が繰り広げられる。三者会談の再現はしかし、1枚の顔写真を通じてチン・ペンが国民的アイコンとなった事実、および彼にまつわる逸話・伝説の紹介、チン・ペンの葬儀に出席したアーティストの証言などの場面が間に差し挟まれるたびに、しばしば中断される。この中断と変化(および啓蒙的なわかりやすさ)によって、マレー半島の歴史についてよく知らない観客も、飽きることなく作品の内容を充分に理解できるようになっている。
また、三者会談の様子が演劇的に再現されるといっても、俳優は台本を手にしたままでおり、他者に見せかけたり、他者になろうとすることなく(俳優の一人は女性だが、歴史上の3人はみな男性である)、登場人物からの距離を保ちながら、演技をしていることを明らかにしている(私が見た初日の公演は、出演者の一人が急病で休演するというハプニングに見舞われたために、本来の姿から異なっていたことをお断りしておく)。場面と場面の間にも中断、飛躍、距離があるように、「距離」はこの作品のドラマトゥルギーの鍵となっている。
最後に、死の直前に撮影された、政治活動家の面影もまったく感じさせない一人の年老いたマレーシア人として、望郷の念を語るチン・ペンのインタヴュー映像が流れる。チン・ペンは、政治の舞台からもメディアの舞台からも意図的、強制的に退かされ、晩年になっても悲願のマレーシア帰国は許されないまま、2013年9月に亡命先のタイで没したのだった。
ペーター・ヴァイスは「ドキュメンタリー演劇に関する覚書」(1971)において、「ドキュメンタリー演劇とは、報告=報道の演劇である」と述べた上で、権力者による「隠蔽」「歪曲」「虚偽」に対する批判がドキュメンタリー演劇を特徴づけると述べていた。『Baling』は、チン・ペンを(あるいはその対立者を)英雄として扱うわけではなく(最後の場面はいささか感傷的ではあるが)、その手つきはジャーナリスト的であり、公式のナショナル・ヒストリーから——まさにそのネーションを成立させるために——隠蔽されたチン・ペンという存在を明らかにしようとする。『Baling』が描き出すものは、東南アジア、ひいてはより一般的に発展途上国に関心を向けることがまれである日本の観客にとってはもちろんだが、マレーシアの観客にとってさえ多分に部分的にしか知られていない歴史である。そこにはヴァイスのいう「作為的な闇」、「権力者が自らの陰謀をその中に隠してしまおうとしている暗闇」が存在しているのだ。その意味において『Baling』はドキュメンタリー演劇の理論と伝統にきわめて忠実なものである。
さらにいえば、『Baling』に感じられる強度は、その表現が政治的、芸術的に大きなリスクを負っているところから生じている。マレーシアにはまだ検閲が制度として残る(公式には検閲がない日本のような国でも、自由な表現がつねに許されているわけではもちろんないが)。主にマレー系、中国系、インド系の住民が完全に融合しないままモザイク状に国民を形成しているマレーシアにおいて、共産主義や民族間の不和を喚起させるような本作品の主題は、検閲のタブー(ないしは武力抗争の結果として、当時から人々の間に残る怨恨による社会的タブー)にふれるおそれがある。また、通常の演劇の構造、すわなち、登場人物の対話や心理に基づいた文学的戯曲、その登場人物を演じる俳優の現前、イリュージョンを介した舞台と観客席との正面的関係など、ドラマ演劇(平たくいえば、演劇らしい演劇)の安定した、そして観客を安心させる構造からも、作品は大きく距離をとっている。特に、前もって与えられた一つの場所、決められた方向からのみ観客が舞台を見るのではないことは、決定的に重要である。芸術作品も歴史も、与えられた事実を解釈し、その意味を読みとり、そこから物語=歴史をつむぐ人間の立ち位置と視点のとり方によって、多様に変化しうるからだ。『Baling』は、隠蔽され、語られずにきたマレーシアの歴史の一部分を明らかにし(1941〜45年の短期間とはいえ、マレー半島は日本の占領下に置かれ、マラヤ共産党は日本による支配に強く抵抗していたように、実はそれは日本の歴史でもある)、私たちに教えてくれる点において、すでにきわめて啓蒙的なのだが、さらに、演劇が今なおこれだけの力を持ちうること、今日のマレーシアにおいてこのような作品が芸術として表現されうること、それほどに社会と芸術をめぐる思考が成熟していることもまた教えてくれる。
マレーシアの演出家と俳優たちによって上演される本作は、一義的にはマレーシアの観客に向けられたものであるかもしれない(クアラルンプールでの上演は、2016年3月下旬〜4月上旬にファイブ・アーツ・センターのスタジオで予定されている)。だが同時に、『Baling』はマレーシアの外部に位置する光州や横浜の観客にも向けられたものであり、そこには、先に述べたような普遍性につながりうる多層性が感じられるように思うのである。
本稿の執筆にあたって、国際交流基金クアラルンプール日本文化センターの谷地田未緒氏、TPAM事務局(PARC)の丸岡ひろみ氏(TPAMディレクター、PARC理事長)、森本裕衣氏、山﨑奈玲子氏には貴重な情報と助言をいただいた。TPAMの広報を担当したダンス プレス トウキョウの西山裕子氏にもお世話になった。記して感謝申し上げる。