蜷川幸雄追悼公演『尺には尺を』の祝祭的空間
彩の国シェイクスピア・シリーズ第32弾『尺には尺を』(彩の国さいたま芸術劇場)左から、原康義、多部未華子、辻 萬長、藤木直人、周本絵梨香 撮影/渡部孝弘
ヴェールで隠されたものが現れる祝祭的空間~蜷川幸雄追悼公演『尺には尺を』
いつものように幕が開く
開演前、オーケストラの演奏者が音合わせをするように、俳優たちが舞台に出て、ストレッチをしたり、発声練習をしながら準備するのにおおわらわだ。舞台装置の大かがりな転換が確認され、混沌としたエネルギーが舞台上に蓄積されていく。
「開演5分前です」の場内アナウンスが響くと、さらに緊張が高まる。「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の開幕だ。いつもと変わらない幕開きに見えるが、わたしたちはシリーズの生みの親である演出家・蜷川幸雄が5月12日に亡くなられたことを知っている。そして、芝居を見ることで、蜷川さんを追悼するために劇場へやってきた。
演出プランその1 舞台も客席も縦横無尽に活用
開幕とともに、舞台のいちばん奥から、公爵のヴィンセンショー(辻萬長)とエスカラス(原康義)が、前方に向かって歩きながら、冒頭の台詞を語る。しばらく旅に出るので、留守中のすべての権限を、貴族アンジェロ(藤木直人)に委任するというのだ。歩いて舞台前方までやってきた公爵は、アンジェロを呼び、「法律を厳しく施行するなり手心を加えるなり、君が良いと思うようにすればいい」と言いわたす。場所はウィーン、公爵の執務室である。
今回の舞台では、このように舞台奥から最前部へと台詞を語りながら移動する場面が、何度もくり返された。冒頭の場面は、多忙な公爵が、常に〈移動〉していることを表すためかもしれない。まるで、首相にぶら下がり取材を試みる記者のようにも見える。台詞に動きが加わって、よりダイナミックな印象を与える。ときには、俳優たちは観客席の通路を登場し、劇場全体が縦横無尽に活用される。
彩の国シェイクスピア・シリーズ『尺には尺を』(彩の国さいたま芸術劇場)公爵が留守をアンジェロにまかせて旅立つ場面。左から、妹尾正文、藤木直人、辻萬長。 撮影/渡部孝弘
演出プランその2 何気ない台詞の視覚化
蜷川演出の特色のひとつは、劇中で語られる内容の視覚化であるが、それは今回も見られた。アンジェロが公爵代理になったことで取り締まりが強化された結果、監獄の前の街路を、巡査のエルボー(間宮啓行)がポン引きのポンペイ(石井愃一)を連行していく場面である。
エルボーは難しい言いまわしを好み、乱用したがる傾向をもつ巡査である。しかも、言葉の意味を正確に知らないため、しばしば反対の意味で用いてしまう。「キリスト教徒が持つべき冒瀆心」とか「好都合の悪いことに」など、本人は気づかないが、意味が逆転していることが多い。そして、徹底的に言葉にこだわるのも蜷川演出の特色である。
巡査のエルボーはポンペイを縄で縛って連行し、エスカラスの尋問を受けさせるが、尋問を受けているあいだ、ポンペイが体をよじったり、右へ左へと動きまわるうちに、ポンペイを縛っていたはずの縄にエルボーが縛られてしまう。両者の立場や関係の逆転は一目瞭然であり、このように台詞の内容を演技に取り入れて視覚化するのは、蜷川演出が得意とするところだ。シェイクスピア劇の練達である間宮啓行とコメディで鍛えた石井愃一は、息の合った芝居を見せた。
演出プランその3 ヴェールを用いた演出
『尺には尺を』は、法律の施行をめぐる話でもある。ウィーンには厳格な法令や苛烈な法律があったが、十数年のあいだ、厳しく適用されないできた。公爵代理のアンジェロは、その法を厳格に適用して取り締まる。そのため、淫売屋のポン引きであるポンペイは、真っ先に逮捕された。
ウィーンには、結婚前に関係を持つことを禁じた法律があった。折悪しく、若き貴族クローディオ(松田慎也)は、結婚の約束をしていた恋人ジュリエット(浅野望)を妊娠させていた。そのため、クローディオは逮捕され、処刑されることになってしまう。思案のすえ、クローディオは修道女見習いである妹のイザベラ(多部未華子)に頼んで、アンジェロのもとへ処刑取り消しの嘆願に行かせる。
法廷の別室で、アンジェロはイザベラと会うが、そこは舞台天井から床まで、白く薄いヴェールが一面にかかっているため、ヴェール越しにしかイザベラはアンジェロを見ることができない。それは観客も同様である。そして、アンジェロが少しずつ自分自身の奥深くに隠していた本性を露わにするのに伴い、ヴェールが落とされていく。
このヴェールこそが『尺には尺を』の演出の眼目となる道具である。『尺には尺を』では、隠されているものが露わにされる劇であるともいえる。そして、隠されているものは、すべてがヴェール(あるいはフード)をまとっているのだ。最初に隠していたものを露わにするのはアンジェロである。
そして、邪なアンジェロに対する策略が功を奏して、自らの姿を現わすマリアナ(周本絵梨香)、さらには最後に修道士の衣を脱ぎ捨てて姿を現わす公爵と、順番に隠されていたものが露わにされていく。そして、公爵は自分自身に戻っただけでなく、さらに内に秘めた欲望を顕現させ、イザベラに求婚するのだ。
彩の国シェイクスピア・シリーズ第32弾『尺には尺を』(彩の国さいたま芸術劇場)イザベラに求婚する公爵。左から、松田慎也、辻萬長、内田健司、多部未華子、原康義。 撮影/渡部孝弘
驚くべき最後の仕掛け
だが、それだけではなかった。
『尺には尺を』のカンパニー全員は、このヴェールを用いて、もうひとつの仕掛けをこの舞台に施していた。最後に、これまで上演されていた舞台そのもののヴェールが露わにされる。そこでは驚くべきものが明らかにされるのだ。これまで舞台を作ってきた黒幕が、ついにその存在を露わにされる。
これこそは終幕で、劇場の後方を開放し、舞台空間と現実世界をつないで見せてきた蜷川演出の真骨頂である。
舞台装置と衣裳については、稽古開始前に演出家から指示が出ており、実際の稽古は演出プランに沿って進められたという。稽古場での蜷川さんからの直接的な指示はなかった。おそらく俳優やスタップは、これまでにもらった無数のダメだしを思い出し、演出家の快復を願いながら、稽古にのぞんだことだろう。
その結果、蜷川幸雄が不在であるにもかかわらず、最も蜷川演出らしい舞台が生まれることになった。ヨハネの福音書ではないが、まるで一粒の麦が無数の実を結んだかのようだ。不在がもっとも強い存在感をもたらしたのである。なんと演劇的な瞬間だろう。
最後の場面で、多部未華子扮するイザベラが、青空に白い鳩を放つとき、すでに演出家・蜷川幸雄があの世へ旅立ったことを改めて思う。だが、これからも舞台はくり返し上演されて、何度も白い鳩は空高く放たれるだろう。そして、そこにこそ蜷川幸雄はいるのだ。追悼公演にふさわしい天晴れな舞台である。
演出家・蜷川幸雄氏 撮影/細野晋司
■日時:2016年5月25日~6月11日
■会場:彩の国さいたま芸術劇場 大ホール
■出演:藤木直人、多部未華子、原康義、大石継太、立石涼子、石井愃一、辻萬長ほか。
■公式サイト:http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/3376
【北九州公演】2016年6月17日(金)~6月19日(日) 北九州芸術劇場 大ホール
【大阪公演】2016年6月24日(金)~6月27日(月) 梅田芸術劇場 シアター・ドラマシティ