さすらう母子神の物語――中上健次の『日輪の翼』が、やなぎみわの手で中世風の美しい叙事詩へ /天野道映
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「ステージトレーラー」『日輪の翼』 KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト 撮影=bozzo
ステージトレーラー
『日輪の翼』を書いた中上健次は1946に生まれ、92年に46の若さで亡くなった。今年は生誕70年を迎える。この『日輪の翼』を舞台化したのが、やなぎみわだ。現代美術家として知られ、近年は演劇も精力的に手がけている。脚本は山崎なし、音楽監督・巻上公一、主催製作・KAAT神奈川芸術劇場/やなぎみわステージトレーラープロジェクト。
やなぎみわは、ステージトレーラーと呼ばれる屋外公演用の車両に乗せて本作を上演した。まず横浜公演がおこなわれ(2016年6月24~26日の3日間、横浜港の赤レンガ倉庫イベント広場)、同じ車両がそのまま移動して、8月6日には中上健次の出身地の和歌山県新宮、8月27・28日は高松、9月2~4日には大阪公演が行なわれる。
公演資料によると、台湾で「移動舞台車」と呼ばれる特別仕様の車両を演出家がステージトレーラーと名づけ、『日輪の翼』を上演するために輸入し、独自の彩色を施した。このようなトレーラーが、台湾では寺の祭りや選挙運動などの際、歌謡ショーやカラオケのために使われるという。
幕開き――翼を開くトレーラー
初日と2日目は荒れ模様だった天候もようやく持ち直した横浜公演の最終日6月26日、大桟橋が暮れなずむころ、赤レンガ倉庫はライトアップでかがやき、広場には1台の巨大なトレーラーが難破船のように打ち寄せられていた。仮設の客席がトレーラーを囲む形で、倉庫を背にして組み立てられている。広場の向こうの道に遠く人の行き来が絶えない。
午後6時半。トレーラーは折りたたまれていた翼をゆっくりと開き始めた。左右の側面は荷台の両側に広がって四角なステージを形作り、天板は運転台を隠して高く立ち上がって、めもあやな絵が描かれ、荷台の後尾を塞いでいた部分は斜めに地に折れて梯子になる。演技者はこれを昇降して、ステージと客席前の空間の両方をアクティングスペースに使うことができる。ステージにはオバと呼ばれる5人(原作では7人)の年老いた女性が板付きでいて、とりとめのない話をしている。
そこから不思議な時間が始まった。トレーラーが翼を開くのが時間を転換させる蝶番だった。
海底に沈んでいた難破船が浮上して、死者たちが話しているのを聞くようである。時折車の立てる大きな排気音が広場の向こうを通り過ぎて行き、空中にかすかに漂う汐の香も濃くなり薄くなる。客席には現実の時間が流れ、舞台には別の時間がある。およそ演劇というものに共通する性格に違いないとしても、ここではことにその印象が深い。
サンノオバのせりふから芝居は始まる。
夏芙蓉の花の匂い、する
夏芙蓉は原作に出てきて、作品の根底に潜む思想を暗示する架空の樹木である。ステージの背景に立ち上がった絵はこの架空の木に違いない。抽象的な筆致で描かれているが、海底の藻の茂みの中から女の白い腕が幾つかぬらぬらと上の方に伸びていく姿を連想させる。いったい夏芙蓉は何のメタファーなのであろうか。
「路地」からの漂流
オバたちは故郷熊野の「路地」を出て、美青年ツヨシが運転する冷凍トレーラーに乗り、漂泊の旅を続けている。「路地」とは、中上健次が故郷熊野の被差別部落を指して使う言葉である。
原作の長編小説はロードムービーのように、冷凍トレーラーの行く先々のエピソードを綴っていく。オバたちは夏の終わりだというのに冬のコートを着込み、伊勢神宮で場違いの御詠歌を唱えたり、トレーラーを駐車した空き地で火をおこして茶粥を煮たり、人びとの顰蹙を買う行為を繰り返すが少しもめげない。ツヨシは彼女たちの世話を焼きながら、恋のアヴァンチュールに精を出している。
一行は熊野から出発して、伊勢、一宮、諏訪、瀬田、東北、東京と各地を移動していく。その間に季節は秋から冬へと移り、恐山は雪の中である。劇中の冷凍トレーラーは観客の想像力のなかで同じ行程をたどっていくが、屋外ステージ専用のトレーラーは横浜港の赤レンガ倉庫前の広場を動かない。そのことが不思議なめまいを誘った。
この作品をロードムービーだとするのは運転台にいるツヨシの目であって、オバたちは移動中は荷台の中に固まって座り、あるいは寝ているから、風景の移り変わりを知らない。彼女たちの意識の中には、常に同じトレーラーがある。舞台の視点はオバたちに置かれている。
彼女たちは荷台の中で「路地」の歴史を話し合っている。「路地」は或る日よそから流れてきた男女の2人連れが、村はずれの蓮池のそばに小屋を建てて住みついた時から始まった。自分たちはその末裔である。初めの2人連れがやってきたのはいつのことか。
中上的「路地」と震災
明治から大正にかけて民俗学が学問としての形を取りはじめた頃、被差別部落の研究に力を注いだ柳田国男によると、時間は中世・室町時代の末期にまでさかのぼる。各地に小領主が割拠して戦争が絶えず、土地は荒れ、離散する民が多く出た。彼らは山中に分け入って山の民になり、あるいは漂泊の宗教者や芸能者になって各地を流浪する。一カ所に定住しようとすると、そこには既に村落共同体があって、農耕に適した土地は得られず、周辺の荒蕪(こうぶ)地しかない。蓮池は、これを象徴的に示している。後からきた移民は村人の差別の対象になる。「路地」はそのような記憶の集積にほかならない。裏山の頂きに樹齢何百年という夏芙蓉が風雪に耐えて立っている。
その「路地」が再開発されることになり、オバたちは立ち退き金を手にすると、まるで先祖返りをするように漂泊の生活を始めた。 原作小説が書かれた1984年は、日本経済が高度経済成長期を経て、バブルに向かう頃だった。東京の至る所に再開発の波が押し寄せ、懐かしい顔が行き来していた住宅街の商店街が、無表情な小マンションの行列に置きかえられていくのを見た。
人が将来への計画を立てることができないままに故郷を離れることは、観客にとっても他人事ではない。やなぎみわの舞台の背後には、東日本大震災の記憶がまだ生々しく血を流している。
舞台がオバたちに視点を置いたことは何をもたらしたか。「路地」を追い立てられた人びとが先祖返りをして漂泊する。これは原作の主題である。その人たちが芸能を持って漂泊する。オバたちが自分たちの漂泊そのものを題材として歌い踊ること。この場合の芸能とはそのことである。舞台はオバたちを語り手にして、「漂泊の物語」を「漂泊の唄物語」に仕立て直したのである。
(文:天野道映)