片山杜秀が、黛敏郎と「金閣寺」を大いに語る

レポート
クラシック
2015.11.13

音楽講座全力レポート

黛敏郎の大作、歌劇「金閣寺」がことし12月5日、6日に神奈川県民ホール開館40周年記念公演として上演される。題名からおわかりいただけるとおり三島由紀夫の有名な小説による作品だが、黛敏郎が作曲したこの歌劇が上演されることは滅多にない。なるほどTVなどで活躍した作曲家のものではあっても、いわゆる現代音楽の範疇にある作品で、しかも一般に馴染みのないオペラで、さらに知られた原作ではあってもドイツ語で歌われるのでは親しみにくく思われるのも仕方がないのかもしれない。いや、現在では原作の三島の小説にしてもそのあらすじだけ、もしかするとタイトルだけ、が知られているのかもしれないが、それでもこのオペラの知名度とは比べようもない。残念なことである。では、とレコーディングに目を転じても、唯一1991年の日本初演ライヴ録音があるのみ(これも最近までは入手困難だった)。今回の県民ホール オペラシリーズでの上演はなんと16年ぶりの上演、新制作なのだ。


さて、その若き日から天才、音楽界のスターとして君臨した黛敏郎の集大成であり代表作である「金閣寺」を上演するという貴重な機会を前に、神奈川県民ホールでは”オペラ『金閣寺』をもっと楽しむ!”と題していくつかの関連企画が開催される。今回紹介する音楽講座に続いて、神奈川県民ホールでは”オペラ「金閣寺」をもっと楽しむ!”文学講座、朗読劇がともに11月29日に開催される。中でも朗読劇は「オペラを元に台本を書き下ろし」た新作なので、これまでに上演された舞台とはまた違う舞台の「金閣寺」の登場として注目されるだろう。

さて、その最初の企画が音楽講座と知った私が受講してきたので、早速全力のレポートをお届けしよう。11月7日の音楽講座、会場は県民ホールの大会議室、講師は博覧強記で知られる片山杜秀氏だ。

……ひとつ最初に打ち明けてしまえば、片山氏の話聞きたさに、いち個人として参加したイヴェントだったのだが、その話のあまりの面白さゆえ、内容をより広くお伝えしたいと思うに至った次第である。ここから12月の「金閣寺」上演に興味を持っていただけるならば私としても喜ばしい限りだ。

だが、はじめにあくまでもこれは「ほぼ完全版」である、とあらためてお断りをさせていただきたい。片山氏のお話の情報量、そして何よりその奔流の如き語りの面白さをともに再現するのはいささか困難であるため、ここでは情報の提示、整理に焦点を当ててさせていただく。講座の中で片山氏は何度も「時間を上手くやりくりできなくて」と言われていたけれど、以下お読みいただける大量の情報がわずか一時間半で示されているのだから、それは時間のやりくりの問題ではなく単に講義の情報量が「過積載」なだけではないか、と個人的には申し上げたく思う。では以下に、そのレクチャーを再構成してお届けしよう。長文なので、お時間のあるときにお読みいただき、12月に上演されるオペラ「金閣寺」への興味をお持ちいただけたら私としても大いに幸いである。

まずは「金閣寺」の作曲にいたる黛敏郎の経歴を、当日に配布された資料を参照してまとめる。

1929年2月20日、横浜に生まれた黛敏郎は、1945年に横浜一中(旧制、現在の県立希望が丘高等学校)から東京音楽学校(当時は専門学校、後の東京藝術大学 音楽学部)に進学する。入学前から橋本國彦に師事、戦後に橋本國彦が公職を退いて後は中村太郎に師事、後に池内友次郎、伊福部昭からも教えを受ける。在学中から才気を示す作品を作る一方で、ジャズ・バンド(という名の軽音楽バンド。ジャズに限らずラテンなどのポピュラー音楽を演奏する)でピアノを弾き、ポピュラー音楽のエッセンスも吸収していく(これは後に、シンフォニックポップスなどの編曲、演奏活動に活きることになる)。この時期にあたる1948年に発表した「10楽器のためのディヴェルティメント」は、ストラヴィンスキーやフランス6人組などの新古典主義的の影響の中にも黛の才気を感じさせる小品だ。

1950年には「シンフォニック・ムード」、「スフェノグラム」を発表し、翌年「スフェノグラム」が国際現代音楽協会音楽祭に入選する。同年フランスに私費留学、翌年には帰国する(学べるものは学んだ、としての切り上だが、私費つまり「自前」の留学であることも理由だろう)。なおこの留学の際に黛敏郎と三島由紀夫はパリで出会っている。

帰国後は芥川也寸志、團伊玖磨と結成した「3人の会」で「饗宴」(1954)、「トーンプレロマス55」(1955)を、そして1958年には代表作となる「涅槃交響曲」を発表、名実ともに日本を代表する作曲家となる。「涅槃交響曲」で確立された彼の作風は後の歌劇「金閣寺」(1976)でも聴き取れるものだ。

またこの時期までの黛敏郎の活動において、大きい要素である映画音楽についても触れる必要がある。ある時期彼にとっての主な仕事(金銭面でも、作品数でも)であった映画での仕事は、残された数多くの作品※に聴かれる多彩な音楽そのものも重要だが、彼の作風上の「日本回帰」の原点である可能性からも重要だ。

というのも、当時黄金期を迎えていた日本映画の撮影拠点は京都にあったため、黛は京都を頻繁に訪れるなかで梵鐘の響きを「発見」した可能性がある。梵鐘の響きを解析し、その独特な響きを西洋楽器で再現するカンパノロジー・エフェクトも、映画の縁で出会った黛敏郎と京都が生み出したもの、かもしれない。

※註:たとえば、日本最初の総天然色映画である「カルメン故郷に帰る」(1951/木下恵介監督)の主題歌は黛敏郎の作曲である。三島由紀夫と関係する映画作品については後述するが、黛敏郎音楽による日本映画は実に多い。なお、今回講義の中で参照された映画は「野獣死すべし」(1959/須川栄三監督。松田優作主演作(1980)ではない)、「黒蜥蜴」(丸山(美輪)明宏版ではなく(そちらの音楽は冨田勲)、京マチ子主演の1962年版/井上梅次監督。江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が劇化、映画用に新藤兼人が脚本化)の二作。

●黛と三島

パリでの出逢いからはじまる黛と三島の協力関係は、数多くの映画、演劇などが残されている。比較的接しやすい映画の例をあげれば「潮騒」、「炎上」(原作は歌劇と同じ小説「金閣寺」、後述)や「黒蜥蜴」などの作品に黛敏郎が音楽をつけている。ほかにも演劇「葵上」「班女」などの仕事がある。また毛色の違ったところでは1959年の今上(当時の皇太子)ご成婚に際して作曲されたカンタータ「祝婚歌」は三島由紀夫の詩、黛敏郎の作曲だ。
しかし彼らの協力関係の頂点となるはずだった、新設された日生劇場のための歌劇「美濃子」は途絶(1964)、それによって彼らの協力関係は1967年の映画「愛の渇き」の音楽のような例外を除いて失われてしまう。

●歌劇「金閣寺」について

残念ながら歌劇「美濃子」は断念されたものの、このオペラが上演されるはずだった日生劇場と歌劇「金閣寺」(1976)の間には不思議な縁がある。

この劇場のこけら落とし公演は、日本で最初となる海外の歌劇場の完全な引っ越し公演であるベルリン・ドイツ・オペラの「フィデリオ」であった(カール・ベーム指揮による1963年の伝説的な来日公演。それまでは”歌手と指揮者を招聘して日本の楽団、舞台装置での上演”のようなケースが多かった。「NHKイタリア歌劇団」など参照)。この公演の縁でベルリン・ドイツ・オペラの総支配人グスタフ・ルドルフ・ゼルナーから日本の作曲家によるオペラが提案され、その話を受けた吉田秀和からの提案で黛敏郎に白羽の矢が立つ。そこで示された原作の案は歌舞伎かもしくは「金閣寺」だったという、そして選ばれたのが後者なのである。

上述のとおり「美濃子」の途絶により二人の関係は微妙なものだったが、黛から正式にオペラ化の申し入れをしたところ三島は許可し、自身も初演には立ち会うと前向きな反応を示す。しかし御存知のとおり、三島由紀夫は1970年11月25日に市ヶ谷駐屯地で自衛隊の蹶起を呼びかけた後割腹自決、もちろん1976年に初演されることになるオペラを聴くことはなかった。

なお、このような経緯で作曲された本作は、三島由紀夫の小説をベルリン・ドイツ・オペラ座付きの作家クラウス・H.ヘンネベルクがドイツ語で台本化し、それに黛敏郎が音楽をつけた。音楽はドイツ語のイントネーションを活かすよう書かれているため、他の言語に翻訳しての上演は認められておらず、今回もドイツ語で上演される。しかし、時系など細部の異動はあっても基本的に小説のままのお話なので、字幕付きの上演であれば筋書きを追う上での困難はほぼないものと思われる。

以下、いくつか作品についての興味深いコメントを紹介したい。というのも実は、このあたりまで詳しく説明をいただいたころには本格的に残り時間が足りなくなり※、駆け足での言及になってしまったからである(笑)。

・このオペラに先行して黛敏郎は小説「金閣寺」を映画化した「炎上」(1958/市川崑監督、市川雷蔵主演)でも音楽を担当している。この映画の音楽に、黛はプリペアード・ピアノを使用して登場人物の特徴を描出しているのが興味深い(主人公の溝口の吃音、重要な役どころである柏木の跛行を黛は「加工されたピアノ」の音色によって簡潔に鮮明に示している)。

なお、オペラでは溝口は「吃音→片手の不自由」に設定が変更されている(おそらくは音楽的理由から:吃音を音楽で表現することは手法次第で可能だが(実際にリズム的な描写などにより直截な描写をしている例もある)、実験的な作品でもなければ正面から取り組むのは時間的、表現的に困難)。

・一般的なオペラであればたとえば「カルメン」であれば「ドン・ホセとカルメン」のように人間同士の話になるところ、この作品では人間とモノ、「主人公と金閣寺」のドラマが主となる。であれば、ドラマの焦点となる「金閣寺」をどのように見せるか、は演出上の大きなポイントとなる。舞台上では見せないことで金閣寺の存在を示すような手法もあり得るだろう。※

なお、冒頭の合唱の中で「金閣寺」と歌ったところで示される六音によるモティーフが金閣寺を表し、劇中で様々な変容をしつつ何度も何度も現れるので、これをまず覚えましょう(全曲中でほんとうに何度も繰り返し登場するので、聴けばすぐに覚えられるとのこと)。

※今回演出を務める田尾下哲は「KANAGAWA ARTS PRESS」2015年8&9月号で「今回は舞台上で常に金閣寺が在る設定にしたい」「お客様の眼から隠す場面はありますが、装置の移動はさせません」と語っている。注目である。

・本作で合唱は能の「謡」、もしくはギリシャ劇のコロスに相当する位置を占める重要な役どころだ。「涅槃交響曲」で示された男声合唱による読経の表現は、ここでも用いられる。

また、管弦楽は黛らしく実によく「鳴る」書法で書かれているため(黛敏郎がヴァレーズ、ストラヴィンスキーの音楽を愛好したことを思い出そう)、実際の上演は録音とはまったく別の体験となるだろう。オペラのお話は主人公が金閣寺を燃やすことを決意して終わるが、音楽的には執拗に繰り返される金閣寺のモティーフがすでにその炎上を描写しているようでもある。実演ではこのスコアから、特にフィナーレにおいて「どれだけ大きい音を下野竜也が鳴らしてみせるか」というのが聴きどころ。

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講義の冒頭で”黛敏郎は「題名のない音楽会」の司会でおなじみだった、と言っても最近では若い人たちに通じない”とぼやき気味の(しかし早口の)語りで始まった本講義は、これだけの膨大な情報を示して終了した。その語りの面白さが本稿からはお伝えできないことは、返す返すも残念である。

なお、資料に用意されていた「黛と声楽、うた、オペラ」という項は残念ながら講義の中でさらっと触れられたのみなのでここでも詳しい紹介はできないのだが、その資料の内容から映画などについてはここまでの文中に取り込むよう務めたつもりだ。黛敏郎が歌を提供した歌手に「丸山明宏、美空ひばり、石原裕次郎、フランキー堺、吉永小百合」など多彩な面々が並ぶことのみを、資料より引き写しておく。

映画音楽、そして往年の「題名のない音楽会」、さらにかつてのジャイアント馬場の入場テーマ曲(正しくは日本テレビ系列のスポーツ番組のテーマ音楽)「スポーツ行進曲」なども考え合わせれば、我々は作曲者を知らぬうちに数多くの彼の音楽に触れてきたのだな、という想いをいま一度強くする講義であった。

彼のキャリアの頂点に鹿苑寺のごとく燦然と輝くオペラ「金閣寺」を体験できる日までもうひと月もない。ぜひ三島の小説を読み、映画「炎上」を見て、さらに「涅槃交響曲」など「金閣寺」以外の黛作品にも触れて、県民ホール特別企画にも参加して、舞台の闇に金閣寺が聳えるその日を迎えよう。ぜひ、骨までも貪る姿勢で臨んでいただきたいと、私からも切望する次第だ。

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今回の上演を期にオペラ「金閣寺」の唯一の録音である岩城宏之指揮東京フィルハーモニー交響楽団ほかによる1991年のライヴ盤が、タワーレコードから限定数再販されることも要チェックだ。チェロ独奏のための「BUNRAKU」(1960)などの作品は最近多くの演奏家が取り上げていることもあり、晩年の論客としての記憶が薄れる中で、「音楽家・黛敏郎」復活の時が来ている、のかもしれない。
 

イベント情報
神奈川県民ホール オペラシリーズ2015 オペラ「金閣寺」

■日時:2015年12月5日(土)、6日(日) 15:00開演
会場:神奈川県民ホール 大ホール
■出演:溝口:小森輝彦(12/5)/宮本益光(12/6)、父:黒田博、母:飯田みち代、若い男:高田正人、道詮:三戸大久、鶴川:与那城敬、女:吉原圭子、柏木:鈴木准、娼婦:谷口睦美、有為子:嘉目真木子 
■指揮:下野竜也
■管弦楽:神奈川フィルハーモニー管弦楽団
■合唱:東京オペラシンガーズ
■演出:田尾下 哲
■公式サイト:http://www.kanagawa-kenminhall.com/kinkakuji/

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