KEYTALKをブレイクさせた下北のインディーズ番長に迫る『エンタメの今に切り込む新企画【ザ・プロデューサーズ】第十八回・古閑裕氏』
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
編集長として”エンタメ総合メディア”として様々なジャンルの情報を発信していく中で、どうしても話を聞きたい人たちがいた。それは”エンタメを動かしている人たち”だ。それは、例えばプロデューサーという立場であったり、事務所の代表、マネージャー、作家、エンタメを提供する協会の理事、クリエイターなどなど。すべてのエンタメには”仕掛け人”がおり、様々な突出した才能を持つアーティストやクリエイターを世に広め、認知させ、楽しませ、そしてシーンを作ってきた人たちが確実に存在する。SPICEでも日々紹介しているようなミュージシャンや役者やアスリートなどが世に知られ、躍動するその裏側で、全く別の種類の才能でもってシーンを支える人たちに焦点をあてた企画。
それが「The Producers(ザ・プロデューサーズ)」だ。編集長秤谷が、今話を聞きたい人にとにかく聞きたいことを聴きまくるインタビュー。そして現在のシーンを、裏側を聞き出す企画。
マネージメントするKEYTALKがとにかく大ヒット。“下北のインディーズ番長”KOGAレコーズの古閑社長にその成功ロードの秘密と、今後の展望、彼が大切にする仕事の流儀を直撃した。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――元々下北沢をレーベルの拠点に選んだ理由から教えて下さい。
僕が所属していたバンド・Venus Peterの事務所がUK PROJECTだったというのもありますし、大学が明治大学だったので下北沢が近くて、学生時代からライブをやりによく来ていたので、迷わずシモキタでした。
――ライブハウスが多いですよね。
当時は「屋根裏」があって、その後「シェルター」ができて。「シェルター」のこけら落しがVenus Peterで、その日から25年以上シモキタで飲み続けています(笑)。
――下北沢にいることが自然だったんですね?
遊び場ですよね。今は区画整理されていますけど、当時は雑多な感じで今のようにキレイではなく、色々なところを探検する感覚でした。“音楽の街”としてどんどん発展していくのが面白かったです。
――KOGA RECORDSをスタートさせるにあたっては、既にアーティストを抱えていたのでしょうか?
いえ、「シェルター」でガレージパンクなどのシーンのライブを観に行ったりとか、BEYONDSというバンドと仲が良かったので、そのつながりで色々なバンドを紹介してもらったり、いろんなバンドとのコネクションがあったので、まずはオムニバスを作ろうと思いました。
――古閑さんは、マネージャーでもありプロデューサーでもあり、自身もアーティスト活動をやっているという事で、プレイヤーとマネージメントの両方の気持ちがわかるというところが武器になっていますよね。
多分そうだと思いますし、だからアーティストがちゃんと話を聞いてくれるのだと思います。一時期はバンド活動をやめていたんですが、そうするとおもしろいもので、みんなだんだん僕の話を聞いてくれなくなるんですよ。そうなるのが嫌だったのでROCKET Kというバンドをやり始めたら、また僕の話を聞いてくれるようになりました(笑)。
――アーティストからしてみれば、そこが一番信用できるところですよね。
そうですね。「古閑さん意外にベース弾けんじゃん」みたいな(笑)。それが説得力になります。
――KOGA RECORDSを立ち上げた1995年頃はインディーズ全盛でした。
当時メロコアとギターポップがリンクしていた時期があって、その時はすごく盛り上がっていましたね。僕も行き当たりばったりでやっていたのですが、なんでこんなに売れるのだろうと思っていた時代でした。あと僕のところって、時代の節目にキーになるバンドがぽっと出てきて、ヒットをかっとばしてました。人からは「古閑さん3年に1発、逆転満塁ホームランがあるよね」と言われます(笑)。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――古閑さんのところに人も情報も集まってくるのではないでしょうか。
音楽が大好きで、心から愛しているという自負があって、それをみんなわかってくれているみたいで、音楽の話と色々なまわりの出来事がリンクして、僕の所に集まってきてくれるのかなと思っています。
――古閑さんのアンテナに引っかかるバンドは、共通点があるんですか?
アクの強いバンドが好きです。それはメロディだったり、サウンドだったり、僕が子供の頃から聴いていた、良いと思っている曲とそのバンドが何かしらリンクしたら、一緒にやりたいと思います。
――今でも良いバンドがいると聞けば、すぐに会いに行っていますか?
ちょっと前まではそういうところにすごく貪欲でしたが、さすがに忙しすぎて難しくはなってきています。探すばかりではなく、今いるバンドをもっと盛り上げ、底上げしなければいけません。KEYTALKやBenthamといったバンド達を、どれだけカッコよく見せるか、世に知らしめて売り出すかという事が大切なのですが、パイがみんな大きくなっているので僕一人ではどうにもならなくなってきています。だからスタッフも増えました。
――マネージャーとプロデューサーは似てるところもあるし違うところもあると思いますが、それぞれについて古閑さんが思う定義を教えて下さい。
マネージャーはお金の管理と、あとはアーティストのケツ拭きで、プロデューサーはいかに自分の理想に近い、かっこいい音楽を作っていくか、アーティスティックなものを制作するかが仕事だと思います。
――今マネージャー志望の若い人は増えていますか? 減っていますか?
マネージャー志望の人多いですよ。今はフェスやイベントが音楽シーンの主流になりつつあるので、そういう意味でアーティストにつくという部分では、マネージャーという存在は絶対必要ですからね。特にフェスではレコード会社のディレクターはそこまで関与しないので、マネージャーの力が必要になります。
――古閑さんが部下のマネージャーさん達に、必ず言っていることは何ですか?
まずアーティストと親密に話し合って、その情報を不満も含めたところで、今日あった事を僕に報告するようには言います。
――そうですよね、様々な事に対応しなければいけないですからね。
そうです、僕は何かあったら謝る役ですから。色々なところに謝りに行きますね(笑)。
――下北沢のインディーズ番長として20年以上君臨している古閑さんですが、経営者として大切にしている部分を教えていただけますでしょうか?
お金にうるさいところ(笑)。
――好きな音楽を追求しつつ、経営の方はしっかり“取り締まる”と。
そうですね。……と言いながら僕は車とか家とか全く興味ないので、全て音楽で消化したい。これが大切にしている本音です。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――稼いだお金は全部音楽に注ぎ込むという考え方が、やはりアーティストには説得力がありますよね。
だって音楽という趣味で人生を過ごしてるわけですから、当然だと思います。そのかわり休みはありませんが……。
――そんな古閑さんを慕ってKOGA RECORDS所属になったKEYTALKとの出会いを教えて下さい。最初はデモが送られてきたんですか?
そうですね。彼らは200社くらいにデモを送っていて、ライブを最初に観に行ったのは渋谷CYCLONEで、後ろに知っている人達がいっぱいました。
――どうやって口説いたんですか?
友達のような付き合いになって、シモキタで飲んだり、彼らから「ライブの打上げやってます」と連絡をもらったら合流して、一緒に飲んだりしていました。それでそんな付き合いが一年くらい続いて、でももうさすがに無理かなと思って諦めようとした時に、シモキタのマクドナルドで「そろそろ行くところを決めたほうがいいと思うので、うちはもう手を引くので、でも何かあったら相談乗るからね」と言ったら、メンバーに「え?」って言われて、「いや、古閑さんのところに決めてるんですけど」ってなって。
――なんでもっと早く返事をくれなかったんですかね?(笑)
彼らが色々な事務所やレーベルの人と会って、そこで僕の名前を出すとみんな大体知っていたらしく、なのでこんなに顔の広い人は見たことがない、というところで決めたと言っていました(笑)。
――今って、メジャーに関心がない若い人達も多いですけど、彼らは最初からメジャー志向だったのでしょうか?
そうです。「僕らはバンドで飯を食いたい」と。なのでいつも僕らがやっていたバンドとはちょっと違いました。インディーズで音源出してバンドをやるというよりも、最終的にはバンドを続けてそれで飯を食って行きたいと言ったバンドは、彼らが初めてでしたね。当時、個人的にもCDが売れなくなってきているという状況も影響していたと思いますが、インディーズレーベルやることに少々飽きていた時期で、それで気分転換という事も含めて、彼らをメジャーに押しやるというか、そこに向かって一緒にやって行くという活動も、自分の音楽人生の中で面白いのではと思って。
――メジャーというフィールドで、いかに彼らがやりたい音楽をそのままやらせてあげられるかということでしょうか。
そうですね。技巧派バンドでなければ、僕がプロデュースできたと思いますが、KEYTALKのようなテクニックを持っているバンドは、僕には無理だなと思って、ふと頭に浮かんできたのFRONTIER BACKYARDの田上(TGMX)君でした。ダンス、パーティミュージックっぽい音には、彼しかいないと直感で思いました。
――KEYTALKって最初は地方で盛り上がっていた記憶が……。
毎週地方都市に出かけて行ってライブをやっていました。中でも名古屋が多かったですね。メンバーだけでメンバーの父親からもらった普通の乗用車を運転して、全国を回っていました。イベントにも積極的に出て、そうこうしているうちに東京よりも地方都市の方が集客できて、今日はCD5枚、今日は20枚売れましたという報告が、毎回僕のところに来ていました。それがいつの間にか40枚売れるようになってきて、今で言うライブハウス限定のCDを作ったりもしていました。
――着々だったんですね。
そうですね。少しずつ少しずつライブで大きくなっていった感じです。鳴り物入りではなかったので。ウチのレーベルの先輩にSpecialThanksというバンドがいますが、彼らは鳴り物入りでデビューして、いきなりボーンと売れたので、余計に違いを感じました。KEYTALKは少しずつ実力をつけていったというか、ライブでお客さんと一緒に自分達のスタイルを確立していった感じです。MCでは必ず「下北沢から来ました」と言ったり、途中でメンバー紹介を必ず入れるとか、何かしらギャグをやるとか、3ヶ月に1回はメンバーのニックネームを変えてキャラ付けしたり。最初から4人4様のキャラがあったので、それがお客さんに受けたのではないでしょうか。あとは「a picture book」という曲では振り付けもやらせました。当時氣志團が振り付けがある曲で盛り上がっていると聞いたので、KEYTALKにもやらせるとお客さんも盛り上がるし、面白いかなと思って(笑)。でも途中から「こんなアイドルみたいな事はやりたくない」と言ってきて(笑)、なので振り付けは封印していましたけど。彼らは、自分達が尊敬するthe band apartの影響もあって、それまでは半分位は英語詞だったのに、ある時「全部日本語の歌詞にします」と言ってきて。僕は洋楽テイストのスタイリッシュなバンドになって欲しかったので、英語の方が良かったのですが、それが実は違ったんでしょうね。彼らは彼らなりに全国のライブハウスを回って、そこで色々な事を感じて、日本語の歌詞の方がいいと学んだのだと思います。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――日本語の歌詞でああいう音楽をやる先駆けだったのではないでしょうか?
時代が変わろうとしていた時に、自分達も変わっていく、切り拓いていったのだと思います。
――0から100枚売るやり方と、100枚から1000枚にするやり方は違うと思いますが、どんな戦略だったのでしょうか?
まずは人がやらないことをやるという事を考えました。例えば、「KTEP」シリーズという1000枚、2000枚の限定盤を作って、これは当時やっている人がいなかったので反響が大きかったです。買えない、買えなかったという飢餓感を煽るような流れを作りたかったんです。それでこのシリーズを4枚出して、最終的には廃盤になっているので「KTEP」コンプリートを作ろうといったら、メンバーから「やり方が汚い」とブーイングされました(笑)。KEYTALKは僕がやりたい事の実験台だったのかもしれません(笑)。
――下北沢限定のグッズを作ったり、KEYTALKとは毛色が違うバンドと2マンライブをやったりしていましたよね。
UK PROJECTの方がシモキタでは老舗なのに、シモキタ感をあまり出されないじゃないですか。だったらこっちは出しまくってやろうと思いました。
――下北沢の街が一丸となってKEYTALKを応援しているのを感じます。
僕が商店会の副会長さんと飲み友で、でも全然仕事をしたことがなく、ある日飲んでいる時に「KEYTALKというバンドが頑張っているので、聴いてみてください」ってCDを渡したら、お店に飾ってくれて。それで、ボーカルの寺中がたまたまそのお店のお客だったみたいで、行ったときに自分達のCDが飾ってあるのを見つけて「これ僕です!」って言ったみたいです。そこから商店会の皆さんとメンバーも仲良くなるキッカケでした。
――横の繋がりを大切にしている古閑さんならではのお話ですよね。
繋がりしかないので。それを活かしきれているのかはわかりませんが、KEYTALKがひとつのモデルケースにはなったと思います。全く同じ事をやっているわけではありませんが、その流れをなぞっているのがBenthamです。もちろん彼らにしかできない事もやっていますが、その流れはKEYTALKに作ってもらった感じです。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――KEYTALKのメディアの戦略はどう考えていたのでしょうか?
YouTubeを多用しました。メンバーに振り付けをやらせたり、テレビでの露出が難しかったので『KEYTALK TV』という番組を作って、おバカなことをやったり。面白いのは出たがり社長が出てきて、僕も半分キャラクターになって辛辣な事をいうじゃないですか、それが面白かったみたいですね。
――だってKOGAレコーズですからね(笑)。
なんでこの名前にしたかというと、半分ギャグなんです。なんとか商店とかあるじゃないですか。そういうノリで付けました。でも冷静になって考えてみると、なんでこの名前にしたんだろうって(笑)。KOGAレコーズって何?みたいな。正式にはケイ・オー・ジー・エーレコーズなんですよ。ただ最近はみんなケイ~と言ってくれなくて、コガでしょ?って。なんでみんなにこんなに呼び捨てにされなければいけないんだと思いながらも、最近は認知されてきたので、いいですKOGA(コガ)レコーズで(笑)。
――これからKEYTALKはどこに向かっていくのでしょうか?
僕の範疇外的な大きな存在になりつつあって、だったらもう子供から大人まで聴ける、日本を代表するようなバンドになっていって欲しいです。そういうバンドをやるの初めての経験なので、自分も勉強になるし、今後の弊社の道標になると思います。ここまできたら、東京ドームとかスタジアムでライブをやってみたいです。僕がバンドでやれなかったことを、うちのアーティストにやってもらいたいという想いはあります。
――これまでのオシャレな感じから、歌謡曲テイストの楽曲が増えてましたよね。
メインソングライターでもあるボーカルの首藤が、実はサザンオールスターズが好きで、今はそんなポップな部分を押し出したソングライティングに変化しているのかもしれません。僕の趣味とかはどうでも良くて、国民的バンドになるというのが彼らと僕の共通目標になればいいかなと。僕の趣味的に好きな音楽テイストを押し付けるのは(笑)、また新人バンドでやります。
――お話を聞いていると、事務所とアーティストの関係が本当に純粋ですよね。
そうですね。僕もアーティスト活動をやっていたので、アーティストの希望はなるべく叶えてあげたいと思っています。基本はそこですね。
ザ・プロデューサーズ/第18回古閑裕氏
――自分たちの気持ちを理解してもらっているというのは、アーティストのモチベーションにも影響しますよね。
なので、こちらは良かれと思って言っていることなので、NOと言われると悲しくなるんですよね。なんでわかってくれないの?という感じになります。でも理解して、わかりましたと言ってくれるアーティストは伸びるというか。こちらは考えに考えての提案なので、むきになってNOって言うよりも、「古閑さんがこう言ってるから大丈夫だろう」とKEYTALKのメンバーはYESと言ってくれることが多いので、彼らが素直な事もありますが、信頼してくれているのだなと思います。
――KEYTALKで古閑さんの理想とするやりたい事とかをやって、それが成功して大きくなってますけど、まだまだ色々なバンドで色々な事をやっていきたいという気持ちが強いですか?
それしかないですね。僕が3人くらいいて、日本全国のライブハウスに行って、カッコいいバンドを探したいですし、まだ原石のバンドの音源をいつでも聴きたいと思っていますし、探しています。でも先ほども出ましたが、今いるバンドを盛り上げていかなければいけないです。
――送られてくるデモテープの数は増えていますか?
うちはオーディションをやっていないので、あまり送られてこないですね。送られてきても、多分KEYTALKと同じような感じのものが多く送られてきてる気がするので。僕的には自分で探して、コレって思うバンドの方がいいと思っています。
――今後どういうアーティストを手がけてみたいですか?
ガールズバンドですね。年齢と共にそういうバンドは辞めていってしまうので、最初は下手でもいいので、初々しくて、歌が良くて、ルックスがいいガールズバンドをやってみたいですね。
――最後に、音楽業界はこれからどうなっていくと考えていますか?
僕はCDを買うのが好きなので、音源を売ってナンボの業界であり続けて欲しいですが、マネージメント側も、音源あってのグッズだと思っているので、やっぱりカッコイイ音源を作れば、まだまだCD買ってもらえると信じてやっています。今海外の音源の聴き方って定額制音楽配信(サブスクリプション)サービスが主流になってきてて、だからこそ今の時代、フィジカルな音源商品って、アナログ、Tシャツ、CDがセットになったものとか、ブックレットにこだわったり、そういうアイディアでCDの購買欲を煽る方法とか今後も色々参考にしていきたいです。
だからこそ、バンドらしいバンドが付いてくるし、それを広げてあげることができる。「バンドを売る」ということには、今や様々なアプローチが存在し、様々なやり方が溢れている中、ベーシックをきっちりと抑え、あくまで地道にバンドらしくつくりあげていくこの手法は本当に貴重だなと思います。
そしてやはりそれこそが「本物」を産み出す土壌になるのだと思います。いつまでもこうしてバンドが送り出されてくることを願うばかりです。
SPICE総合編集長 秤谷建一郎
企画・編集=秤谷建一郎 取材・文=田中久勝 撮影=三輪斉史
古閑 裕(こが ゆたか)
KOGA RECORDS代表