圧倒的技術や経験を持つアーティストの背景に迫る【ザ・スキルズ】第一回 ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

インタビュー
音楽
2017.6.15
 
ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

ゲビル:若≪和太鼓師 広純 - HIROZUMI≫

――最初からメジャー志向だったんですね。

そのシーンに乗る事ができさえすれば、もっと表現出来るし、とにかく“場”が欲しいという事ですよね。

――役者をやりながらミュージシャンをやっている人もいて、その逆も然りですが、当時は両方やってみようとは思わなっかたんですか?

逆に今だったらやっていく自信がありますが、当時は考えていませんでした。

――ゲビルをスタートさせて、3か月で初ライブを高円寺のライヴハウスで行い、満杯にしてそこでこれからの活動に対して手応えのようなものを感じたのでしょうか?

このライブには何故かソニー・ミュージックのSD(新人発掘・育成セクション)の方が観に来ていて、ライブが終わった後に、一緒にやらないかと声をかけてくれました。そういう方が早速気にかけてくれたので、メンバーが俺についてきてくれたことに関しては、間違っていなかったと、ひとつ納得してもらえたかなと想いました。

――レコード会社のスタッフは、ゲビルのどこに一番ひかれたと言っていましたか?

むちゃくちゃ個性的で、妖怪バンドのような感じで、僕は顔の半分を白塗りしていました。それと1stライブなのに、なんでこんなに動員ができて、こんなに盛り上がっているんだと不思議だったようです。僕が一番嬉しかったのは当時は、今まで出演していた「コカコーラ」のCMとかドラマ「金田一少年の事件簿」を観て、興味を持って集まってくれた人も多かったのですが、レコード会社の方は、僕が芸能活動をしていた事は知らずに、純粋に音楽を、ライブを評価してくれたことです。まだデモテープもできていない俺たちと一緒にデモテープを作ろうよって言ってくれて。

――そこからデビューに向け、着々と準備をしていったんですね。

そうですね。そんな中で、SDが育成中のアーティストのプレゼンライブというのがあって、レコード会社や事務所関係者の方が100人以上いる前でパフォーマンスしました。いわゆる関係者の方は椅子に座って腕を組んで観ているのが定番ですが、そんな客席に向かって僕は中指を立てて「お前ら立ち上がれ!偉そうに何座って観てんだよ!」って言いましたね(笑)。当時の担当は、「好きなようにやれ広純。お前等らしくここで媚びなくて良い」と言ってくれていて。でもまさかの一社も手が挙がらないという(笑)。

――やんちゃな感じを評価してくれなかったんですね。

みんな媚びていて、本当に全員ぶっ飛ばしたかったですね、業界人向けのプレゼンなのに。

――終わったあと担当者は何と?

「お前ら面白いからそのままでいいと思うよ!」と言ってくれました。メンバーはみんなあっけらかんとしていて、全然悔しくなかったですし大人の前でも自然体で演れた達成感でした。当時の担当者の方々には凄く感謝していて
今でもお世話に成り良くしてもらっております!今でも大切な人です。

――その後は、どういう動きをしていたのでしょうか?

そのあと『命賭の馬鹿』(2001年)という初めてのアルバムの制作に入って、インディーズレーベルから発売しようと思ったのですが、そこでも色々ありましたが、発売できて。バリバリの和創ハードコアでした。その時、今メジャーシーンで活躍しているアーティストの仲間もみんなレコ発に来てくれて、当時まだみんなインディーズでしたが、そういう一つのなんともいえない個性的なジャンルのシーンができあがっていました。当時ゲビルは「戦頭(バトルヘッド)」というイベントをずっとやっていて、そこに出ていたアーティストはみんなメジャーに行きました。僕は自分自身に自信があるかどうかはわかりませんが、“場”を作る事や、アーティストを見極めることに関しては、すごく自信があります。だからプロデュース業は続けていきたいと思っています。

――その後、ポニーキャニオンからデビューしています。

ゲビルとして活動して7年くらい経っていました。僕が20歳の頃のゲビルは、ライブ中に物を燃やしてしまうような感じの、どちらかというと荒れ狂ったパフォーマンスの足し算なライブになっていました。でもそこから一気に方向転換して、引き算する事を考えました。曲調やテーマをガラッと変えてヘヴィなイメージよりも、間口を広げてみんなをウェルカムできるようなバンドにしていこうと。

――そこにようやくたどり着いたということだと思いますが、そんなにカラーとか方向性を一気に変えられるものなのですか?

変えたのと同時に、お客さんも一気に変わりました。モッシュというか、揉みくちゃなライブをやっていたのに、振り付けを入れたり、最前列に女性がいても安全なライブに変えたので、「どうなったんだ⁉︎」という人と、「面白いことを考えたね!」という人が両方がいました。賛否両論があるのは当たり前だと思っていましたが、僕としては、今後メンバーの事を食わせたい一心で考えました。それまで激しいライブをやっていても客席は満杯でしたが、ちゃんとを買って入場するのが10人位しかいなくて、あとはみんなヤンチャな奴らが受付をどさくさに紛れて突破して、入ってきていました。だからイベントは超満員なんですけど、代が入ってこないという状況で。でもそれはそれで面白いと思っていたので、否定はしません。当時、また芸能プロダクションにも所属していたこともあって、ポニーキャニオンさんとも縁ができて。僕は昔からフジテレビが大好きで「めざにゅ~」(当時)しか観ていなかったので、音楽番組に出るより「めざにゅ~」で取り上げてくれる方が全然いいと思ったので、ポニーキャニオンが良かったです(笑)。

――ゲビルは当時ニューヨークでストリートライブが受けて、話題になっていましたよね?

ニューヨークで和太鼓とチャッパ(ミニシンバル)を使って、パントマイムのようなストリートパフォーマンスをずっと演っていました。僕らのようなバンドの強みって、楽曲よりパフォーマンスを評価してくれて、言葉がなくても伝えられるということですよね。このパフォーマンスを路上で約45日間ひたすらやり続けて、最終的にニューヨークの「SOL」というクラブを満員にすることができました。路上でパフォーマンスをやってフライヤーを配りまくって、ダイレクトに評価が来るという事で、日本だったら3年かけてやる事が、向こうでは1か月で結果が出て、そこでポニーキャニオンが手を挙げてくれました。それでニューヨークでレコーディングをし、「だから今夜」という曲で2006年にメジャーデビューしました。

――それだけ反響が大きいと欧米ツアーとかができそうな感じだっのでは?海外に軸足を置いて活動していこうという考えはなかったのでしょうか?

そうしたかったですね。当時ニューヨークで「MTVミュージックアワード」からもオファーが来て、喜んでいたら帰国しなくてはいけないタイミングで、もったいないなと思いましたが、色々と状況が整っていなかったんだと思います。出演していたらミュージシャン人生が変わっていたかもしれないですよね。韓国太鼓っていうのがあって、その大家で人間国宝の方がニューヨークで大きなスクールを開いて、気に入られてそこの講師としてスカウトされましたが、和太鼓とは圧倒的に違うので断りました(笑)。それで日本に帰って、リリースして、プロモーションして、ライブをやってという活動を重ねました。

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