オフィスコットーネプロデュース公演『怪談 牡丹燈籠』──演出家・森新太郎と俳優・柳下大に聞く
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オフィス コットーネ公演『怪談 牡丹灯籠』左から、萩原新三郎を演じる柳下大、演出家の森新太郎。
脚本家・フジノサツコと演出家・森新太郎のコンビは、これまでにも新国立劇場公演『東海道四谷怪談』、演劇集団円公演『景清』など、次々に古典芸能の名作を、現代劇として新しく甦らせてきた。今回は三遊亭円朝による落語『怪談 牡丹燈籠』の舞台化である。円朝の饒舌な語りがどのような現代劇となって舞台化されるのか。度肝を抜く仕掛けで毎回驚かせてくれる、森新太郎の演出も楽しみだ。
古典芸能への連続挑戦
──一昨年6月には、新国立劇場で『東海道四谷怪談』、昨年11月には、演劇集団円で『景清』、そして今回のオフィスコットーネの『怪談 牡丹燈籠』、すなわち、歌舞伎、文楽、落語と、古典芸能への挑戦が続いています。
森 ぼくは翻訳物もよく手がけるんですけど、シェイクスピアなどの荒っぽい作品だったり……。
──ブレヒトもベケットも演出されています。
森 でも、やっぱり惹かれるのは、エリザベス朝演劇の激しい芝居。舞台上で欲望が剥きだしになって、血が流れる……。
──新国立劇場の『エドワード二世』も迫力ありましたね。
森 『エドワード二世』もそうですし、ああいった世界を日本人が日本語で書いたものでやってみたい。翻訳物ではなく、そうした作品を探していくと、どうしても古典に行き当たる。その過程で『四谷怪談』をやったり、『景清』に行ったり、この『牡丹燈籠』に取り組んだりしているという気はしてます。
日本のもので、骨太な人間ドラマを探していったら、自ずといわゆる名作に辿りつく。ぼくの場合は、創作のパートナーのフジノサツコの興味に大きく影響されるところもある。『景清』もそうだったし、『牡丹燈籠』もそうだし、まず最初にフジノサツコが……。
──上演作品を決めるにあたり、フジノさんが先みたいなところがありますか?
森 ほとんど先ですね。『四谷怪談』もそうだし、だいたい向こうが、いま上演したら面白そうだなと思ったのを教えてきて。『景清』なんて、題名だけしか、ぼくは知らなかったですからね。
──歌舞伎でも長年にわたり上演されていなかったと聞きます。
森 あれはフジノサツコが発掘したというか、現代劇として橋爪功さんでやるには、『景清』がふさわしいんじゃないかと。『牡丹燈籠』の場合はまた別で、フジノサツコは昔からやりたがっていて、脚本として起こしてた、これは原作はすごく長いので、それをギュギュッとコンパクトにして、スピーディに入り組んだかたちでやると現代的になるんじゃないかというんで。今回、ようやくコットーネという場を得て、上演するにいたった感じです。
現代劇にするための仕掛け
──『怪談 牡丹燈籠』の全篇を現代劇で上演するのは、とんでもない大冒険のような気がします。ところで、わたしは森さんを、国立劇場の小劇場でときどきお見かけしていまして、演出上のいろんなヒントを、人形浄瑠璃からも採られていると思いました。
森 たまにしか見ませんが、古典芸能は面白いですよ。たとえば、リズムが面白いんですよね。ずっと三味(線)が鳴っていますが、歌舞伎もそうですけど、ふっとしたときに完全な沈黙になったりして。そうかと思うと、それがいきなり破られたり。リズムの面白さは、古典芸能を見るときの魅力です。
今回はもともとが落語ですし、いまは試行錯誤の途中ですけど、持続的にある音が流れていて、それがふっと切れたと思ったら、しばらくして再び動きだすとか、そういうことは意図的にやってみたいと思っています。
──文楽の場合は、場面ごとに、ひとりの太夫がうら若いお姫さまからいかつい武将まで、声音を使い分ける。落語の場合も噺家がひとりで、いろんな登場人物を声音を使い分けて演じます。今回の『怪談 牡丹燈籠』の台本を読んでいると、場面が次々に変わっていくのですが、実際の舞台でもできるのだろうか。フジノさん、それほど上演のことを考えてない感じがしますが……。
森 もう、これは100パーセントぶん投げですね(笑)。
──演出家として、脚本家から挑戦を受けている……。
森 フジノサツコとしては「わたしのなかではできる範囲だと思うよ」と負託されてる。演出をやってると、いちばんリスクが高くて大変なところが、あれやこれやがんばることで、演劇でしかできないことが見つかるので、最初からそのつもりで。これをはじめに読んだ人は、この場面の多さはどう処理するのかと思いますけど……。
──これ、本当にできるんですかと心配になる。しかも、映画のカット割りぐらい、ぐるんぐるん変わっていきますよね。
森 そうなんです。だから、まさにいま言葉でおっしゃいましたが、ぐるんぐるん変えていこうと思って。常に舞台上には、ぐるんぐるんまわるものがあるんですけど……。
──おおっ、まわるわけですか。
森 まわるといっても、盆(まわり舞台)ではないですけど……。
──『景清』の台本では「引き裂いてしまう」というト書きの場面をどう上演するのかと思っていたら、等身大の人形が出てきて、本当にそれを引き裂いてしまった。
森 『牡丹燈籠』も演劇的に立ちあげるからには、やっぱりそういう工夫がないと面白くないと思って。それは『牡丹燈籠』のスピーディな展開にたどり着くために編みだされたというか。もちろん、俳優も大変だし、スタッフは輪をかけて大変なんです。
オフィス コットーネ プロデュース『怪談 牡丹燈籠』
萩原新三郎を演じてみて思ったこと
──そういう無茶ぶりも含んだ脚本ですが、稽古場で演じてみて、どんな感じですか?
柳下 まず早い段階でセットを組んでくださったので、そのおかげで気持ちが切り替わる。演じている側も見ている人も、パッと気持ちが変わったことがわかりやすい。
あと、最近は音楽が入ってきたので、より気持ちが入れ替えやすくなってきてます。だから、台本を読んでいたときよりは、難しいなとか、生きづらいなという感じは、なくなってきました。
──『怪談 牡丹燈籠』は時代劇ですが、テンポとか展開には現代劇のスピードが想定されています。どんな音楽を用いることを考えていますか。
森 洋物の現代音楽を使ってます。メインにはフィリップ・グラスを使ってるんですけど、それは最初からイメージがあったんです。
──ずいぶんハイブリッドな構成になりますね。
森 あとは常に小さく流れているような、ビーッという緊張音が、日本の古典芸能のように、自然な感じで、舞台上に必ず入っているようにしておきたいと思ってますけど……。
──『牡丹燈籠』というと、浪人の萩原新三郎のもとへ、夜になると、亡くなったお露が訪ねてくる話が有名ですが、それはいくつかあるエピソードのなかでメインになった話のひとつにすぎません。他にも、それにまつわる不思議な話がいくつか集まって、全体で『牡丹燈籠』を構成しています。いろんなエピソードのなかに新三郎を置くことで、役作りが変わってくることはありますか?
柳下 変わってくる……うーん……。
森 柳下君は自分のエピソードをやるだけだから……。
──なるほど。まずは、お露とのやりとりですね。
柳下 そうですね。森さんにも言われるんですけど、もっと気持ちを通常よりも上げる。短いシーン、短い台詞で、どこまで上げられるかが、他のストーリーとかにも関わってくると思って。ぼくが足りないところを、こうやったほうがよく見えるとか、中身の作りかたについて、いろいろ指導を受けながら稽古していて、自分のなかで引っかかっていた部分が、いまは少しずつ取れていってる段階です。
──ひと言だけしゃべって、次のシーンということもあるから、そこで思いきりお客さんに気持ちを伝えておかないと、成立しないこともある。新三郎は大きな役のひとつなので、大変ですね。
柳下 すごい大変ですけど、森さんがいろいろやってくださるし、ずっと見てくださるんで、安心してできる。日々、毎回変えて、いろんなやりかたをしてくださるんで、大変ですけど、楽しくはできてます。
森 ぼくはとにかく悪びれないで、めちゃくちゃ演出を変えるんで。俳優がせっかく一日かけて復習してきたことを、「それ、もういいです」と言って、あっという間に変える。自分が飽き始めたら、ためらわずに変えてしまう。やっぱり、飽きないものが唯一本物だと思っているんで……。
──最後に残るもの、究極のなにかを求めつつ、探っていくと。
森 そのためには、ひとつの形にこだわっていると面白くないんで、そのために稽古がある。
ロミオになれなかった萩原新三郎
森 昨日はたまたまですけど、柳下君が思いもかけぬ新三郎像にたどり着けたような気がして、すこし興奮しましたね。
──それはどんなところが……。
森 フジノサツコは前から言ってたんだけど、新三郎という美しい青年は、悲恋のヒーローだし、やっぱり好青年という描かれかたをすることが多いと思うんだけど……。
──あまり疑いを抱いたりしない二枚目の好青年。
森 純粋でね。でも、フジノサツコは、はじめから新三郎については、意外と負の要素を情報として伝えてきて、こいつは自分の世界に閉じこもってるやつで、それほど行動力がないとか……たしかにお露さんに会いに行けなかったり、それを他人(ひと)のせいにしたり……。
──家の事情とかもあると思うんですけど……。
森 結局、ヒーローではないですよね。自分の身がちょっと危険になると、たちまち一歩引いて、死にものぐるいで自分を守ったり。だから、そんなにかっこいい男じゃないんじゃないかと……。
──幽霊に恋い焦がれられて、新三郎は殺されてしまうんだけど、そうなる理由の一端が、新三郎自身にもあるのではないか……。
森 理由というか……恋い焦がれるのは人間の生理としてあるんですけど、その後のお露とのやりとりが、『ロミオとジュリエット』のロミオになれていない。ロミオはジュリエットといっしょに死ぬことを選びますけど、新三郎はそれを選ばない男ですから。お札を貼って、金無垢のお守りを身に付けて「ここには入ってくるな」と言う。
──たしかに、お露の幽霊を怖がるあまり、新三郎は保身に努めます。
森 そのあたりとかが、ある意味、人間くさいし、リアルだなと思って。昨日は、もっと気位が高くて、自分の世界だけを大事にしてるような、そういうマイナス面をもった人間像を際立たせようと思って、柳下君にそれを振ってみたら、意外な新三郎像が見えてきて、実に人間っぽくなったんですよ。
基本、フジノサツコの『牡丹燈籠』は、基本、地獄に墜ちたであろう新三郎が、細々とモノローグをするところから始まる。どうも、彼が語っているようなところがあるんで、地獄に墜ちても、相変わらず、答がわからずに、自分のなかで悶々としてるには、ちょうどいいキャラクターになったと思って。
──昨日の稽古では、どんな感じでしたか。
柳下 いままでぼくがクリアできなかった森さんに言われたダメ出しが、昨日やったキャラクターでは、割と自分でもすんなりできて、ああ、こういうことだったのかと……。
森 ぼくはずっと柳下君に「この台詞はもっとシニカルに」と言ってたんだけど、たぶん、それがどういう意味なのか、よくつかめてなかったと思うんだけど、昨日、新しいキャラクターを腹のなかに据えたら、いとも簡単にスパーンと出た。いままででいちばんシニカルに、世の中に対する諦めの感じが出て、新三郎がすごく現代人っぽいと思った。
今回、描かれてる新三郎は、希望を見出そうとはしない。ちょっと彼に対して同情的になるのは、お露との出会いの時の雪を思い返している場面なんですが、あの一瞬だけは彼にとっては大事な時で……その救われなさも、新三郎の魅力かなという気がします。
──マイナスの面を引き受けたほうが、役がより大きくなるのかもしれない。
森 あと、舞台って面白くて、日常生活ではいっしょにいたくないようなタイプの人間が、舞台上では魅力的なんですよ。嫌なやつとか、欠点だらけの人間のほうが……やっぱりそれは人間味ということに尽きるんですけど。
──なるほど。面白いですね。
森 リアルな人間が面白いんですよね。ぼくたちは『牡丹燈籠』を読んだときに、世話物としてパターンとされてる絵が見えちゃうんで、何も考えずにそっちのほうへ走りがちですけど、そこにリアルなものが入ってくると、そうは簡単にいかなくなる。
たとえば、同じ人を叩く場面でも、お峰を演じる松本紀保さんが旦那をパンパン叩いていたので、「その人間が紀保さんに新しく与えたモデルで本当に怒ったら、こうやって叩く?」って言ったら、すこし考えてから「押すなあ」と(笑)。ちょっとしたちがいですが、面白くなるんですよ。
──よりリアルに近づいて、感情を込めやすくなる。
森 稽古が中盤にさしかかり、ようやくその段階まで行けた気がします。
ダンテの『神曲』地獄篇を原風景として
──先ほどおっしゃった地獄が、『牡丹燈籠』では、フジノサツコさんが設けたもうひとつのテーマとして全体を貫かれていると思います。『景清』でも、主人公は戦国の世の地獄を彷徨いながら生きていく。『牡丹燈籠』でも、ある者は仇討ちを果たし、またある者は長年連れ添った妻を殺害しますが、結末は勧善懲悪的ではなく、生き残った者も地獄のなかで生きつづけねばならない。冒頭に置かれた引用文は、ダンテの『神曲』の地獄篇から採られており、「この門を過ぎんとする者は一切の望みを捨てよ」とありますね。
森 ロダンの有名な『考える人』は、実際には巨大な彫刻物である『地獄の門』の一部で、そのいちばん上に『考える人』がいる。それを単体で抜き出したのが『考える人』です。たまたまダンテの『神曲』地獄篇と『牡丹燈籠』は重なったらしく、並行して読んでいたようです。
われわれからすると、それほどワルでないことも、ダンテの『神曲』では、地獄に墜ちる対象になるらしい。つまり、生きているときに、日和見的に生きた人も、体を蛭で食われるような刑罰を受ける。だから、世の中を正しく変えようと行動しなかったら、それは裁かれる対象になるのではないか。
そこから、新三郎が地獄墜ちする設定を思いついたらしく、フジノサツコのなかでは、一見、新三郎は被害者のような感じでいるけれども、ひとりの女性をその気にさせて救うことができなかったことに関していえば、彼は地獄に墜ちても当然、他の血まみれになる人たちと同じで、罪の対象になるんじゃないかと……。
──厳しいですね。
森 厳しいんです(笑)。
──演じていて、どうですか。そこまでしてないと、新三郎は思うんじゃないかと……。
柳下 あの……新三郎はわかってないのかなと思って。
──罪を自覚していない……。
柳下 自覚していないと思っています、いまは。
森 そんなことも言っていた気がします。自分はなにも悪いことをしていないと思ってる人も、引いてみたら、登場人物たちのように、結局、自分の欲望だけで生きてたんじゃないかと。最近のフジノサツコは、たしかに死者の方に……。
──地獄ですよね。煉獄の炎で焼かれるイメージ。
森 そんななかでも、なんとか希望は見出したいらしく、その象徴が雪らしい。だから、最後には、雪がけっこう降り始めたりします。
──冒頭のシーンでも、雪が降ってますね。
森 はじめの方はお露との絡みに雪が降るし、最後の方でも雪が降り始めるというのは……。
──舞台全体が雪に埋もれていく。
森 みんな悲しい運命に翻弄されていくんですが、そこに降り続ける雪というのが、はかなさの象徴というか。そういう狙いがあって、『牡丹燈籠』は本来は夏の話だけど、今回は冬の話に置き換えられているので、雪が降ってきて、びっくりすると思います。登場人物たちは全員が雪のなかを彷徨っているという。
色濃い俳優陣による怪談現代劇
──飯島平左衛門に仕える草履取りの孝助もいい役ですね。
森 そうですね。孝助と伴蔵と新三郎。この3人はやっぱり主軸になっている。三者三様の生きかたがあって面白い。
──新三郎はいちばん新機軸が出せる役かもしれないですね。
森 フジノサツコのインスピレーションとしては、新三郎が最初に新しいインスピレーションを与えたらしくて、それが地獄と重なっていき……
──単なる人のいい浪人じゃないという設定。
森 ぜんぜん人のいい浪人じゃない。三遊亭円朝がもとにした中国の『牡丹燈記』では、お露のモデルになった幽霊と新三郎は、夜な夜な手をつないで歩いていて、それを見た者は呪われてしまうという設定です。それと同じで、フジノサツコの脚本でもぜんぜん幸せな結末を迎えない。
──わたしも新三郎は、いったんお露を幽霊として退けたが、結局、ふたりはあの世で添い遂げた話として受け取っていました。だから、『牡丹燈籠』が、現代劇として甦る感じがします。
森 そうなるとうれしいなと思ってます。さっき、プロデューサーの綿貫さんが言ってましたが、これは元のキャラクターが面白いじゃないですか、だから、これだけの俳優陣を揃えられたのは、ぼくとしてはありがたい。
──どの役者さんも、このうえなく個性的で……。
森 ちょっとした役でも、すでにすごく濃いです。
──宮島健さんも、はまり役ですね。それから太田緑ロランスさんが時代劇に? と意外に思ったけど、好演してくれるんじゃないかと。そのへんも楽しみです。
森 本当に俳優が、原作に負けてなくて、ちゃんと肉付けしてくれるので。俳優を見ていると、思いつくことも多いですし。
ロランスもそうで、お国の役は、原作だけ読むと、いかにも感じの悪いたぶらかしに見えるけど、これだけ凝縮されているから、もっと強い演技が欲しくて、マクベス夫人で演ってくれと。伸るか反るかだったら、もう後には引けないところで、男をぐいぐい押していくように演ってくれと言ったら、新しいお国像が出たんじゃないかなという気がしますね。
──マクベス夫人ですか。濃いのをはるかに超えて。すごいのが出てきそうです。
森 (笑)
──では最後に、お客さま方へのメッセージをお願いします。
柳下 本当に色濃いキャラクターですし、物語の展開も、見てるとあっと言う間に過ぎてしまうと思います。ぼくはこういう作品に出たことがないので、個人的には、ちょっといままでと質のちがう舞台というか、なんかそういうものを見られて、古典とか、異なるジャンルの舞台に興味を持ってもらうきっかけになったらいいなと思います。
森 僕は、ちょうどこの時期、立川志の輔さんが恒例でやられたり……松竹の大劇場で『妖麗 牡丹燈籠』 がかかったり、さまざまなかたちで『牡丹燈籠』が取りあげられるんですが、なかでもいちばん特殊で変てこな芝居になっていると思います。本流か亜流かと言えば、亜流の攻めかたですが、亜流だからこそ見えてくる真実みたいなものもある。
『怪談 牡丹燈籠』はこれだけ怖かったんだということが、いろいろ発見できてると思うし、ちょっとまたちがう『牡丹燈籠』になっている。ですから、従来の『牡丹燈籠』ファンにも、ぜひ足を運んでもらいたいと思います。
取材・文/野中広樹
■会場:すみだパークスタジオ倉
■脚本:フジノサツコ
■演出:森新太郎
■出演:柳下大、山本亨、西尾友樹、松本紀保、太田緑ロランス、靑山勝、松金よね子、花王おさむ、児玉貴志、原口健太郎、宮島健、川嶋由莉、新上貴美、井上宜久、升田茂
■公式サイト:http://www5d.biglobe.ne.jp/~cottone/botandourou/