TAK∴(坂口拓)×下村勇二監督『RE:BORN リボーン』インタビュー【前編】邂逅から『VERSUS』、“もがき”の時代から俳優引退まで

2017.8.24
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左から、TAK∴(坂口拓)、下村勇二監督

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『HiGH&LOW THE RED RAIN』で雨宮兄弟(TAKAHIRO、登坂広臣)が使用し、一躍その存在を知られえることになった戦闘術・ゼロレンジコンバット。素手で銃を絡めとり、ひとりで複数の敵を戦闘不能の状態に追い込むこの技術は、米軍など各国特殊部隊の格闘技教官も務める稲川義貴氏が創り上げたもの。そのゼロレンジコンバットを全編にわたって使用した映画『RE:BORN リボーン』が現在公開中だ。

過去に特殊傭兵部隊に属し、現在はコンビニ店員として慎ましく暮らす主人公・敏郎を演じるのは、TAK∴こと坂口拓。そして、坂口とともに、同作の中核をなす存在が監督の下村勇二氏である。20年来の盟友である二人は、2001年製作の北村龍平監督作『VERSUS』に参加。低予算ながら、ゾンビ、ガンアクション、カンフー、ブレードバトルをひとつの枠に収めた同作は、海外映画祭を中心に世界のアクション映画ファンに衝撃を与えた。その後、坂口は海外で「スピードマスター」と呼ばれ人気を博し、下村監督は、『GANTZ』『アイアムアヒーロー』などのアクション監督としてそれぞれの道を歩むことになる。しかし、坂口は2013年に突如として俳優を引退。約2年ぶりに『RE:BORN リボーン』で主演としてスクリーンにカムバックしている。本作のタイトルには、坂口の復活など、さまざまな意味が込められているという。SPICEは、坂口と下村監督の過去から現在までの道程、坂口の俳優引退の理由や、同作が目指したもの、そして、二人の今後までロングインタビューで紐解いていく。前編となる本記事では、坂口と下村監督の出会いから、俳優引退までを語ってもらった。

邂逅、そして『VERSUS』へ

(C)「リボーン」製作実行委員会

――お二人の出会いから聞かせていただけますか?

坂口:長いですよ。俺が20歳の頃には出会っていたと思います。

下村:ぼくは、10代のころは倉田アクションクラブの大阪支部にいました。そこから上京してきたのが、1995年です。ちょうど阪神淡路大震災の頃に、JACの堀内(俊成)と一緒に自主映画を撮り始めました。ぼくは、一緒にアクションをする仲間が欲しかったので、「JACの養成所を出た、フリーの知り合いがいる」と、(堀内が坂口を)誘ってくれたんです。

――坂口さんはJAC出身だったんですね。

坂口:JACは半年で辞めたんですけどね。入ったときからキツくて、自衛隊みたいな鬼のような訓練をさせられました。炎天下のなか何十キロと走ったり、腕立て、腹筋、背筋、抱え込みジャンプとか……でも、そこでやめたら、「シゴキが嫌で辞めた」と思われるから、それは嫌だなと思って、半年は無理して続けたんです。半年経ったら、色んなことを習い始めるので、その訓練期間だけは意地でもやり通そうと思って。でも、実際のアクションを見ていて、「自分が求めるリアルじゃない」と思ったんです。本当に人を殴るようなアクションをやるつもりだったので。で、そこでもうアクション自体に興味が無くなりました。

――そんなに早くから?

坂口:ええ。「もし、これがアクションだと言うなら、やらなくていい」と思ったんです。だって、“映画の中のリアル”をやるのがアクションじゃないですか。嘘でもいいんですけど、形だけに見えたので。

――最初からリアル志向だったんですね。

坂口:そうなんです。当時、俊(堀内のこと)と勇ちゃんは、公園で二人でよくアクション映画を撮っていたんだよね。

下村:実験的な短編アクション映画を毎週撮っていたんです。土日に短編を撮影して、ぼくが編集して、彼(堀内)に渡す。たしかそれを、(堀内が坂口に)自慢して見せてたんだよね。

坂口:ずっと見せられました。最初に観たのは、正直大したことなかったんですよ。でも、次々と撮るじゃないですか。そうやって毎回観ていくと、「あれ?やたら編集が上手くなっているな」、5、6本観たころには、「すげえ編集が上手いな」と思い始めて。もちろん、二人の身体能力も高かったんですよ。特に勇ちゃんの身体能力が高くて、「すげえ動くな」と思っていました。

下村:堀内とぼくが出てアクションしているだけの短編映画ですけどね(笑)。

坂口:それで興味を持って、「(下村監督を)紹介してよ」って言って、勇ちゃんの家に行ったんです。(下村監督は)初対面なのにずーっと編集していました。当時はビデオデッキ二つで編集していたんです。

下村:リニア編集。テープ・トゥ・テープね。

――アナログですね。

(C)「リボーン」製作実行委員会


坂口:再生からいつ録画されるか、ゼロコンマ何秒の単位を指で覚えてるんですよ。それがすげえいいなと思って。それで、(下村監督に)最初に言った言葉が、「俺が映画作るから、とりあえず撮って、編集して」です。

下村:ぼくは「コイツ、何なんだ?」と思いましたよ(笑)。

――「使える」と思われたんですね(笑)。

坂口:そう(笑)。でも、それは「アクションをやりたい」ということじゃなかったんです。勇ちゃんと会って、付き合ってると、アクションをやらされるじゃないですか。

下村:役者をやってると言うので、「じゃあ、出てよ」と。ぼくは倉田アクションクラブ出身で、香港映画が好きなんで、アクションもどちらかと言うと香港映画っぽい。だから、「JACはどんなアクションスタイルなんだろう?」と興味津々に見てたんです。

坂口:(下村監督は)蹴りのスピードとかもめちゃくちゃ速くて、やっぱり追いつけないんですよね。「ヤア、ヤア、ヤア」じゃなくて、「タタタタンッ」ていうリズムでくるので、こっちはリアル志向とはいえ、身体がついて行かないんです。それを見て、(下村監督は)すごい馬鹿にした感じでした。

下村:馬鹿にはしてないけどね(笑)。

坂口:いや、結構ヒドい言い方だったよ。「あーJACってそれくらいなんだね」って言い方してたよ、冗談だったけど。

下村:まあ、冗談でね。

坂口:それで自分の中で、なんとなく火がついたんですよね。「彼がそう言うなら困らせてやろう」と。「コイツがやってるのは香港アクションだ。俺はリアルアクションを突き詰めて、見せつけてやろう」と。そこからリアルを研究して、ボクシングを習い始めたんです。

下村:当時はアクションと言えば、派手なアクロバティックな技や蹴り技が多かったんです。しかし、彼は真逆のパンチや格闘技をやりはじめた。

坂口:手技を極めよう、と。蹴りをうつ人は多いから、手の技術を極めると面白いんじゃないかと思ったんです。それでボクシングを始めて、いろいろ格闘技全般に特化しはじめてきた頃に、『インディーズムービー・フェスティバル』(※編注:1996年~2008年まで開催された自主映画の映画祭)が始まったんです。

下村:その第一回ですね。これが1996年なんですけど、グランプリが北村龍平監督で、ほかにも山口雄大監督がいたり、榊英雄さんがいたり。その中でぼくの作品も選ばれて。雄大さんとは、「アクション映画やホラー映画とか、同じジャンルの映画が好きだね」ということで意気投合しました。その頃、雄大さんは役者を探してたんです。一緒にやって手に負えなかったんで、坂口拓を「じゃあ、雄大さんに500円であげます」って、売りつけたんです(笑)。

――人身売買ですね(笑)。

坂口:そこから、あんまり勇ちゃんとはやらなくなって、雄大さんと映画を撮るようになったんです。

――『手鼻三吉』シリーズとかですか?

坂口:そうです。まさにそのとおりです。

『手鼻三吉と2(トゥワイス)志郎が往く』予告


下村:それと同時に、北村監督が『インディーズムービー・フェスティバル』のグランプリを獲ったので、その資金で「みんなの得意なジャンルを融合したものを作ろう」ということで撮ったのが、『VERSUS』です。北村監督が「主役を探してるんだけど、誰かいない?」と言って、雄大さんが見せた『手鼻三吉と2(トゥワイス)志郎が往く』に彼が出ていたので、「いいじゃない」と。

坂口:龍平さんは、「今度のはアクションだから」って言っていたんですが、俺は「アクションできますよ。もともとそっちですから」ということで、決まったんですよね。

――『VERSUS』は、トロント国際映画祭をはじめ海外でとても評価されました。日本でも、アクション映画ファンで知らない人はいないくらい、騒がれましたよね。

坂口:一時代、築きましたね(笑)。

――(笑)

下村:でも、作ってるときは自主映画体制でやってたんで……最初は10月ごろに山梨の山奥で、2週間で撮ってたんです。でも、そんなの終わるわけないので、その後に追撮、追撮です。年を越えると、雪が降ってくるじゃないですか。だから、撮影場所が山梨からどんどん南下していくんです。南へ、南へ行って、大阪まで行きましたからね。

坂口:雪も降ってたしね。

下村:そこから戻って、また東京で撮る。それもずっと山でなんですけど……そういうのを繰り返していて。メジャーな人もいなくて、みんな、「爪痕を残そう」みたいに思っていたメンバーが集まっていたので。だから、『RE:BORN リボーン』と同じように、みんなで魂を入れながら作った映画だったんです。

 

ドニー・イェン、トニー・ジャー、坂口拓の時代

左かた、下村勇二監督、TAK∴(坂口拓)

坂口:『VERSUS』の頃は、日本でもアクション映画が荒んできたときだったんです。あと、パワフルな、「何でもやってやる!」みたいな映画もなくなっていたので。じゃあ、ワイヤーをやろうか、と。当時はワイヤーを使うこともあったんですけど、『VERSUS』は香港みたいな使い方をする走りの作品でした。勇ちゃんも手探りでワイヤーをやっていたので、切れることも多々ありましたし。

下村:当時はまだノンリニア編集は珍しく、ワイヤーを1コマ消すのも高額だったので、現場で映りにくいギリギリの太さのワイヤーを、マジックで黒く塗って見えなくすることはやってましたね。

坂口:当時、俺が『VERSUS』からやりはじめたのは、いわゆる“マジ当て”ですよね。その後も、本当はマジ当てをやりたかったんですけど、周りのプロデューサーなんかが、「なんでマジで当てるの!なんでそんなことするの!」って言うもんだから。そしたら、『マッハ!』でトニー・ジャーにやられちゃったんだよね。

――『VERSUS』は、マジ当てを売りにしてはいなかったですものね。

坂口:でも、俺はあの後も、マジ当ての文化を作ろうとしてたんですよ。蹴りもガンガン当ててましたし。でも、当時は賛同してくれるスタントマンがいなかったんです。自分だけがマジで当てることになっちゃって。本当は、スタントマンと一緒に研究して、マジ当てをやりたかった。あと、新しいことをやっていても、みんなが同じことをやり始めたら、飽きちゃうんですよ。だから、トニー・ジャーがマジ当てをやりはじめたら、もう飽きちゃって(笑)。

『VERSUS』予告


――坂口さんは、以降もたくさん作品に出演されて、監督もされてます。ただ、お二方でその間『VERSUS』ほどのインパクトのある作品を生み出す機会はなかったと思います。

坂口:『VERSUS』以降も、「新しいものをやりたいな」とは思っていたんですけど、結局俺も勇ちゃんもアクション監督をしてたり、役者の仕事もあったので、自分たちで新しいものを生み出すほどの元気はなかったですね。

下村:求められるものの中で試行錯誤して、新しいものを考えてはいたんですが……限られた予算と時間の中でしかできなかった、というところはあります。

――ただ、もう一度一緒に作られた『デス・トランス』からは、アクション映画界を盛り上げたいという“もがき”みたいなものを感じました。

坂口:そうですね。もがき監督!

下村:そう、もがき監督って、うるせえよ(笑)。

坂口:『デス・トランス』では、手にウレタンスポンジを付けて顔面を殴るヤツを俺が開発したんですよ。けど、勇ちゃんがドニー(・イェン)の現場で、「これ、拓ちゃんが使ってるやつです」って言って、それを見せて。それが、『導火線 FLASH POINT』で使われたんです。あれでドニーは、一つ時代を作ったじゃないですか。

下村:そうなんです。ドニーがシン・ユーを殴ってる拳、あれは用途によって、試作品をいくつか作って使い分けていますが、その中の一つはぼくが現場で作ったんです。よく見るとわかるんですけど、パンチグローブのウレタンを取って、ここ(拳頭)にはめて、その上からストッキングをかぶせて、ドーランで指を描いた単純なものなんですけど、それが一番使い易かった。

『導火線 FLASH POINT』予告


――へえ!そうなんですか。

下村:実は『導火線 FLASH POINT』の前に、『デス・トランス』で使ってたんです。

――『デス・トランス』でも、いろいろと新しいことをやられてたんですね。

下村:『デス・トランス』のファンタジーでゴシックな世界観は、ぼくがやりたかったものなんです。それと、無国籍な時代劇の中に、彼(坂口)のリアルなアクションを取り入れたいと思っていたんです。あのころには新しい、関節技とか寝技もかなりとり入れていたんですよ。

――それも、『導火線 FLASH POINT』より先ですよね。

坂口:そう。当時は寝技系の走りだったはずです。結構、新しいことはやってるんです。

下村:カポエイラとかもやりましたね。のちに、トニー・ジャーの『トム・ヤム・クン!』で使われていましたけど(笑)。

坂口:『デス・トランス』は“もがき”としてはパイオニアだったんですよね、意外に。ただ、俺のリアルと勇ちゃんのファンタジーが、ちょっと噛みあわなかったところもあると思います。噛みあってたら……

――『ザ・レイド』のようなムーブメントを起こしていたかもしれないですね。

下村:『ザ・レイド』が日本公開されることになって、ギャレス監督が来日したとき、彼は「『ザ・レイド2』を撮るので、坂口を出したい」と言っていました。『ザ・レイドGOKUDO』のベースボールバットマンは、彼(坂口)がやるはずだったんです。

――なんと!そんな話があったんですね。

坂口:俺は興味がなかったので出なかったですけどね。だから、世界中で認められてる映画の、走りみたいなことはやってたんですよ。そこから、いいものだけ持っていかれたんですね。まあ、そういう時代です。

下村:ぼくらが作ったのは、完璧なものじゃないので。ちょっと飛びぬけてるとこだけ興味を持たれる、みたいな感じなんでしょう(笑)。

――「あの映画で使われたのを真似しよう」みたいなことは、わりとありますよね。

坂口:俺はそういうことはないですよ。常にゼロから一へ、という風にスタートしたいんで。

 

俳優引退と”本物”との出会い

(C)「リボーン」製作実行委員会

――その後、『狂武蔵(くるいむさし)』を最後に、坂口さんは俳優を引退されました。当時はそんな素振りもなかったので、ショックを受けた方も多いんですが……何があったのでしょうか?

坂口:はっきり言えば、熱くもない、冷たくもない、ちょうどいい感じのぬるま湯の、流れるプールで、ずーっと泳いでいるような気持ちだったんです。主演映画なら、だいたい5,000~6,000万円くらいの予算でやらしてもらえる。でも、ヒィヒィ言いながら、ただただ、アクション映画で主演で、という感じでした。Vシネでもない、映画でもない中途半端なところで、とりあえずメシは食えるんです。で、アクション監督もやれる。役者に一番近い感覚のアクション監督って、俺しかいないから、評判もいいわけです。勇ちゃんともちょっと違って、役者に近い立場だから。

下村:ぼくらは(アクション演出の)専門家なんですけど、彼は役者側に立って演出できるという長所があるんです。

坂口:気持ちでアクションを作ってあげられる、という強みがあるんでしょうね。でも、やっていても、「どうなんだろうな」と思っていたんです。そのときに、園(子温)さんと、『剣狂-KENKICHI-』っていう映画をやることになったんですけど、いろいろあってこれもダメになって。でも、クルーは抑えてたから、「映画潰すのもなんだから、この際だからワンカットでやっちゃおうか」と思って撮ったのが、『狂武蔵』なんです。

『狂武蔵』が上映された坂口拓引退興行・予告


――77分ワンカットで斬りまくる、かなり実験的な作品ですよね。

坂口:実は、最初はワンカット77分でやるなんて予定はなかったんです。最後の15分くらいをやろうと思っていたくらいで。本当は監督・主演なのに映画が潰れるっていうので、精神状態がボロボロで、やれる状態じゃなかった。でも、男の意地で「やってみようかな」と。本当にルールはなかったので、みんな頭も目も気にせず、好きなようにやってくるのを捌いて、冒頭の5分間で指の骨も折れました。肋骨も全部折れたし、歯も砕けたし。最後まで、588人斬りをやりきって、それが終わって……勇ちゃんは知ってるんだけど、俺は映画を観て涙を流すことはあっても、プライベートでは涙なんか流さないんです。意外に思われるかもしれないけど、ドライなので。熱い男だと思われているかもしれないですけど、そこまで熱くもないんです。

――意外ですね。

坂口:それが、『狂武蔵』が終わって、「一休みさせて」って言って、横になって、顔にタオルをかけたら、涙がこぼれ始めたんです。それは、「悲しい。やりきった。やった!」の涙じゃないんです。「もう、やめよう。こんなことをやってても、しょうがない」と思って。それは誰にも言わなかったんですけどね。ただ、「もう終わったな。おれが求めるアクションは、全て終わった」と。自分ひとりでは進化もできないし、このままリアルを追い求めてもダメだな、と思ったんです。その時に、俺は死んだんです。

――そこからは?

坂口:俳優はやらない。でも、バイトをするにしても、わからないわけです。そんなのやったことないんで。19歳くらいの頃、役者でまともに食えなくても、バイトなんかしたことはなかった。それで、アクション監督の仕事からも遠ざかっていったんですけど、親友は使ってくれるんです。勇ちゃんとかは、俺が復活する時のために「(坂口が)蹴りをが苦手だから、蹴りを練習しようよ」って言うんで、蹴りを練習したり。



下村:苦手なものを克服しようということで。

坂口:でも、それは嬉しいから応えるっていう感じだったんです。勇ちゃんの気持ちが嬉しいから頑張る、みたいな。でも、自分の中の炎は、『狂武蔵』の頃に消えていて。それで、『狂武蔵』のテスト映像を、いろんな剣術家に見せて、訊いていったんです。剣術家の方は、「身体能力は凄いけど、本当に人を斬るなら、腰を入れて」と言うんです。でも、同時に5人とかが斬りかかってきたときに、腰を1cm落としていると次の反応が遅れるから、嫌だと思って。「腰を入れて斬るなんて、馬鹿じゃないんだから知ってるよ」と。そんなのは、当たり前のことなんで。当時は、そういう剣術家の人たちに、「納得いかない」と言ってたら、「拓さんの問いに答えを出してくれる人が、一人だけいる」と紹介されたのが、今の師匠(稲川義貴氏)なんです。

――映画じゃなく、強さを追求しはじめて出会われたんですね。

坂口:お会いした瞬間、「キタな、コレ。本物が」って思いました。

(C)「リボーン」製作実行委員会


――『RE:BORN リボーン』の企画自体は、稲川先生から始まったんですか?

下村:最初は園子温監督から簡単なアイデアを貰ったんだよね。

坂口:俺は当時、笹塚にいたんですけど……笹塚みたいな一つの町を舞台に、本物の殺し屋たちが、それぞれ国を代表して戦争している。でも、一夜明けたら、その戦争は誰も知らなくて、普通の笹塚の朝が始まる……と、「そういうのやりたいよね」みたいな話をしていて。そこから、「そのアイデアを貰って、ちょっと変えていいですか?」とお話をしたのがスタートです。

下村:そこから、たまたま稲川先生からタイミングよく連絡があったんだよね?

坂口:そう。先生は、「拓さん、引退してそのままなんだったら、スペシャルフォースの教官とか、そういうものになってもらいたいな」くらいの気持ちで連絡をくださったんです。

――その頃にはゼロレンジコンバットを練習されてたんですか?

坂口:いえ、まだ剣術を学んだくらいでした。『狂武蔵』のときに、二つほど(技を)習っていたんです。それで、先生は「あとはやってきてください。それで拓さんが生き残ってきたなら、もう一度会いましょう」と。それで、生き残っちゃったんですね。それで、先生ともう一度お会いして。ぼくが唯一認めた本物の男だったので、勇ちゃんにも会ってもらったんです。そこからがスタートです。園さんの話から、先生のインタビューを聞いて、脚本を一発書いてみよう、と。

下村:ずっと話は聞いていたので、「どんな人なんだろう?」と思ってたんですけど、お会いしてお話を聞くと、次元が違いすぎて驚くことばかり。今の平和な日本で生活していたら、想像もできないような経験をされていて、もう、漫画みたいな話をされるので、逆にすごく興味が湧いて、「これをネタに映画が撮れたら面白いな」と思ったんです。最初はそういう軽い気持ちだったんです。ただ、実際に制作が始まってみると、大変なことになりましたけどね(苦笑)。

――ちょっと、エンタテインメントに出来るのかは心配になりますよね。

下村:最初に稲川先生とお話ししたのは居酒屋なんですが、実際に(ゼロレンジコンバットを)やって見せてくださったんです。目の前から一瞬で消えて、後ろに回り込んで、その辺にある箸を突きつけられて。「すごいな!」と思いました。その後に、先生のスタジオにうかがったら、実際に動いてくださって。「これをアクションに取り入れたら、すごいな。でも、どうやってマスターするんだろう?」と思いました。

(C)「リボーン」製作実行委員会


――先にゼロレンジコンバットをマスターするところから考えたんですか。

下村:ただ真似してできるものでもないな、と。坂口拓が主演なので、彼がどれくらいの訓練を受けて、どこまでいくのか? まずはそこですよね。

坂口:まあ、出口の見えないトンネルですよね。

下村:最初は、「タバコも酒もやりなさい。肩甲骨だけ回しなさい」と言われて、半年間、肩甲骨を回し続けたんだよね。

坂口:一切の筋トレは禁止。格闘技も禁止。酒とタバコをやるだけ。

――聞いたことのないトレーニングですね。不安にはならなかったですか?

下村:本人もそう思ってたと思いますよ。

坂口:毎日、朝まで酒を飲んで、タバコも吸って、「何だろう、これ。ボロボロだな。でも、肩甲骨だけは回さないと。よいしょ、よいしょ」って。

――はたから見ていると、ヤバい人ですね。

下村:ぼくと会ってるときも、ずっと肩甲骨を回してましたからね。そういうことをやっていると、肩甲骨が無意識に動き出したんだよね。

坂口:最初は、絶対に誰でも肩を回すんです。肩を回していると、だんだん肩甲骨が回って、「あれ?肩甲骨が“いる”な」と思うようになる。これは面白いですよ。バッドコンディションなので、すべての身体の器官を動かしたくなくなるんです。そこで唯一動かしているのが、肩甲骨。そうすると、そこだけを身体が頼るようになるんです。そうして、半年ぐらいが経って、先生のところでウェイブを習っていると、「パキーーーーーン!」と、開眼したんです。「これがウェイブなんだ!」と。だから、ウェイブが出来るようになるまでが半年。そこから(技を)半年ですね。

(C)「リボーン」製作実行委員会


――その頃には、『RE:BORN リボーン』がどういう映画になるかは固まってきていた?

坂口:もう、出来上がってきていましたね。

下村:今回の作品は坂口拓の復活もあるんですけど、ぼくの中では稲川先生の復活という意味もあるんです。先生のゼロレンジコンバットは、自衛隊だったり、特殊部隊で教えてらっしゃるものなんですけど……これは、教えても、実際は使ってはいけない技術、表に出てはいけない技術なんですね。教えた技術が使われるのは、何か有事が起こった時なので。だったら、フィクションである映画の中なら表現できるんじゃないか、ということです。なので、稲川先生も最初は迷われてたんです。

坂口:先生のゼロレンジコンバットは、本当にトップの最新技術なんです。例えば、『ジョン・ウィック』の構えは、スペシャルフォース(特殊部隊)の3年前くらいの“最新”なんです。特殊部隊の技は、3年前くらいのものしか出せないんですよ。古くなったから、表に出してもいいんです。でも、先生の技術はカスタマイズされているので、「THE 最新」。トップのスペシャルフォースの人が『RE:BORN リボーン』を観ると、「いいんですか?それを見せても」と思うわけです。それでももちろん、全てを見せているわけではないです。

下村:映画としては、戦っている人たちの色んな想いがあわさって、坂口拓になっているんです。生き様が。稲川先生の周りの人たちも戦っている人たちなので、その想いが合わさったのが、敏郎なんです。

(C)「リボーン」製作実行委員会


――稲川先生は、「見えない戦争をしている人たちに見てほしい」とおっしゃっていました。

下村:先生がよくおっしゃるのは、ニュースで流れる戦争というのは、結局は表のもの。何千人が戦争をしていて、その裏でも実は見えない戦争が起こっている。その根源を断たないと戦争が終わらない。中には、たった数十人のチームで国を動かすような戦争をやっている人もいるんです。

坂口:そういうことは、実は誰も知らないだけ。俺は実際にニュースになった戦争の、裏で動いていたスペシャルフォースの人とお会いしてるんですが、そういう人に少しだけお話を聞く機会があるんですが、報道されてる事実と全然違うんですよ。本当の戦争はあるんですけど、ひた隠されている。

――そういう人がいる、ということも、『RE:BORN リボーン』には込められている?

下村:そうなんです。先日も、全国から40人ほどの自衛官の方に集まってもらって、『RE:BORN リボーン』を観てもらったんですが、みなさん感動してらっしゃいました。「自分たちのことを表現してくれている」と。

――普通の方にはそこはわからないけど、“その世界の人”にはわかる、と。

坂口:マニアックにしすぎたかな(笑)。でも、プロの人はわかるんですよね。スナイパーが登場するシーンでは、本物のスナイパーが観て、「自分だったら今のタイミングで撃つ」というときに、撃っているんです。そのときに、敏郎は弾丸を避ける。それもプロが観ると、「ああ、これやられたらキツイな」と言う。プロと同じタイミングで撃って、一番嫌な行動を敏郎がとるんです。

■次回後編では、『RE:BORN リボーン』撮影時のエピソードと「戦劇者」「忍者」としての坂口拓に迫る。

映画『RE:BORN リボーン』は新宿武蔵野館ほか全国順次公開中。

作品情報
映画『RE:BORN リボーン』

【出演】

TAK∴(坂口拓)、近藤結良 斎藤工 長谷部瞳 篠田麻里子 加藤雅也 いしだ壱成 / 大塚明夫
稲川義貴 望月オーソン 賢太 坂口茉琴 屋敷紘子 三元雅芸 武田梨奈(声の出演)
【スタッフ】
監督 : 下村勇二
戦術・戦技スーパーバイザー : 稲川義貴 
アクション監修 : TRIPLE CROWN
脚本 : 佐伯紅緒 
撮影監督 : 工藤哲也 
音響効果 : 柴崎憲治 
音楽 : 川井憲次
加賀市アソシエイトプロデューサー : 石丸雅人 坂井宏行 
プロデューサー : 藤田真一 井上緑
企画・製作 : 有限会社ユーデンフレームワークス 株式会社アーティット
 製作協力 : 株式会社ワーサル 
配給 : アルバトロス・フィルム
公式サイト:http://udenflameworks.com/reborn/
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