霧矢大夢インタビュー! ネリー・アルカン原作の『この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌』に出演
-
ポスト -
シェア - 送る
霧矢大夢
6人の女優と1人のダンサーが、1人の女性の人生を描く舞台『この熱き私の激情~それは誰も触れることができないほど激しく燃える。あるいは、失われた七つの歌』が、11月4日~19日まで天王洲の銀河劇場で上演される。(そののち、広島、北九州、京都、豊橋で公演)
わずか8年間に、心の内側に秘めた怒りを爆発させ、熾烈で思わず目をそらしたくなるほどの作品を執筆し、大胆かつ悲劇的にこの世を去って行った小説家ネリー・アルカン。
彼女は、1973年生まれ。カナダ、フランスで著名な人気女性作家で、09年9月に36歳の若さで自ら人生の幕を閉じた。そんな彼女の小説の舞台化であるこの作品は、女であることへの戸惑い、怒り、コンプレックス、そして生きていくことへの辛さ、悲しみ、無力感と孤独が、隔絶されたそれぞれの部屋にいる6人の女優と、唯一部屋を行き来できる1人のダンサーによって、描かれていく。
初演は2013年、カナダ・モントリオールのESPAS GOで、長年、ロベール・ルパージュとコラボレートし、ルパージュの作品に多く出演したマリー・ブラッサールの翻案・演出で上演され、その年の話題を浚った。
今回の日本版には、松雪泰子、小島聖、初音映莉子、宮本裕子、芦那すみれ、霧矢大夢という女優6名と、ダンサーとして国内外で活躍する奥野美和のまさにベストキャストが集結。ネリー・アルカン自身を主人公とした映画『ネリー・アルカン 愛と孤独の淵で』の公開、彼女を一躍ベストセラー作家に押し上げた衝撃のデビュー作『ピュタン』の改訂翻訳版出版とも連動した、ビッグプロジェクトとなっている。
そんな作品に登場する6人の女優の1人である、元宝塚月組トップスターで、退団後も数多くの舞台で活躍中の霧矢大夢が、全く新しい舞台への挑戦を、自身の家族の話も交え、意欲的に語ってくれた。
独特な世界観の中で描かれる普遍的なテーマ
──まず作品について、どんな風に捉えていますか?
この作品の前に『THE LAST FLAPPER』という、ゼルダ・フィッツジェラルドの人生を1人芝居で演じさせて頂いたのですが、今回のネリー・アルカンとゼルダはもちろん全く違う人物なのですが、女性としての自分や、社会の中での自分、更に年老いていくことにぶつかって葛藤していく様に、共通するものを感じました。自分に直接影響を与えた家族の話などにも共通点があって。ですから、この舞台は表現方法こそ一種独特な世界観だと思うんですが、人間にとって、女性にとって、普遍的なテーマが根底に流れているところに、私は興味を持ちました。自分の思いの丈をどう表現するかが違うだけで、何らかの心の叫びを誰もが持っているんだということを実感できるので、この作品からそういうものを感じて頂けたらと。今回、この女性ばかりのキャストでも、年齢や、歩んできた道のりも、みなさんそれぞれ違いますよね。その人たちが個々にネリーを捉えた時に、全然違うものが生まれると思うので、それがとても楽しみです。
──演じる方ももちろんですし、見る人にもどこに刺さってくるか、それぞれ違ってくると思うのですが、霧矢さんが演じるのは「血の部屋の女」ということで、家族の絆について語る役割ですね。
血縁について語るので、「血の部屋」と称されています。ネリーは大学生の頃から、コールガール、高級娼婦として生きていて、舞台上で私がいるスペースもそういうイメージの部屋です。男性を相手にする時間と時間の間、1人で喋っている光景を切り取ったシーンになっています。彼女には先に生まれて1歳に満たずに亡くなったお姉さんがいたのですが、彼女は姉がそのまま生きていれば、自分はこの世には生まれなかった。自分は姉の代わりの人間なのではないかという思いに囚われてしまっています。自分が生まれたことによって、母親も女としての魅力を失い、どんどん老いて行ってしまう。自分が生まれたばっかりに、本来姉が送るべきだった人生を自分が送っている、自分が姉から人生を奪いとってしまったと。ダンサーの奥野美和さんが、象徴的にシーンの中に登場するのですが、私の部屋の上にちょっと霊的なエリアがあって、そこに奥野さん扮する姉が現れて、まるで双子のようにシンクロして動いたり、姉が私の部屋に入ってきたり、私が上の部屋に行ったりして、お姉さんに対する思いが表現されていきます。
──亡くなった姉との関係から、両親との関係も語られますね。
彼女は幼少の頃、両親のベッドで2人の間に入って寝ていたそうです。日本では両親の間に子供がいて、川の字で寝るというのはごく普通だと思うのですが、海外では夫婦は夫婦の寝室、子供は子供部屋という環境が当たり前なので、多分すごく珍しい状況だったのだと思います。彼女はそうやって両親の間に寝ることによって、本当はお姉さんが生きていたら自分は生まれていなかったのではないか、自分は両親に愛されていないのではないかという思いを打ち消して、両親に自分がここにいるというのを示したかったのではないかと想像しています。お母さんの方を向くと嫌な顔をされるから、お父さんの顔を見て寝ていた、自分が生まれたことによって、お母さんの若さを吸収してしまったのではないか、だからお母さんは私の顔を近くで見るのを嫌がっていると、そういう言葉も語られます。
──肉親に対しての思考が非常に思い詰めたものですね。
そう思います。やがて彼女は小説を書いて、小説家としてデビューしますが、それがどんなに売れて、評価されても、世間では娼婦が書いた小説というレッテルを貼られてしまう。そこに深く傷つきます。演出のマリーさんからは、姉の霊に囚われながら、空想の中で、理想の女神や大家族を創り出し、自分のことを忌み嫌う母親や、老い、相手にしてきた男たちへの怒りや憤りをパワフルに表現しながら、孤独と悲しみを伝えてほしいと。あくまで静的な芝居の中で様々な感情を伝えなくてはいけない難しさを感じています。
この作品の舞台セット
互いが全く見えない中で、共演者の息遣いを感じて
──そういう意味では挑戦でもあるこの作品の、稽古をしていていかがですか?
最初に頭の中で作り上げてきたものと、実際に演じてみたものとの擦り合わせの過程にはまだ入っていないので、本当にこれからだなという感じです。皆で台詞をモノローグで語り、そこに少しだけ歌も入るシーンがいくつかあるので、他のキャストの呼吸や息遣い、存在を感じないといけないんです。それでいて自分のスペースは2メートル四方の部屋だけなので、すごく孤独でもあって、今までの演劇とは全く違う神経を使います。
──皆さんがそれぞれの部屋に入ったままということは、お互いのアイコンタクトもないのですね。
何にもない(笑)。だから空気や、ちょっとしたブレスを感じなければならない。当然ですが、語る言葉も揃えないといけないので、そこは連帯責任ですから、孤独なようで全員で作り上げていく作品です。そういう意味では初めての試みで、本番のセットの中に入るまでは、なかなか想像がつかないですね。それに部屋の前にも透明なガラスがあるので、お客様の空気も感じられないですし。
──客席の空気も、ダイレクトには伝わらないのですね。
1人で4畳ぐらいの部屋に閉じこもって、ずっと語っていますからね。部屋の中で座って、壁を見ながら話している、鏡に映った自分に話しているようにやってくださいと言われています。その方が、観客が登場人物の世界に引き込まれると。最初は戸惑いましたが、自分を信じて表現したいです。
──それぞれ1人ずつ各部屋に入りながら、お互いが見えてもいないけれども、確かに共演しているわけですね。
だからお互いの信頼関係がすごく大事になりますね。それはとにかく稽古を重ねていく中で築き上げていけたらと思います。皆さん個性がバラバラなのに空気が揃うと気持ち良いです。
作品を通じて親との関係性を考えさせられる
──登場する皆さんがそれぞれネリーの断片という中で、特に血縁を担当するにあたって、霧矢さん自身の家族の絆などにも思いを馳せることがありますか?
私には姉が1人おりまして、両親と4人家族なのですが、姉も私も早くから親元を離れたので、非常に自立している、各々が好きなことをやっている家族です。親にマメに連絡するタイプではないので、年末年始や、両親が舞台を観に来てくれた時ぐらいしか会う機会がありませんでした。特に宝塚時代は実家に帰ることがほとんどなかったので、退団してからようやく親とゆっくりすごす時間が増えました。宝塚に入って、音楽学校を入れると20年、ただがむしゃらに頑張ってきて、親の存在はある意味で置いておいて、自分のことに必死という期間が長かったんです。親と一緒にいる時間が増えたことによって、親のありがたみを強く感じるようになりました。でもネリーは母親のことを疎ましく思うんですね。自分が母親とそっくりになっていくことが嫌で、それもあって彼女は自ら命を絶つという境地に達してしまう。私から見たらそんなこと有り得ないですし、母親にも感謝しているのですが、ただ、母と娘ならば誰しもが抱えるような摩擦みたいなものはわかりますし、私も母にどんどん似て来たなと(笑)。歳をとってきたら似てくるところって、確かにありますよね。若い頃に母に言われてカチンときて怒っていたことも、自分が大人になっていくと、同じようなことを母に向かって言っていたり(笑)。やはり肉親には、どんなに切っても切り離せないものは感じます。私たち姉妹は早く親元を離れた分、自分で自分たちの人生を歩んでいると思って生きてきましたけれど、こういうお仕事を続けさせて頂けているのは、やはり影で応援してくれる存在があるからこそだと気付かされます。ネリーの小説とこの作品をきっかけに、親との関係性を色々考えさせられています。
シュールな表現の舞台だからこそできる様々な捉え方
──誰にとっても親との関係は大きなことですね。特に長寿社会になって、関わる年月も長いですから。
マリーさんもおっしゃっていたのですが、ネリー・アルカンのご両親もまだご存命で、この舞台もご両親は観にいらしたそうなんです。
──この舞台をですか?
そうなんです。ネリーの書いている小説の中では、ずっと寝たきりで何の気力もなくて、ただただ死を待っているという表現をされているのですが、マリーさんがお会いしてお話をしたら、本に書かれているようなお母さんではなくて、いたって普通の方だったと。だから本に書いてあることも、全てが事実に基づくものではなく、彼女の想像の中とか、象徴的な意味で寝たきりの母親を作っているのかもしれないですし。父親も「大きくなっちゃいけない、大きくなったら誰にも愛されなくなるからね」と言い続けて彼女を育てたと書かれていて、それも彼女が自殺してしまうことにつながるのですが、どうしてそんなことを言い続けたのか、理解は難しいですね。
──親が言った言葉がずっと心に刺さっているというのは、文学の世界では度々書かれていますし、覚えがある人も多いと思います。
幼少の頃に何か言われたり、思い込んでしまったことに人間は囚われがちで、でも傷だと思っていたことも、実はたいしたことではなかった、逆にそれがないと生きてこられなかった、これはそういう発見の舞台になっています。彼女の本がヒットしたのも、そこが魅力だと思いますから。でも本よりも舞台の方が抽象的なんですよ。天空のことを話す場所がバスルームだったり、現実とのギャップを、そういうシュールな歪んだ形で表現していて、私の部屋も仕事場のベッドであると同時に、川の字になって寝ていた両親のベッドも表していて、色々な捉え方ができる空間になっています。ですから、より想像力を喚起されると思います。
──ネリー・アルカンという作家は、日本ではあまり著名ではなかったので、こういう形で紹介されることで注目を集める舞台になると思います。
私も存じ上げませんでした。初版本が絶版になっていたのですが、今回、改訂翻訳版が発売され、色々な意味で有意義だと思います。マリーさんは、ネリーの人生の断片を演じるこの舞台で、日本の女性がネリーを捉えた時に、どういう表現が生まれるのか楽しみにしているとおっしゃっていました。今回の舞台は表現方法が独特で、今までの私は、舞台に立つ時にはお客様にお見せしなければ、言葉を伝えなければという、そこに腐心するのを当たり前のこととしてやって来ましたが、今回はお客様のことをまったく感じていないかのように演じ、マイクもつけ、他の演者の声が聞こえるようにイヤーモニターもつけているので、声を張って台詞を言うこともないんです。そういう演劇に取り組むのが楽しみですし、新たな私を観て頂けると思うので、期待を持っていらして頂きたいです。様々な個性の女優さんが煌めいて、ひしめいて存在しているので、楽しみにして頂けたらと思います。
きりやひろむ○大阪府出身。94年宝塚歌劇団で初舞台。10年月組トップスターに。12年宝塚退団後、13年『マイ・フェア・レディ』のイライザ役で女優として活動を開始。舞台を中心に、ライブ活動も積極的に展開している。近年の主な舞台作品に、『I DO ! I DO ! 』『ヴェローナの二紳士』『ラ・マンチャの男』『レミング』『THE LAST FLAPPER』『ビッグ・フィッシュ』などがあり、18年『タイタニック』への出演が控えている。
【取材・文/橘涼香 撮影/岩田えり】
■原作:ネリー・アルカン
■翻訳:岩切正一郎