『CREATORS INTERVIEW vol.10 URU』――アジアのアーティストと一緒にグローバルヒットを作りたい

インタビュー
音楽
2018.3.28

ソニー・ミュージックパブリッシング(通称:SMP)による作詞家・作曲家のロングインタビュー企画『CREATORS INTERVIEW』。第10回目は、平井堅や中森明菜をはじめとする国内アーティストをはじめ、韓国、中国、台湾、インドネシアなどアジア各国での活躍も目覚ましいURUが登場。時代の変移による各国の音楽シーンの変動、国内外のさまざまなアーティストとの制作エピソード、そして今後の海外展開などをお聞きしました。

日本と日本以外のアジアの国では曲や作家に対する扱いが違う

――URUさんは、’96年にR&Bユニット“IZ(アイズ)”の一員としてデビューする前から作家として活動されてますよね。

もともとはちょうど打ち込みが始まった世代なんですけど、好きだからいち早くやってたんですよ。最初は自分のファンクバンドのメンバー用にマイナス1(ベースやドラム、ギターなどの楽器を抜いた練習用のオケ)を作っていたのが広がっていきました。自分のバンドのためだけに作っていたのが、楽曲提供に繋がっていた感じでしたね。まだ打ち込みをできる人が少なかったから。

――作家としての最初の仕事は覚えてますか?

打ち込みを始めた頃に、テレビのBGMとかCMソングのお仕事をいろいろともらってましたね。よく覚えてるのは、MIKI HOUSEのイベント<ミキハウスランド>の音楽。大阪城ホールや横浜アリーナを貸し切って、その一角に子どもたちを遊ばせるコーナーがあったんですけど、野球の内野くらいのスペースを4つの世界に分けて、そこの音楽を作ったんです。会場全体にはワンキーのアンビエントの音楽をずっと鳴らして、例えば、木の世界の木を叩くとクラリネットの音が鳴ったりする。4つの世界、それぞれでごちゃごちゃに叩いても不協和音にならないようにっていうフレーズのスケールも考えてやったりして。それは面白かったですね。

――バンドをやりながら、CMやイベントの音楽を作ってたんですね。

そうですね。米米CLUBのようなバンドをやったり、他には、4人組のガールズダンスグループのダンストラックも作ってたんですが、そのうちの二人が歌が上手かったので、歌もののトラックを作ってインディーズで出したら、メジャーデビューが決まって。でも、女の子二人だけだとセクシー系に見られるから、メンバーに入ってくれって言われて、一緒にデビューしました。結局、2年間、活動したんですけど、全国のFMラジオ局とかをプロモーションで回ったりしたのはいい経験になったかなと思います。J R&Bがやっと始まったくらいの時期だったこともあって、そのあとに出てきたR&Bのシンガーから依頼が来るようにもなったので、デビューしたことがいいきっかけになったと思いますね。

――デビュー翌年の’97年には5人組の日中韓合同アイドル“Circle”のプロデュースを手掛けてます。

自分の曲が使われることが決まって、韓国に行くことになったんですけど、行ってからは大変でしたね。アイドルの子は11歳から16歳だから、夜9時までしかレコーディングができなくて。レコーディングが終わってからは、毎日、夜中まで現地のミュージシャンとの飲み会でした。当時は、日本に憧れてる人や音楽家がいっぱいいたので、「日本で作曲の仕事をするにはどうしたらいいんだ?」っていう話を1日に何人ともして。結局、2ヶ月くらい行ったり来たりしてたのかな。まだ15日しかいられないビザだったから、一旦日本に帰ってきて、羽田空港からそのまままた韓国に戻ったこともありましたね。

――韓国が通貨危機に陥ってる時代ですよね。

だから、インタビューも受けたけど、エンタメに関するものじゃなく、社会記事ばかりでしたね。しかも、まだテレビで日本語の歌詞を放送することが禁止されていたし、向こうのミュージシャンと話しても、グラミー賞アーティストも知らなかったり。ちょっと閉鎖的な要素もあった頃だと思います。

――現在は日本よりもUSヒットチャートと直結してる印象ですが、日本を含め、海外のカルチャーが規制されていた時期もあったんですよね。自国文化の保護という名目もあって。

そう、だから、僕が韓国に行き始めた頃がどん底の時期だったんだけど、国策としてエンタメとITを補助してやっていくことが決まって。最初の2年くらいはインターネットも日本のほうが速かったけど、国をあげてやってるから、3年目くらいには逆転して。その時代にエンタメ会社もリセットされて、S.M. EntertainmentやYG Entertainmentのような新しい会社がいっぱいできました。アーティストを経験した若い人たちが音楽業界のリーダーシップを取れるようになって、自分たちがやりたい音楽を目指したことで、だんだんグローバルになっていったんだと思います。

――URUさんが先駆者として、韓国の音楽シーンのグローバル化の一旦を担っていたと思うんですが、ちょうど20年後の現在、日本国内での仕事とどんな違いがあると感じてますか?

韓国に限らず、日本と他の国っていうくらい、日本は独特で、曲に対するリスペクトが違うというか、曲の扱いが少し雑だなとは感じてますね。例えば、その当時の韓国だと、才能のある人を見つけた場合、デビューさせるまでに何年か練習させるんだけど、その間、ずっと同じ曲で練習させるんですね。昔の日本の演歌のやり方に近いかもしれない。その曲を売るために家を売って、その金を全部つぎ込むプロデューサーもいる。それくらい1曲に勝負をかけるから、1曲を作り上げるのにすごい細かく直す。日本もシングルのタイトル曲とか、こだわりがある曲もあるけど、日本以外のアジアの国では、全ての曲に対してミリオンヒットを出すんだっていう気持ちでやってる印象を受けるかな。とりあえずこのくらいでいいじゃんっていう感覚はないし、作家に対してのリスペクトも感じますね。

――以前、Mayu WakisakaさんにTWICEの「KNOCK KNOCK」も1年くらいかけて何度も書き直した話をお伺いしました。だからこそ、’16年に本国でヒットした曲が翌年に日本でもヒットするということが起きるんだと思います。

アジアの作家と飲みながら、「理想はマイケル・ジャクソンの『スリラー』のように全ての曲がシングルヒットするようなアルバムを作っていきたいよね」っていう話をしてて。国内だけでやっていたら、商業的要素とかコスパとか、レコード会社に言われたこととかのバランスばかりを考えていたかもしれない。そういうマインドを蘇らせてくれたのは大きいなと思いますね。

――韓国でも作家活動をされてたんですよね。

1999年から日韓W杯が開催された2002年までの3年間、向こうの作家事務所とも契約してました。毎月、1週間、必ずソウルに行って、スタジオにこもってずーっと曲を作らされてましたね。同時期に、SMPと契約したので、最初は韓国を除く全世界という契約にしてもらってました。韓国のアーティストは、Roo-Ra、Diva、Chakra、神話、オム・ジョンファ、元S.E.S.のバダ、イ・ドンゴンとか、色々やらせてもらってますね。
 

平井堅や中森明菜など国内アーティストとの制作エピソード

――国内では2000年に平井堅「GREEN CHRISTMAS」の作曲を手掛けてます。11枚目のシングル「even if」のカップリングで、J-WAVEのクリスマスソングにもなってました。

その前の「楽園」のカップリング、「affair」を作曲した都志見隆さんっていう先輩の作家さんからアレンジを依頼していただきました。堅ちゃんとは、R&Bやブラックミュージックの好みが似てたんですよね。もともとはジャズベースから始めているので、自分のコーラースワークとか、ジャジーなボイシングとか響きを気に入ってくれて。実はコーラスの仕事を頼んだことがあるんですよ。明菜さんのアルバム曲のコーラスを堅ちゃんにやってもらったんです。密かに入ってるのがいいっていうことで、大々的には宣伝してないんだけど、すごく楽しんでやってくれましたね。

――アルバム『Resonancia』(’02)に収録されてる「Eyes on you」ですよね。同作に収録されているシングル曲「The Heat 〜musica fiesta〜」では、韓国のヒップホップグループ、X-LARGEをフィーチャリングしてますが、これも早いですよね。

X-LARGEは、アメリカ人のMCハマー、韓国人のイサンミンと、日本人の俺とでプロデュースしてました。「The Heat 〜musica fiesta〜」のMVでは、韓国の有名な俳優さんにも出てもらって。アルバムには、平井堅さんの他に、日本のラッパー、クレンチ&ブリスタのブリスタにも入ってもらいました。当時、明菜さんは「日本のJ.LOになりたい」って言ってたから、ラップを入れたんですよ。

――だから、全体的にラテンR&Bだったんですね。

そうですね。歌姫シリーズをリリースするちょっと前に、インディーズのシングル「It's brand new day」をプロデュースさせてもらったら、彼女が気に入ってくれて。そのあとにメジャーでやるときもアルバム全部プロデュースさせてもらいました。彼女とは同い年なんですよね。上京して最初にバイトをした喫茶店が当時彼女の事務所の近くで、明菜さんにコーヒーを出したことがあったんですよ。本人をプロデュースするときに、その話もしましたね。

――あのとき、コーヒーを出してくれた子がプロデューサーに!? って、すごいストーリーですね(笑)。そして、’10年代からは海外仕事が増えていきます。まず、2010年に花王アジエンスのCMプロジェクト、アジア6ヵ国の歌姫による「The Asian Beauties」の総合プロデューサーとして、ピアノバラード「S.H.E.」を手掛けてます。

大変でしたね。キーチェックからパート分け、レコーディングやMV撮影まで含めて、全部で3日間でやらないといけなくて。自分以外は、生バンドもエンジニアも全員女性にして、ヴォーカルはJUJUさんに軸になってもらったんですけど、6ヵ国のシンガーさんのパート分けを全部その場で決めて進めないといけないから、それぞれの通訳を通してのアーティストとのやり取りが、すごく緊張感がありましたね。

――でも、アジア各国で仕事をしていたURUさんしかできなかったと思います。

そのあと、ジェトロ(日本貿易振興機構)主催のバンコク(タイ)でのビジネスマッチング商談会で、このプロジェクトの経験をお話しさせていただいたときに、現地の企業の方たちから「アジア展開するならこういうことができたら面白いですね」って。「1+1が3になる効果が現れるんじゃないか」って言われて。そんなに簡単にはできないけど、評判が良かったのは嬉しかったですね。
 

インドネシアは世界のトップレベルになるような可能性を感じている

――ここから日韓以外のアジア各国のお仕事に目を向けたいと思います。吉克隽逸「Lotion song」は中国人ですよね。

中国のソングライティングキャンプで出会った、台湾のビクターっていう作家の子と二人で作りました。自分が最初にベースラインを考えて、それからトラック、メロディとすっとできたかな。本人も来て、こういう曲がいいっていうのを聞いて、ローションを塗りながら踊るっていう感じで一緒に盛り上がって。そのときからもう、「Lotion song」になってました。今の中国はお金をすごいかけますね。PVの撮影で2週間、ロンドンに行ったって聞きましたから。なのに、撮影は全部室内(笑)。

――MVの映像はとてもエロチックでした。URUさんは’14年に台湾のF4のジェリー・イェンのプロデュースもやってますが、’16年には同じくF4のヴァネス・ウーの「BOOGIE」の作曲も手掛けてます。

これも中国キャンプが発端なんですけど、テリーというプロデューサーと仲良くなって。彼のスタジオで「ファンクっぽいのを作ろう」って言ってやってたら、途中でヴァネスを呼び出して。その場でヴァネスが仮歌を入れて、リリースが決まるっていう。ヴァネスとも仲良くなれたし、いいプロデューサーと出会えたのが大きいと思います。

――‘17年12月にリリースされたばかりのA-Mei「Whatever」も台湾ですよね。

これは本人とは会ってなくて。別のレコーディング仕事で台湾に行ったときに、空き日にスタジオを持ってるヒップホップの子のところに行って、一晩かけて作りました。朝の4時くらいにできたのかな。大陸でも人気の国民的歌手ですね。台湾のスーパースターで、日本でいう安室ちゃんみたいな感じかな。中国のアリーナ規模でもライブしてるくらいだからリアクションも大きかったです。

――いろんな国のアーティストとお仕事をされますが、楽曲制作をする上で大事にしていることはなんですか?

やっぱり、歌ものの場合は、歌う人がどうしたらかっこよく見えるか、素敵に見えるかっていうことを意識するっていうことかな。その最終系をイメージして戻っていく。だから、基本、一人で作るときは、最初から楽器やパソコンを触りながら作ることはないです。しっかりと最終形のイメージができてから、メモしていくっていう。

――ご自身の作家性とか自己表現っていうことは考えないですか?

それは放っておいても出るのかなと思う。自分はベースのタイミングやフレーズ、音符の長さが特徴的だっていう自覚はあるけど、ベースがない曲もあったりするから。しいて言うなら、音色選びにはこだわってるかな。長い間ずっとやってるから、この曲のキックはあのサンプリングCDに入ってたやつだなっていうのがすぐに分かる。最近またどんどんソフトを買いまくって、音源が多すぎて困ってるところです(笑)。

――これからは先はどう考えてますか?

ここ数年、インドネシアに注目してます。すごい才能ある人がいっぱいいるんですよ。ただ、クリエイティヴやプロダクションの部分で、もっとこうしたらいいのになっていう要素があって。例えば、メロディはJ-POP的なものもあるんだけど、サビ(HOOK)が弱いなって思うことが多いんですね。ただ、イントロや間奏には、普通のポップスの中に、ジャズやフュージョンの要素が入ってる。歌も楽器もめちゃめちゃ上手い人が多いんですよ。だから、インドネシアに行ったら、僕は楽器は弾けませんって言うんですね(笑)。弾けるなんて言えないくらいレベルが高い人ばかり。韓国も最初はそうだったんですよ。才能はあるけど、トレンドが古いとか。そういう意味で、インドネシアは世界のトップレベルになるような可能性を感じてます。今年、やっと2年前に作った曲がレコーディングできそうなので、本当に楽しみですね。既に、アグネス・モニカ(AGNEZ MO)っていうインドネシアのスターがティンバランドプロデュースでやってるけど、近い将来、必ずくると思います。

――プレイヤーとしてライブをしたいとは考えてないですか?

老後にジャズができればいいですね。僕は20代前半の頃、鈴木良雄さんや他のジャズベーシストのボウヤをやってたんですよ。ただ、当時のジャズマンは、ジャズでは全然食えてない人が多かったんです。だから、僕は師匠たちのレベルに追いつく前に、まず、ジャズをメジャーにしないといけないと思って、そのあと、オレンジ・ペコー(2002年メジャーデビュー)のプロデュースを始めました。チンさん(鈴木良雄)にもレコーディングに来てもらって、自分の先生をプロデューサーとしてディレクションすることになったんですけど、「請求書なんて書けねーよ。キャッシュじゃないの?」なんていじられながらやってもらってました(笑)。

――いい話ですね。鈴木さんは日本のジャズ界のリーダー的存在ですけど、弟子から師匠への形を変えた恩返しでもありますよね。

まだジャズ系のミュージシャンがポップスのレコーディングにあまり呼ばれてない時代だったんですよね。大野雄二さんの『LUPIN THE THIRD 「JAZZ」』のメンバーのミュージシャンにも手伝ってもらいました。若手からベテランまで、いろんなジャズミュージシャンに請求書の書き方を教えたっていうのがいい思い出ですね(笑)。

 

取材・文=永堀アツオ

プロフィール
URU
1996年R&Bユニット"IZ"(アイズ)で日本コロムビアよりデビュー。その後、プロデューサー、作曲家、編曲家、リミキサーとしてR&B、HIPHOP、JAZZ、LATIN、ROCKなど幅広いジャンルの作品を制作。また、アジアをはじめ、海外のアーティストも多く手がけている。
[オフィシャルサイト] http://www.bizm.jp/
[所属事務所ページ] https://smpj.jp/songwriters/uru/
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