舞台芸術学院創立70周年記念特別公演、別役実『この道はいつか来た道』──演出家・鵜山仁、金内喜久夫、平岩紙に聞く
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舞台芸術学院創立70周年記念特別公演『この道はいつか来た道』(別役実作、鵜山仁演出)
数々の演劇人を輩出した舞台芸術学院が、今年で創立70周年を迎えた。それを記念して、舞台芸術学院の卒業生である演出家・鵜山仁、俳優の金内喜久夫、平岩紙で作りあげた、別役実・作『この道はいつか来た道』が、下北沢・駅前劇場で上演中だ(19日まで)。三人それぞれが舞台芸術学院で過ごした思い出とともに、記念公演にかける意気込みを聞いた。
戦後まもない舞台芸術学院の思い出
──舞台芸術学院創立70周年ということで、通っていたころの思い出を聞かせていただけますか? まずは演劇部本科6期の金内さんから。
金内 いっぱいあります。いまの池袋西口駅前とは、まるきり風景が違いますから。
──でも、校舎のある場所は変わっていないんですね。当時から、近くに教会はありましたか?
金内 教会はないですね。前が大きな税務署だった。それから、駅へ行くあいだに広場がありまして、その横に闇市みたいな飲み屋がずっと並んでいて、もうちょっと先の道路に食堂があった。
その広場の手前に肉屋さんがあって、そこで毎朝、コッペパンに揚げたコロッケを挟んでもらって、ソースをかけて、バリバリと食いながら舞芸まで来たんです。それがうまかったのなんのって。
あと、サンドイッチマンのバイトをみんなやっていて、ぼくはバイトをやる必要はなかったんだけど、やんないと嫌味を言われるんで、仕方なくやったり、東口の駅前にあるパチンコ屋から頼まれて、白塗りのピエロの格好をして、路上で女の子とふたりで演じたり。
それで、ぼくは本科の6期生に入るまえに、夜間の講習科に1年行っていて、それで本科に2年でしょう。お昼は総評という労働組合の文化部でアルバイト、そこが終わったら、舞芸に行って勉強して、また夜ちょっとアルバイトする。食うものも食わず、恋愛をして、学業をやって、アルバイトもやったもんだから、粟粒(ぞくりゅう)結核にかかっちゃた。高村光太郎の奥さんの智恵子もそうでしたが、当時はかかったら、絶対助からなかったんです。
もうこれは駄目だと、吉祥寺の病院に即入院したんですが、具合がよかったのは、ストレプトマイシンという抗生物質が出始めだったんです。ただし、それには保険がきかなくてすごく高いし、入院費もかさむ。それで飛行機で運んでもらって、実家のある福岡の結核療養所で治療したんです。
でもね、そのおかげで当時、九州朝日放送で制作された芸術祭のドラマのときに、芥川比呂志さんと知り合いになって、「おまえ、文学座に来いよ」と言われて、それで養成所に入ったわけです。ということで、わたしは養成所へ2回も行ってるんです。養成所の方が楽しいですね、実際の芝居よりはね(笑)。
舞台芸術学院創立70周年記念特別公演『この道はいつか来た道』のチラシ。
自立劇団やアングラの時代
──鵜山さんは演劇部本科27期。当時は慶應の学生でありながら、舞芸にも通っていたんですか?
鵜山 いいえ。卒業してから、自立劇団みたいなものが作れればいいなと思って。そのころは「小劇場」とは言ってなかった気がする。大学にいるころは新劇団とはあまり縁がなかったんです。テアトル・エコーに井上ひさしさんが書いていらした時期で、エコーの養成所でも演出部を募集していたので、行ってみたら、「倍率高いですよ」と言われて。募集のパンフレットも高くて、500円とか600円してたと思います。
それで、舞芸を見に行ったら、舞芸は5分の1ぐらいの値段で、やっぱりこっちのほうがいい(笑)。金内さんのころ、校舎はプレハブの2階建てでしたか?
金内 最初は木造の平屋で、家を改造したみたいな感じだった。
鵜山 ぼくのときはプレハブというと言い過ぎなんですけど、そんな感じの2階建てで、暴利をむさぼっている感じがしなかった。それと劇団にくっついてないのもいいかなと思って。要するに、自分たちで劇団を作れればいいと思っていたんですけど、また縁がぜんぜんなくて。
在学中の先生方はどちらかというと新劇系の先生だったんですが、もっぱら黒色テントとか紅テントとか、それから、つかさんが出てきたころだから、そういうところへ行きたいなとも思ったんですが、行ったら、団塊の世代のお兄さんたちに小突きまわされるような気がしたんで……。
金内 文学座では何期生だったの?
鵜山 文学座は17期です。舞芸に入ったときは、渡辺えりさんが2年上なんだけど、そのときまで特別に3年までやる制度が残っていたんですよ。それで、えりさんたちは兼八善兼さんという演出家と兼八事務所を作って、それが劇団2◯◯になって、劇団3○○になった。そのころから、えりさんを知ってるんで、そこだけですね、えりさんに対して強いのは(笑)。
結局、卒業する間際になっても、劇団を作る気配にならないから、文学座も見に行った。そしたら、文学座のアトリエで、もちろん一方的にですけど、金内さんを舞芸の先輩だとは知らずに見てるんです。それから、東横劇場で水上勉さんの『飢餓海峡』を見たとき、劇団というのは層が厚そうで、いろんな人がいるので、テント劇団みたいに単色じゃないから、混ざってもだいじょうぶかなと思って、受験したんですけど。
──じゃあ、どちらかというと、角野卓造さんみたいに……。
鵜山 アングラかぶれで(笑)。角野さんは5つ上だから、もうひとつ上の仲間意識みたいなのはあったかもわからないですけれど。イヨネスコの芝居やったり、勝手なことばかりして、先生も変わっていただいたりとか、僕らは大変失礼なことをしました。だから、いま学長になってるのが夢のようですね。
──鵜山さんは、現在の舞芸の学長でもあるんですよね。
鵜山 しかし、今でも貧乏くさいところはぜんぜん変わっていなくて、ふた昔前、えりさんたちの同級生は、ここで飼ってたチコという犬の餌をごまかして食ってたという……まあ面白半分みたいなところもあったんでしょうけど、とにかくみんなバイトしてましたよね。
金内 そうだよね。ぼくらが養成所に入ったときは、ちょうど早稲田小劇場が立ちあげたときだった。だから、ぼくも見に行きました。ふつうの家の2階でやってたんだよね。白石加代子さんが沢庵をかじりながら、わあぁーとしゃべる。それから、日本舞踊みたいなのを踊りながら、難しい台詞をわあぁーと。そしたら、その後、早稲田小劇場はアートセンター新宿文化で上演した。
あのころ、ぼくが感動したのは『動物園物語』だね。高橋昌也さんがやってらした。犬の話なんて、泣いちゃったな、本当に。圧倒的によかった。それもアートシアター新宿文化ですね。
鵜山 あと、シェイクスピア・シアターが、渋谷ジァン・ジァンでシェイクスピア全作上演を始めていた時期だから……。
金内 出口(典雄)の?
鵜山 当時は1000円だったのかな。
──そのころの出口さんは、まだ文学座でしたか?
鵜山 いいえ。四季も辞めてから、シェイクスピア・シアターを立ちあげて。それで、15本ぐらい見てるんです。
──毎月、ジァン・ジァンで新たなシェイクスピア劇を上演していたんですよね。小田島雄志さんも毎月1本新訳してというすごい時代だった。
母親が教えてくれた舞台芸術学院
──では、演劇部本科50期の平岩さん、お願いします。
平岩 わたしは高校の三者面談で、明日、もう進路を決めなきゃいけないという夜に、大学進学するか、短大行くのか、どこも行かないのか……まだ決めていなかったんですよ。で、演劇部に入っていたわけじゃないんですけど、いまの自分ができるのは何なんだろうと思ったときに、漠然とカメラマンになりたいとか、なんにも準備していないのにいろんなことを思っていたんですけれど、役者やってみようかなと思って。
で、母に怒られるだろうなと思いながら、「わたし、役者やってみようかなと思って」みたいなことを言ったら、なんか「ふーん」と言って。「やるなら東京行きなさいよ」と言われて。芸人になるなら大阪でいいけど、俳優になるんだったら東京へ行かないとお金も時間も無駄だから行きなさいと言われて、それで母が舞芸を教えてくれて。あとで聞くと、母が行きたかったらしくて。歴史ある学校だし、やっぱり舞芸が、ある意味、さっきの貧乏くさいじゃないですけど、浮ついてない感じがして、地味だけど……。
金内 おかあさんって、おいくつ?
平岩 えっと、昭和26年生まれなので……。
金内 ぜんぜん若いね。で、紙ちゃんは、大阪だったんですね。
平岩 大阪でした。母は時代もあって、役者なんか何言ってんだみたいに両親に反対されて断念したんですけど、わたしがひょんなことで言いだしたので、舞芸を教えてくれて。で、受けたんですけど、定員が男20、女20と書いてあったんで、すごく狭き門だと思って。何も経験ないし、受からないんだろうなと思ってたし、学校の先生からも「そんなとこ、行けるわけないやろ」みたいに言われて。で、受けたら受かったから、クラス中がみんな、すごいぞみたいになって。
それで、入学したら、新入生がめちゃくちゃいるんですよ。あれ、こんなにいたんだなと思って。
──定員以上、最初は入学許可されるんですね。
鵜山 基本、ここは創立以来、競争率はないと言われていて……(笑)。
平岩 書類審査だけなんですよね(笑)。で、入ってみて、結果、本当にやる気がないと、こんな学校は続かない。バレエでレオタードを男の子もはかされたり、好きじゃないと恥ずかしくて続かないので、結局、募集定員ぐらいになっちゃうんです。
──1年後には定員ぐらいになっている。
平岩 どんどん減っていく。
鵜山 金内さんのころは、学校としては、いい学校だったんですか? 授業は真面目にやっていたとか。
金内 いやいや。ぼくはほとんど行かなかったんだけどね。すみません。いろいろ仕事があった、けっこう、小さな仕事がね。
鵜山 平岩さんは、割と真面目に……。
平岩 出たいやつは出てたんですけど、座学とか、親に学費払ってもらっていたのに……いまでも全部ちゃんと出てたらよかったと思いますけど。好きなやつだけ、出てましたよね。
鵜山 学校はサボんないと意味ないですよね(笑)。絶対そう思うし、生徒にもそう言ったりしてるんだけど。
平岩 素敵です。
創立70周年で別役劇を上演する理由
──そういう歴史ある舞台芸術学院が創立70周年を記念して、別役さんのお芝居を上演される。なぜ舞芸で別役劇なんですか。
金内 今度、これはやっていただいて、非常にありがたいんですけど、ぼくはあまり役者として、この作品がやりたいとか、思う役者じゃないんですね。いまは86歳なんですけど……
平岩 86!
金内 ちょうど80歳になったときに、久保田万太郎の台詞について、ティーチインしないかというお誘いがあったんですよ。それは面白いなと思って。で、久保田万太郎の台詞は、意外と別役さんと似てて、あんまり長い台詞はないんですよ。小さな羅列だったり、空間を埋めるという、雰囲気の芝居。
それを読んでると、台詞についてね、文学座はいつもね、久保田万太郎のお弟子さんで龍岡晋さんって方がいらっしゃるんですよ。この方が演出なさるために、ものすごく厳しいんです、台詞のひと言ひと言が。
──江戸弁に詳しい方だったと聞いています。
金内 下町弁じゃなくて、江戸弁なんですね。つまり、久保田万太郎風のね……「ちがいますね」「ぜんぜんちがいます」「もういっぺんやってください。ちがいます」と、大の男が、もう泣きだすぐらいにね、ひと言ひと言が駄目なんです。ぼくは第1作目から『大つごもり』という久保田万太郎の代表作で、職人をやらされたんですよね。
そのときは戌井(市郎)さんが演出で、あんまり言われなかったんだけど、久保田万太郎の台詞はやっぱりちょっと難しいんです。それは別役さんの短い台詞と共通性がある気がするんですよ。だから、その台詞について講義するのを、ちょっとやってみようと思って。
久保田先生は文学座の創立者のひとりだけど、ぜんぜん知らないから、『テアトロ』の久保田万太郎特集を読んでいたら、巻末に別役さんの『この道はいつか来た道』が載ってたんですよ。
おおっ、これは面白いなと思って。ぼくはこれがやりたいと言ったりする方じゃないんですけど、これをやってみたいなと思っちゃって。そしたら、試演会みたいなかたちでやらないかと言っていただいて、文学座には藤原新平さんという、これまで別役劇を手がけてきた演出家がいらっしゃいますんで、で、その人を引っぱりだして、相手役は本山可久子さんという、割と同じような年齢の人にやってもらった。
その試演会をやって、次には文学座のアトリエでやって、3回目はシアターXの上田君がやらないかと言ってくれて、シアターXで上演した。彼女は舞芸の同級生なんです。それで、もう3回やったから、今度は相手役を若い人でやりたいなと思ってね。
──じゃあ、お相手を若い人にしたのは、金内さんのご希望が……。
金内 わたしの希望が非常に強いんです。同じ年齢のほうがいいに決まってるんですけど、こちら(平岩)だったら、2回ぐらい、こちら(鵜山)の演出でやってるんですよ、渡辺えりさんの作品を。
平岩 舞芸の60周年記念公演のときに。
金内 この人、言っちゃあまずいんだけど、うまいんですよ。つまり、ぼくたちの世界にちょっとないような感じで。だから、めちゃくちゃな要求でも、それをパッパッパッとやっちゃうんですね。
ぼくが高村光太郎の役をやったときもそうなんですが、演出家が「そこでラブシーンをやってください」と言われたときに、ラブシーンをやれる場じゃないところでも見事にやって、ぼくは感心しましたね。この方とぜひいっしょにやりたいなと思って、やらせていただいてるんですけどね。
『この道はいつか来た道』(別役実作、鵜山仁演出)左から、金内喜久夫、平岩紙。 撮影/mika
別役劇の秘密めいた景色
──『この道はいつか来た道』は、俳優座劇場で新村礼子さんと内田稔さんが演じられた木山事務所の初演も見ています。おふたりは実生活でもご夫婦で、劇団では先輩にあたる新村さんに、内田さんが猛アタックされて結婚されたと聞きました。別役さんは『この道はいつか来た道』を、どれだけおふたりに当て書きしたのかわからないんですけど、これは夫婦だろうと思われるふたりが、何度も出会い、求愛して、結婚し直す話ですから、愛を温める話と考えてもいいんですけど、その舞台上のふたりと、実生活の新村さんと内田さんの長年にわたる想いみたいなものが、舞台上で二重写しになって見えてくるという、ちょっと奇跡みたいな舞台だったんです。
金内 岡山とか、どこかで出会ったんですよね……尾道か。『この道はいつか来た道』はご夫婦が結婚何周年記念に何か書いてくれと、別役さんに依頼されて、書かれたようですね。
──そういうことだったんですか。おふたりが劇団員だった昴ではなく、木山事務所公演で末木利文さんの演出でした。別役劇といえば、2年前の別役実フェスティバルのとき、鵜山さんは中心になっていた記憶があるんですが……。
鵜山 なんかちょろっと言ったら、別役さんって権力的じゃないから、みなさんが自然発生的にみんな集まってくるんですよね。それで、上演料も安いし(笑)。すごく面白かったんですけど、ぼくがやったというよりは、みなさんが持ち寄りで作っていった感じで……。
──でも、実施されるときの中心になって、実行してやっていただいて……。
金内 よかったですね、本当に。別役さんも喜んでくれて。
──『街と飛行船』とか、別役さんの初期作品も上演してくださいました。
鵜山 子供のころ、寝てると、隣で両親が話してて、切れ切れに聞こえてくる話は、たぶんぼくが生まれる前の話だったりもするんだろうなというんで、すごい聞き耳を立てて、それでもよくわからないみたいな……そういう感じなんですよね。
──それは別役さんの台詞がということですか?
鵜山 芝居はよろずそうなんですけど、自分が生まれる前の話とか……ぼくは(昭和)28年生まれだけど、おそらく戦争の話とか、その当時、話していたんじゃないかなと妄想するんだけど、よくわからない。だから、人が言葉にできることとできないこと……そのへんの秘密みたいなことを覗く。なにやら秘密めいた景色があって、これはなんか面白そうだなと……。
でも、文学座では藤原新平さんがずっとやっていらしたし……新平さんばかりでもないんですけど……自分にはチャンスがぜんぜんなかったので、別役さんがお元気なあいだに何とかみんなで……ぼくも昴で一本やれた。それこそ、新村さんも内田さんもいらっしゃらなかったけど、北村総一朗さんとごいっしょできた。その世代の人たちには別役劇への独特の思い入れがあって、そのへんの共犯関係が金内さんはわかっていらっしゃるけど、ぼくなんかはぜんぜんわかんないこともあると思うんです。
最近、仲良くしていた人達が死んでいくと、生きているうちに大事なことを聞いておけばよかったと思うんですけど、大事なことを聞けた人はひとりもいなくて、肝心なことを言わないうちにいなくなっちゃう。だから、やっぱり言葉にできることとできないこと……人間が言葉にするのはどういうことなのかみたいなことを考える。若いころはなんとなく秘密めいた世界としか思っていなかったんだけれども、最近、ちょっと身に沁みて、言葉の表現の限界というのは何なんだろうという。そこをちょっと押し広げるような作品世界や生活感、文学座でやってるときにもよく「生活感」と言いますけど、そういうものとはちがった遺伝子レベルの生活感みたいなものを、感じたいと思うようになった。
それで3人の芝居も4人の芝居も面白いんですけど、ふたりでやってると、ちょっと入っちゃいけないところに立ち入っていけるような可能性があるんじゃないかなと。本山さんがやったり、藤原新平さんがやられてたりした芝居ですけど、あえてこのさい、ごいっしょできると、なんか面白い発見があるんじゃないかなということで……。
『この道はいつか来た道』(別役実作、鵜山仁演出)左から、金内喜久夫、平岩紙。 撮影/mika
登場人物の設定について
──女の役は、年配の女性として登場するんでしょうか。それとも、若いままなんでしょうか。
平岩 年相応でいいんですよね。
鵜山 そうですね、そのまま。
──髪を白くしたりしないということですね。すると、何歳差になるんでしょうか。
平岩 わたし、40です。
金内 ぼくは86だから、半分ぐらいですね。
平岩 でも、自分が何歳で、金内さんが何歳でとか、あんまり考えなくても、やりとりを感じて、金内さんと会話していれば、変な気がしない。鵜山さんも遺伝子レベルで男女として引き合っているんだなみたいな。なんか違和感が不思議となく……。
──すると、病を40歳で背負った女性と、86歳の男性が、路上でふらっと偶然出会って……。
鵜山 そうですね。だから、ネタバレ的に言うと、やっぱり、これ「夫婦」なんだろうなと思う。ただ、そのへんをちょっとごまかした話になっちゃうかもわかんない。前世で夫婦だったりとか。それこそ遺伝子レベルというと、なんでもそうなっちゃうんだけど、人類何億年の歴史に比べれば、40年ぐらいの年の差は、どうってことないという感じですかね(笑)。
──実際に演じてみて、いかがですか。
金内 男と女ということで、つまり、男1、女1ということ、つまり、男性と女性という感じでとらえてるんですけどね、あくまでもずっと。年齢はあんまりそこには関係ない。
──年齢については、台詞にも一度も出てこないですよね。
金内 出てこない。男と女ということで成り立ってるんじゃないかなと思う。だから、ぼくは年齢その他はあまり感じない。ただ、死というものが手前にある感覚を、ふたりはどういうふうに共通してやっていくかということがあって、これは生まれたときから人間には年齢に関係なく永遠にあることなんだから、そういうものに当たったときに、いったいどうやって……みたいなことがあって、そこで成り立つ。
別役さんの芝居は、ヨーロッパの不条理劇とはちがって、向こうではそういうものは成り立っていかない部分があるんじゃないかと思ってね。日本的な不条理があるんじゃないか。つまり、受容の世界があって、最後はもののあわれみたいな、つまり、日本人が築いてきたそういうものを掬い取ってるんじゃないかなと思ってるんですがね。
最近、つくづく日本人っていったい何なのかなと思って、室町のころについて書かれた本を、いま読んでるんですけど、足利義政なんて、本当に面白い。あんなぐしゃぐしゃな世界で、自分の趣味だけ、芸術だけを追い求めてね。政治的には評価されないけど。あの時代に全部、日本人の精神的な支柱ができちゃったわけでしょう。そうすると、不条理ってのも、あのころがいちばん不条理だったんじゃないかという思うんだけども。
やっぱり、死というのも、おれたちは生まれたときから約束されてるんだけど、こうやって平気で生きている。だから、それはいったい何だろうなと思って。でも、やっぱり、どこか最後、なんか感じ取れるものがあったらいいかなと。夢中になったのも、そういうことなのかなと思うんですけどね。
『この道はいつか来た道』(別役実作、鵜山仁演出)左から、金内喜久夫、平岩紙。 撮影/mika
台詞と仕掛けの面白さ
──プレゼントをおたがいにしあう場面があって、順番に見ていくと、まず、靴下片一方で、両足分そろわないと役に立たないけれど、片一方なんですね。で、そのお返しは、酔いをさます薬1錠だから、本当は2錠で効くようにできてるんだけど、1錠だけ。それから、魔法ビンのお湯、お茶の葉、お茶碗ふたつなど……それだけだと役に立たないけれど、おたがいが補完しあうと何かできるようになるもので構成されている。この場合は、お茶が淹れられるようになっている。そういうところも面白い。
金内 面白いですよ、本当に(笑)。台詞の面白さと仕掛けの面白さなんですよね。ぼくは別役作品に出たのは『数字で書かれた物語』が最初だったんです。あの「解説者」をやったんです。でも、解説者は、ものすごい量の台詞をしゃべるだけでしょう。で、向こう側でやっていた(小林)勝也とか、(角野)卓(造)とか、田村(勝彦)とかが、今日はもう死のうってときに、沢庵一枚、海苔一枚がどうのこうのって喧嘩する。それがすごく面白かったんですよ。
平岩 舞芸のテキストでやりました、学生のとき。
金内 やった? 「解説者」として、舞台の向こうでやられてるのを見てたら、面白かったんだよね。それで、あんまり感情を入れないでしゃべると、ふわっと出てくる。(小林)勝也がやってるトーンは、非常によくマッチしてると思うんだけど、あんまりそればかりやると、それらしくなっちゃうし、あまりリアルにしゃべると、ぜんぜん雰囲気が出てこない。そのへんが非常にこう……。
──別役さんの台詞は、日本語として、とても端整できれいですよね。
平岩 きれいですよね、話していても。
鵜山 こういう台詞こそ、モチベーションをちゃんと探さなきゃだめだというのがあって、しかもなおかつ、それがまた劇場的というか、井上ひさしさんと似てるところは、お客さんが必ず視野に入っているということなんですね。ミザンスのレベルでよく「対象化する」という言葉が出てきますけども、それはお客さんを巻き込むということだと思う。ふたりの世界に見えて、もうちょっと別の視野があるという。やっぱり、舞台ならではという文体ですよね。
それはそれですごく興味深いんだけど、これまで先輩がずっとやっていらっしゃるから、そこがスタイルになることを警戒して、素朴に、どうしてこうなるんだろう?ということを追っかけないといけないと思ってます。
金内 あんまりよその芝居の別役さんを見たことないんだけど、あんまりリアルにしゃべっちゃうと、雰囲気が出てこないなとか……。
──そうかもしれません。どこか作りものであって、でも、やっぱりさっきおっしゃった久保田万太郎作品に登場する職人の息づかいみたいなものがないといけないし。
金内 そのへんがね、難しいといえば、難しい。
『この道はいつか来た道』(別役実作、鵜山仁演出)左から、金内喜久夫、平岩紙。 撮影/mika
死を目前にして人生を描く
──ずいぶん前ですが、別役さんは「病気」を題材にした芝居をたくさん書いていらしたので、どうして病気の話ばかり書くんですかと訊いたら、「これはね、死を書く前の練習」とおっしゃった。「まず、病気でしょう」と言うんです。本当は死について書きたいんだけど、まだ難しいから、まず病気を書くことで練習しているとおっしゃった。そのあとの作品は、テーマがだんだん死に向かい、これがいちばん死そのものと向き合ってお書きになったかなという気がしています。いま別役さんは施設に入っていて、訪ねていった人の話を聞くと、「抜け出してのたれ死にしたい」とおっしゃってるそうなので、『この道はいつか来た道』に登場する男と同じであることに気づいて、びっくりした。いま別役さんが思ってることが、もう何年も前に、すでに書かれている。
鵜山 割とファンが多いようですね。
金内 ぼくも『病気』という芝居をやったんですよ。電信柱のあるところを通り過ぎると、「あなた、病気ですよ」と言われて、呼び止められたなんでもない人が、あれよあれよという間に病人にされちゃう。
鵜山 音響の深川定次さんは、舞芸の先輩なんですけど……。
金内 同級生だったんです。
鵜山 定次さんは愛煙家だったんですが、その偲ぶ会のときに、「煙草をやめたら、煙草に負けたような気がする」という名言を、別役さんが話してらして、「手を出すと、煙草が逃げていくようでないといけない」とか、わけのわからないことをおっしゃるんですけど、病気とか死というものを、できたら遠ざけるための呪文みたいなものを、最終的には書きたいのかもしれない。
──死というのは誰もが嫌なものだけど、この戯曲を読んでいると、美しくて、痛みを伴いながら、自分が死んでいくということをきちんと知覚しつつ、あの世に逝くみたいな感じで、納得してきっちりと死んでいる気がする。しかも、最愛と人といっしょに。そういうのも素敵な最後かなという気がします。では、お客さんに、ひと言ずつ、言葉をいただけますか。
平岩 お客さんの層が、金内さんや鵜山さんの層と、わたしの劇団(大人計画)の層と、年齢もいろいろなので、いろんな方に見ていただきたいなと。
あと、舞芸で演劇の入口を学んだので、このお芝居を舞芸の稽古場でやらせてもらってるというのがすごく幸せで、当時に戻れたような気分にもなりますし。あのころと変わらない真摯な姿勢で、この稽古場で、金内さんや鵜山さんとこのお芝居を作らせていただいていることが、とても自分のなかですこやかで、こういうまっすぐな気持ちをそのまま見に来ていただければなと思っています。なにかが伝わればなあと思います。
金内 とにかく、面白くて、やがて哀しき芝居かなと。
鵜山 今度は駅前劇場で、ああいうところでやるときは自前の芝居が多い。自前の芝居は、やってるほうは金銭的には得にならない(笑)。ということは、お客さんが得になるような芝居であるにちがいないという。
金内 とにかく、ぼくが最初に試演会として上演したときは、お年寄りが多かった。お年寄りの方にはもちろん受けたんですけど、これを若い人たちが見たらどうなのかなと思っていたら、若い人たちもけっこう喜んでくれたんですよね。これはいいなと思って。
その次は、文学座アトリエ。あそこは芝居しなくても、アトリエの空間がピシッとなにかを表現してくれた。
それから、プロセニアムのシアターXで上演したら、舞台がぐーんと高かった。その空間がまたよかったっていう。ですから、これは空間に関係なく、そこの場所を埋め尽くす芝居だなと思って。絶対面白いから、みなさんに見ていただきたい。
──劇場に上の空間があると、雪が降ってくるのがきれいなんですよね。
金内 今度はあまり高さがない空間なんだけど、雪はどういうふうに降ってくるんだろう。横から?
平岩 駅前劇場は低いですから。
金内 まるで吹雪のように(笑)。そういうことも楽しみに来てください。
取材・文/野中広樹
公演情報
■演出:鵜山仁
■出演:金内喜久夫、平岩紙
■公演日程:2019年10月11日(金)〜19日(土)
■会場:下北沢・駅前劇場
■公式サイト:https://konomichihaitsukakitamichi.tumblr.com/