能楽師・安田登に聞く──『能でよむ〜漱石と八雲〜』

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2019.11.5
能楽師・安田登

能楽師・安田登


あうるすぽっとの「みんなのシリーズ」は、舞台芸術を楽しむ「初めの一歩」として、子供から大人まで、いろんな人に劇場でさまざまなジャンルの舞台芸術にふれてもらうための入門企画。その第4弾は『能でよむ〜漱石と八雲〜』。能楽師の安田登が、浪曲師の玉川奈々福、琵琶奏者・作曲家の塩高和之とともに、夏目漱石、小泉八雲の世界を「能」と「怪談」をキーワードに読み解く。

■生声を直接体験する

──『能でよむ~漱石と八雲~』は「みんなのシリーズ」第4弾。これは初めて舞台に接する人たちを対象にした舞台です。現在では、生(なま)の声を聴く機会がとても少なくなっているので、鍛えられた生声(なまごえ)を聴くことで元気をもらったり、生き生きとした体験ができるんじゃないかと思います。

このあいだ、アートビオトープ那須に「水庭(みずにわ)」という非常に大きな庭ができて、そこでマイクなしで、照明も使わずに、火を灯りにして上演したんです。やっぱり生(なま)っていいですよね。そこでは古事記と、ヘブライ語で聖書を読んだんですよ。

──自然のなかで、電気の力に頼らずに、人間の肉声で言葉を伝えていく。

そうですね。あとは樹に反射させる音とか、水に反射する音とか。案外、音が水に反射するんです。マイクを使うと気がつかないんですけどね。

──今回の「みんなのシリーズ」の演目は、『夢十夜』より「第三夜」、『吾輩は猫である』の「もちの段」、『耳なし芳一』の三つですが、能と怪談がキーワードですか?

まず、怪談は怖い話ではなく、怪異な話です。能の場合、主人公は幽霊が多いですから、やはり怪異な話。怪異な話という点では、どれもがつながっていますね。

『耳なし芳一』も怖い物語として見られることが多いんですけれども、ちゃんと語ってみると、あんまり怖くないんですよ。怖くない『耳なし芳一』です。

『能でよむ〜漱石と八雲〜』(あうるすぽっと)のチラシ。

『能でよむ〜漱石と八雲〜』(あうるすぽっと)のチラシ。

■怪談は怖い話ではない

──『耳なし芳一』が怖いように感じられるのは?

それは演出によるものです。

──目に見えない存在だから怖いというわけではない?

そうですね。たぶん、小泉八雲、ラフカディオ・ハーンにとっては、あんまり怖い物語じゃないと思うんです。

本来、琵琶は霊を招くことができる楽器です。『平家物語』でも、廉承武(れんしょうふ)という中国の琵琶の名手を招いている。

それから、『耳なし芳一』の平氏の侍は、ひと晩終わったあと、「もう六日(むいか)来てくれ」とお願いするんです。となると、合計で「七日(なのか)来てくれ」とお願いしてるわけで、七日というのは一七日(いちしちにち)供養……一と七の七日(なのか)の供養を一七日(いちしちにち)供養と言います……をお願いしてるわけですよ。

もし、芳一がちゃんと行って琵琶供養が終われば、平家の亡霊たちは成仏できたはずなんです。それを止めたのが、和尚さん。和尚さんはすでに、琵琶が霊を呼べることを信じなくなった世代の人ですから、『耳なし芳一』は、琵琶が霊を呼べた時代から、呼べない時代への変化の物語とも言えます。

──たとえば『牡丹灯籠』では、亡霊がやってきて、夜ごと会うたびに痩せていき、とり殺されそうになる話なんですが、『耳なし芳一』の場合は、物語を語り聞かせることで、成仏させることができるお話であると。

和尚さんは死人(しびと)に祟られると言うんですが、すでに近世の考えかたをしている和尚さんと、中世的な琵琶によって成仏させるできると思っている芳一との物語だと思うんですよね。

──それで、耳だけ経文を書き忘れてしまう。

わざとでしょうね、絶対ね。

──子供のころ、読んだときに、耳も顔の一部だから、顔に書いてあったら、耳も見えなくなるんじゃないかと思ったんですが……(笑)。

『耳なし芳一』が面白いのは、芳一は耳を取られてから、金持ちになるんですよ。

──後日譚があるんですね。

最後に書いてあるんです。芳一は霊を呼べるころは、ぜんぜん有名じゃない。耳を取られて、霊を呼べなくなってから、金持ちになるんですよ。

これはトークでしようと思うんですけど、みなさんに耳の後ろに手を置いて話を聞いてもらってから、そのあと、耳の前に手を置いて話を聞いてもらおうと思うんです。そうすると、声がまったくちがって聞こえる。

芳一は耳をとられることで、耳の後ろに手を置いて聞く状態から、耳の前に手を置いて聞く状態になった。そうすると、耳が悪くなって、琵琶の演奏は下手になったにちがいない。芳一は下手になることによって霊を招くことができなくなり、そして、下手になることによって有名になっていった。それはある意味、芳一が中世的な人から近世的な人へ変わっていったことを表しています。

■異界を味わう

──では、漱石に移って、『夢十夜』の「第三夜」について伺います。『漱石私論』を書かれた越智治雄さんは「父母未生以前の世界」、つまり、生まれる前のいろんな記憶とか、あるいは死んだ後のあの世とか、要するに、現世ではない前世とか来世との関係を描いた作品であると論じています。なかでも「第三夜」を選んだ理由はどんなことですか。

「第一夜」にしようか、「第三夜」にしようか、悩んだんです。両方ともそうなんですが、本来、ぼくたちは未生以前と来世とつながってる存在ですよね。それがいまは途切れちゃってるだけで、昔はすごくつながっていたと思うんですよ。

ぼくたちがいまいる現実世界のすぐ横に、本当はちがうレイヤーの異界がある。そういうものを味わってほしい気持ちはありますね。

──お墓参りをすることも、いまよりも何倍も大切にしていましたし……。

そうですね。ぼくたちぐらいの年齢になると「田舎に帰る」のは、まず第一にお墓参りじゃないですか。親類を含めて、仲間がどんどんいなくなってますから、田舎に帰ったときの対話の対象が、生者より死者の方が多くなるんです。お墓で亡くなった父親や母親と話している時間の方がだんだん増えていき、生きている人と話す時間が減ってくる。

──わたしもだんだん死者と対話している時間が増えてきました。

そうすると、現実世界のレイヤーと異界のレイヤーとがだんだん重なってきて、現実のなかに異界のレイヤーが透けて見えるようにいっしょに存在しているのが本当の世界だと思うんです。

ところが、いまは異界のレイヤーがだんだん見えない世界になっていき、お葬式は必要ないとか、お墓は必要ないという人も増えている。それで、これはすごく大事だと思っていることが「第三夜」をやる理由です。

今回は「第三夜」だけですけど、「第一夜」と「第三夜」に共通する特徴は、動作が多いんです。「第一夜」で言うと、3回腕を組む。死にそうなときに「腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う」。次に、「でも、死ぬんですもの、仕方たがないわと云った」「腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った」このように、「第一夜」は腕組みをするシーンが多い。

「第三夜」は歩くんです。歩行が大きな役割を果たす。「第一夜」と「第三夜」は身体的な物語ですね。

■「第三夜」と能の共通点

──「第一夜」「第三夜」はそれぞれ静と動という感じですね。

静と動ですね。「第一夜」は腕組みなので静、そして「第三夜」は歩くので動。

──歩きます。しかも、「六つになる子供」背中におぶったまま……。

で、歩きながら変容していくんですね。それで道が二股に分かれたりとか、まさに「あわい」の世界。日本語の「あいだ」と「あわい」はまったく別の言葉で、「あいだ」は、ふたつのもののあいだのことですが、「あわい」は、ふたつのものが重なったところを意味する。「あわい」は「合う」が語源ですから。

──「あわい」は重なっている。

ですから、田圃を歩いているつもりが、いつのまにか森に入っていったり、道が二股になったり……そういう「あわい」の世界を、彼は行ったり来たりをくり返しているうちに、歩行をしながら時間が逆行していく。そういう意味で、動作的に面白いからやろうと。

──そして、歩くことによって、生まれる前の時間にもさかのぼっていく。

歩くことによって、時間が昔へ戻っていく。これは能の手法です。能はワキという過去から未来へ生きている普通の人と、それからシテという過去から来た人、このふたつの時間が逆行して重なることで、ここが「今は昔」となる。つまり、今が昔に変化するのが能という芸能です。

だから、「第三夜」は、自分が100年前に殺した人と出会ってしまうわけです。そして、漱石の「第三夜」にすごく近い話を、小泉八雲は採話してるんですよ。何人も自分の子供を殺してしまった農夫がいて、最後に自分の子供を育てようと思って外に出ると、この子供が「おまえがおれを殺したのも、こんな日だったね」と赤ちゃんが言うという話がある。だから、この「第三夜」には、小泉八雲の影響があるのかもしれません。

■朗読すると面白さが倍加する

──そして『吾輩は猫である』の「もちの段」。第二章の正月の場面です。

『吾輩は猫である』は、ご存知のとおり、もともとは発表するつもりがなかったものを、高浜虚子が朗読したら非常に面白かったので、連載しようという話になります。だから、『吾輩は猫である』こそ、朗読しないと面白くないんです。朗読すると、黙読したときの数倍、数十倍の面白さがあるんですよ。それは間(ま)なんですね。 『吾輩は猫である』は、間がすごく重要な作品なんです。

──舞台の生声に接する機会……しかも、喉を鍛えた安田登さん、玉川奈々福さん、それから、琵琶演奏の達人である塩高和之さんにも加わっていただき、作品解説の聞き手は、木ノ下歌舞伎を主宰する木ノ下裕一さんと、豪華すぎるオールスターが集まりました。

楽しみですよね。

──たった2日なのが惜しい感じがします。来てくださるお客さんにひと言お願いします。

これは子供が見るとお聞きしたんで、『夢十夜』を「第一夜」じゃなくて「第三夜」にしたのも子供向けです。

──「第三夜」はずいぶん怖がるんじゃないかと思うんですが……。

だから、面白いんですね。小学校1年生の前でやると、みんな嫌がりますね(笑)。でも、基本的には、ただ楽しんでもらえればいいと思うんですね。

──奈々福さんは、今回はどの役を聞かせてくださるんですか?

『夢十夜』では三味線を弾いて、あとは、バックコーラスみたいな感じなんですけど。『耳なし芳一』では芳一の役をします。

──若い男を演じる奈々福さんを聞かせていただくのも楽しみです。

ぼくは YouTube で『吾輩は猫である』を人形でやっているのがあるので、よかったら見て、関心を持って、来ていただければと思います。

【動画】文豪 夏目金之助作『吾輩ハ猫である──猫、餅を喰ふの巻」


取材・文=野中広樹

イベント情報

みんなのシリーズ第四弾
『能でよむ~漱石と八雲~』


■公演日程:2019年11月9日(土)、10日(日)
■会場:池袋・あうるすぽっと
■演目
『夢十夜』より「第三夜」(原作:夏目漱石)
『吾輩は猫である』もちの段(原作:夏目漱石)
『耳なし芳一』(原作:小泉八雲)

■出演:安田登、玉川奈々福、塩高和之、木ノ下裕一
※11/10(日)は観劇サポート付き上演。『吾輩は猫である』もちの段は手話付きで演じます。

■公式サイト:https://www.owlspot.jp/events/performance/post_132.html

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