俳優・演出家の串田和美、野外公園での小さな、小さな一人芝居で始動
串田和美
「これから先、芸術こそ必要なものだろうが、その芸術の姿はどんなものだろう。コロナが蔓延する状況が過ぎ去った後、社会はどうなっているか、どうなっていなければならないか。人間はこれまでの危機でいつも懲りず、ちゃんと絶望せず、忘れていくことを繰り返してきた。夜が明ける前に考えておかなければ、もっと恐ろしい時代になるかもしれない」
俳優・演出家の串田和美は、長野県を代表する「信濃毎日新聞」の取材にこう語っていた。取材に立ち会った関係者によれば、本当に静かに、いつも以上に言葉を探すがごとく、沈黙の中で熟考しているかのような取材だったと言う。自身が率いる松本市を拠点とする劇団「TCアルプ」公演『jam』(2020年2月13日〜21日)を終えてから、長野県でも感染者が現れ、そのまま東京には行き来できずに3カ月間を松本で過ごした。
5月25日、「松本に居るみなさん 突然ですがひとり芝居をやってみようと思い立ちました」と串田のFacebookで突然、告知がなされた。「定員は15人くらいかなあ。密接するわけにはいきません。この公演は僕ひとりでやる全くのプライベート企画なので、覗いてみようという方は、このFacebookでご連絡ください。大勢集まるとご迷惑をおかけしますし、誰も来ないと寂しい」と続けた。
6月3日〜5日、18時から19時半という時間帯で、市内の大きな公園の池のほとりにある四阿(あずまや)の屋根の下が会場だ。いくつかあるベンチにお客さんは二人ずつ座ればちょうど16人程度が集まれる。散歩をしているときに立ち寄って、ここでやろうと思いつき、自身で市役所の公園を管理する部署に相談のために足を運んだそう。
演目は『月夜のファウスト』で、昨年、県内各地を巡演した3人芝居(ミュージシャンを加えて4人の芝居だった)をひとり芝居につくり直したもの。16世紀初めころのドイツに実在したと言われるファウストの物語。錬金術や黒魔術に長けたファウストは、メフィストフェレスという悪魔と契約して若返る。しかしある日突然、自らが決めた期限の日だと告げられる――。
6月3日の初日に足を運んでみた。18時ごろ、まるで散歩している人たちが四阿にいる串田の姿に足を止めるといったふうに集まってくる。薄暮に向かい、さらに夕闇が訪れる野外で、熱演というよりは『ファウスト』のごっこ遊びを楽しむかのように、また観客に話しかけるように物語がつづられていく。
メフィストフェレスがファウストに、俺はお前自身、しょせん悪魔なんて人間がつくり上げたものだというニュアンスのセリフを最後に、両者が消えゆくことで幕を閉じた。
小道具の帽子には、少しの投げ銭やお菓子の差し入れなどが届けられた。いつもの芝居の風景と同じように、お客さんと談笑しながら見送る串田の姿がそこにはあった。
――散歩中この四阿でやろうと決めたそうですね?
串田 本当に散歩中にね。この自粛の状況が1年とか2年続いたらどうなるんだろうと考えたり、妙に用心深くなっている若い劇団メンバーに何やってんだよと叱咤するように思ったり、そういうモヤモヤを抱えながら散歩していたわけ。それでこの四阿でひと休みしたときに思いついたんですよ。
――やってみていかがでしたか。
串田 楽しかった。もっと笑えて気軽なものを期待していたお客さんもいたかもしれないけど、こういう時こそ真面目に、おちゃらけない芝居がいいのかなって。今回は本当にだれにも手伝ってもらわずに、台本をつくったり、ここでハーモニカを吹こうかなと考えたり、こんなに孤独につくったのは演劇を始めてからおそらく初めてじゃないかな。実は5、6人が見てくれればいいなぁと考えていたんだ。やると発表してから問い合わせをたくさんいただいので逆に延期しようかなと悩んだりもしたんだけど、そんなこと言っててもキリがないしね。とはいえお客さんには来てくれてありがとうという感じです。
――コロナ禍で考えたことはどんなことでしたか?
串田 今年は芝居を休んで海外に行ってみようとか、そういう年もあったけど、それは自分の意思で計画したものだから、ある意味で演劇をやっているのと同じわけですよ。でも今回のようなコロナで芝居ができない、終わりの見えない時間が唐突にやってきたというのは「なんなの?」って感じだった。コロナ探知機みたいなものができて、だれも感染してないってわかればなんでもないことなのに、自分がかかっているかもわからない、人にうつしたかもわからない、そんな状況は不安で仕方がない。しかしそう考えると何もできなくなってしまう。そういう怖い中で生きているんだということを自覚して、自分には何ができるか工夫をしないといけないと思ったんですよ。
――劇中に「悪魔など、しょせんは人間がつくったものだ」というようなセリフがありましたが、ウイルスによって翻弄される私たちに通じるものではなかったかというような感覚を抱きました。
串田 そう言われればそうだね。『ファウスト』についてはたまたま選んだ作品なんだけど、ひとりでやる前、4人でやる前、サーカスと一緒にやる前、最初やったのは世紀末だったけど、人類が大きな滅亡に向かう流れの中で生まれ、流れの中で死んでいくという感覚は僕の中にずっとあった。世紀末、ノストラダムスの預言は外れたと言われたけれど、まだまだこの世界は崩壊の最中にあるんじゃないかと思うんだよね。人間はだれしもいくら頑張ったって死に向かっていく。きっと地球だって同じで、その計り知れない長い時間の中にいる。だからコロナみたいなことがあると「来たか!」という感じもした。100年経ったらますます人口は減っているだろうし、まったく違う社会になっているでしょう、たぶん。
――演劇人に対してエールはありますか?
串田 ないですね。みんなそれぞれだから。今回のことも「串田、バカだねー」「バカですよー」でいいんですよ。ただ僕もSNSで配信されたパフォーマンスの映像や無観客でやっているスポーツなんかも見たけれど、やっぱりお客さんの存在は大事なんだと今さらながら思った。特に大相撲の無観客は寂しかったなぁ。小さな身体の炎鵬がお客さんのパワーも背負って一緒に大きな相手に立ち向かうんだという解説を聞いたときに、それはエンターテインメントにも通じると思った。もしかしたらそんな思いがひとり芝居につながったのかもしれないね。
最後に「演劇人にエールはありますか?」と聞いてみた。それがいかに野暮でバカらしい質問かは聞くのが恥ずかしくなるくらいわかっていたけれど、この芝居に演劇人としてのメッセーが込められているように感じたから。コロナ禍で対面による芝居をしたのは日本で最初かもしれない。もちろん一番とかそんなことはどうでもいい。「演劇とは何か?」。必死に考え、答えを導き出したならば、それはどんな形であっても素敵な演劇に違いない。
取材・文:いまいこういち