新しい石井琢磨へ! 音楽家としての発見と成長が詰まったアルバム『シューマン・ザ・ベスト』インタビュー
ウィーン在住ピアニスト・石井琢磨の、ソニー・ミュージックレーベルズからのデビューアルバム『シューマン・ザ・ベスト』が2025年8月27日(水)に発売&配信される。これまでのアルバムでは、テーマにそった名曲を通じて、クラシック音楽の魅力を発信してきた石井。クラシック大手レーベルデビューで取り上げるのは、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家シューマン。詩情あふれる作曲家の世界に、まっすぐに挑んだ。
収録曲はハンスイェルク・シェレンベルガー指揮、ベルリン交響楽団と共演した「ピアノ協奏曲」(ライヴ録音)。そして、小品ながらシューマンならではの美質と叙情性を発揮する「子供の情景」、「森の情景」、「献呈」(リスト編)。「実はこれまで、シューマンはよくわからない作曲家でした」と、語る石井。しかし、海外オーケストラとの初共演、ドイツのトーンマイスター(録音技師)であるフィリップ・ネーデル氏のプロデュースを通じて、シューマン像に、そして自身が目指す音楽家像に大きな変化が生まれたという。
探し続けたシューマン像
——シューマンにフォーカスした『シューマン・ザ・ベスト』ですが、石井さんはあまり頻繁にシューマンを演奏されていない印象がありました。
そうなんです。「ピアノ協奏曲」は指揮者のシェレンベルガーさんが「琢磨に似合うはずだ」と選んでくださった作品でした。なぜそう思われたのかはちゃんと伺っていないのですが(笑)。
実はシューマンは僕にとってよくわからない作曲家でした。学生時代にも、「幻想曲」「交響的練習曲」「アベッグ変奏曲」などを練習しましたが、正直、ちょっとよくわからないなと……。精神的に不安定な作曲家だからか、ちゃんと言い切らないし、煮え切らなくて、謎めいていました。今回ソリストとして抜擢され、シューマンと向かい合うことになりましたが、やっぱりわからなくて、不安で落ち込んだこともありました。不安定なバランスの和声もあれば、華やかさもある。さまざまなテンポの演奏があるので、どう弾けばいいのか、答えが明確ではありませんでした。
そんななか、ベルリン交響楽団と何公演か重ねたあとで、「シューマンは答えがないことが答えなんだ」とシェレンベルガーさんが僕に言いました。「毎回刹那的な美しさを求めて演奏すればいいし、シューマンもそれを望んでいるはずだ。なぜならシューマンはそういう人間だから」と。そこで腑に落ちたんです。答えを探しながら弾くことが正解なんだと。つまり、今までの演奏で間違っていなかったんです。シューマンは不安定さや、刹那的な美しさが魅力の作曲家なのだと気づきました。
サントリーホール公演の模様(Photo: Atsushi Nishimura)
——シューマン「ピアノ協奏曲」は、シェレンベルガーさん指揮、ベルリン交響楽団との日独ツアーのライヴ録音。ツアーを振り返っていかがですか?
ドイツと日本で合計14回、シューマンのコンチェルトを弾きました。ピアニストにとって、弾けば弾くほどシューマンは味わい深い作曲家だと知りました。翻って、素晴らしさを感じるためには、何度も演奏を重ねる必要があるかもしれません。
オーケストラとは回を重ねるごとにアンサンブルが入り組んでいき、「クラリネットがそう吹きたいなら僕はこう弾くよ」というような、阿吽の呼吸が生まれるようになりました。それこそが、この作品にとって大切なことだといえます。最初のリハーサルのときに、シューマンのピアノコンチェルトは、ピアノ協奏曲の中でもオケとのアンサンブル要素が多い作品だと気づきました。例えば、ラフマニノフの2番、3番や、プロコフィエフの2番のように、ピアノがオケ&指揮と対立することで成功する曲もあります。しかし、シューマンは違う。自分のテンポに屈服させた時点でシューマンの音楽ではなくなってしまうんです。
そこにはシューマンの願望が隠されているのではないかと僕は思います。人間関係をうまく築けず、空想世界に友人をおいていたシューマン。オケとピアノが互いのために手を取り合って演奏する姿に憧れ、初演を務めた妻・クララが、皆と一緒にアンサンブルする姿を夢見たのではないでしょうか。
——石井さんとベルリン交響楽団との演奏は、確かに両者が同じ流れの中にあるように感じました。
オーケストラと指揮者から、「琢磨のために」という思いを感じていました。「ツアー、頑張ってるね」とかけてくださった言葉から、僕自身のいつもの演奏にはない何かが生まれたのだと思います。
——ソニー・ミュージックのページで、石井さんはマエストロとベルリン交響楽団について「仲間」とおっしゃっていましたね。
お互いの志は同じ。音楽を通じてふれあいながら、より良い演奏をしようという共通する想いを感じたので、「仲間」と表現しました。
僕はまだ30代で、初めてベルリン交響楽団と共演するピアニスト。しかし、一緒に演奏するうえではオケも指揮者もソリストもフラットな関係だと、マエストロが示してくれたんです。英語の「You」に相当するドイツ語は、敬称の「Sie」と親称の「Du」の2種類があります。当然僕はマエストロをSieで呼んでいました。しかし、マエストロからDuで呼び合おうと提案されたんです。その頃から「ステージ上の仲間」という意識が芽生えた気がします。
リスペクトを持って、「良い演奏をしたい」という姿勢でいると、必ず相手も応えてくれます。先日も新日本フィルハーモニー交響楽団と共演しましたが、僕がそういう気持ちで演奏したら、オーケストラもその返事を音で示してくれました。この経験は今後の人生の糧になるだろうと信じています。
——「ピアノ協奏曲」は少し遅めのテンポでした。マエストロと石井さん、どちらのアイデアだったのでしょうか?
マエストロですね。「速めの演奏が多いけれど、僕たちは憂いを持とう」というマエストロの言葉にもとづいたテンポだったと思います。
——最後は華やかに終わりますが、第1楽章の憂いを中心としたテンポ設定だったということでしょうか?
憂いと華やかさのどちらかではなくて、それぞれにとって一番ナチュラルであることを考えた音楽作りだったと思います。
——石井さんがお住まいのウィーンの音楽性との違いは感じられましたか?
シューマンはドイツの作曲家。自分たちが自信を持って表現するにふさわしいという自信、stolz(シュトルツ)がありましたね。プライドを音から感じることができたのも、印象的な発見でした。
「シューマンっていいね」と感じさせるカップリング
——カップリングは「子供の情景」からは第1曲「見知らぬ国と人々」、第7曲「トロイメライ」、「森の情景」からは第3曲「孤独な花」、第7曲「予言の鳥」、第9曲「別れ」が収録されています。このような構成にされた理由を教えてください。
当初はたとえば「ファンタジー」などの大曲にする案もありましたが、1枚のCDを作るにあたり、感情の起伏をつくろうと思いました。シューマンの協奏曲を聴いたあとは、昂った気持ちを落ち着かせて、最後にまた「献呈」で心が沸き立って、「シューマンっていいね」の一言が出るようなCDにしたかったんです。本当は「森の情景」を全曲収録したかったのですが、抜粋でご紹介するのも、これまでオムニバスでクラシックの魅力を発信し続けてきた僕ならではでもあります。ソニー・ミュージックさんのご理解もあり、このような編成にしました。一方で、これまでの僕のCDにはない新しさも感じ取っていただけると思います。
——「献呈」はクララによる編曲もありますが、リスト編曲を選ばれた理由はなぜですか?
シューマンとリストの関係は良いもので、「献呈」は、シューマンの歌曲をリストがピアニスティックに昇華した作品です。ピアニストとしては不完全だったシューマンの曲を、リストが補完したからこそ後世に残っているのだと思い、選びました。
——石井さんはご自身のYouTube動画でも「献呈」の歌詞を解説されていて、歌曲集「ミルテの花」を感じさせる愛情に満ちた温かな演奏でした。
ありがとうございます。リストの完全さも、シューマンとしての良さも残しながら演奏したいと思っているので、とてもうれしいです。
名プロデューサーのもとで発見した新しい感覚
トーンマイスター(録音技師)のフィリップ・ネーデル氏(左)と石井。レコーディングの様子(撮影=Peter Adamik)
——収録はベルリンのスタジオ「b-sharp」で、トーンマイスター(録音技師)のフィリップ・ネーデルさんをプロデューサーに迎えて行われました。印象に残っていることを教えてください。
「b-sharp」は権威あるレコーディングスタジオで、フィリップさんは名プロデューサー。彼の一言で僕の演奏がガラリと変わったんです。それは「琢磨、自分の心の中に向けて演奏してみなさい」という言葉。そうして弾いたテイクはベストテイクになりました。細かく指示を出すのではなく、たった一言で演奏をガラリと変えるプロの仕事を垣間見た瞬間です。名だたるアーティストたちが彼と一緒に仕事をしたがる理由がわかりました。
——日頃、大きなステージでたくさんの人たちへ向けて演奏されている石井さんにとっては、新鮮な感覚でしたか?
そうかもしれません。誰かに届けようと思って音を出すと、音量も音圧も大きくなります。2日前にベルリン・フィルハーモニーでコンチェルトを弾いたあとだったのでなおさらです。でも、自分だけのための演奏ならそんなに大きな音は必要ありません。フィリップはそこを見抜いたのかもしれないですね。素晴らしい経験になりました。
レコーディング以降も、自分に語りかけて弾くことが、選択肢の一つになりました。たくさんの師匠たちから「いろいろな経験をして音楽を勉強しなさい」と言われましたが、経験したからこそ、選べるようになるんですよね。今回得られたさまざまな経験が、僕を音楽家として、より大きくしてくれると信じています。
太陽のような存在の音楽家になりたい
——初の海外オケとの共演&ツアーに、フィリップさんとの収録。多くの発見が詰まったアルバムになりましたね。
そうですね。今回のツアーとレコーディングを通して、人の想いは重なっていくと、僕一人では生み出せない大きなウェーブが起こることを知りました。ツアーでは一つ一つの公演に100人以上が関わってくださいます。一人ひとりの熱量が合わさることで巨大なウェーブが生まれ、演奏会にいらしたお客さまが熱狂してくださる姿を目の当たりにしました。感動を生むために、「石井琢磨との仕事は面白い」とたくさんの方に思ってもらうにはどうすればいいのか。いかにして「琢磨のためだったら」と、共演者に寄り添ってもらえる太陽のような存在になれるか。今回、目指すべき音楽家像が、おぼろげながらに見えてきました。
“太陽”というイメージは、指揮者のシェレンベルガーさんから影響を受けました。彼は、逐一細かい指示を出すのではなく、みんなの気持ちをハイにして、どんどん良いものをつくっていくタイプ。だからみんな「彼のためなら良い演奏をしよう」と思わせる魅力を持っているんです。僕もそんな人間になりたいと思いました。
——ソニーのアーティストになったことで、さらに可能性も広がりそうですね。
とても光栄なことで、ソニー・ミュージックの名に恥じないように頑張りたいです。ソニーの担当の方がツアーのファイナルへ駆けつけてくれたりと、すでに応援していただいていることを実感しています。注いでいただいたエネルギーで、大きなムーブメントを起こしていきたいです。
同時に、これまでの活動も大切にしていきたいです。金銭的な事情で、CDを購入できなかったり、ご家族の介護などでコンサートに来られない方もいらっしゃいます。僕にできることということで、例えば今回、ベルリン・フィルハーモニーでのデビューに密着した50分の動画を公開しました。YouTubeやSNSで夢に向かって挑戦している姿を観ていただいたり、ミュージックビデオやライブを配信したりという活動はずっと変わらず続けていきたいと思っています。
一方で、変わっていく、進化していく部分もあると思います。応援してくださっている皆さんに、「僕と一緒に次のステップへ新しい一歩を踏み出しませんか?」と呼びかけたいですね。新しい景色を皆さんと一緒に見たい。そう思っています。
取材・文=東ゆか 撮影=福岡諒祠