くるり、BOOM BOOM SATELLITES、銀杏BOYZ、エレカシ、ネバヤン……ロックバンドから“求められる”ギタリスト、山本幹宗。そのキャリアを語る【インタビュー連載・匠の人】

インタビュー
音楽
2021.2.12
山本幹宗

山本幹宗

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その“道”のプロフェッショナルとして活躍を続けるアーティストに登場してもらう連載「匠の人」。今回のゲストは、元The Cigavettesのリーダー&ギタリストであり、現在はサポート・ギタリストとして様々な現場で活躍している山本幹宗。福岡出身の山本は2005年、実兄の政幸らとともに4人組バンドThe Cigavettesを結成。60年代ロックから90年代UKインディ〜USオルタナまで、様々なエレメントを融合した良質なバンド・サウンドを鳴らし、コアな音楽ファンや同業アーティストらから熱い注目を浴びていた。バンドは2013年に惜しくも解散してしまうが、その後も山本はくるりやBOOM BOOM SATELLITES、銀杏BOYZなど一癖も二癖もあるバンドのサポート・ギタリストに抜擢され、そのサウンドを陰ながら支えてきた。さらに最近ではエレファントカシマシやnever young beachのバックも務めるなど、キャリアを重ねるごとに世代の枠も広がる一方だ。「俺なんかが『匠の人』なんて連載に出ていいんですか?」と照れ臭そうに笑う山本は、ギタリストとして決して超絶テクニックを繰り広げるわけでも、トリッキーなパフォーマンスを展開するわけでもない。が、日本の音楽シーンを担う重要なバンドたちからひっきりなしにラブコールを贈られ続けている。その魅力は一体どこにあるのだろうか。新バンド「sunsite」を俳優・永嶋柊吾と結成したばかりの山本に話を聞いた。

――山本さんがギターを始めたのはいつ頃ですか?

中学一年生の頃ですね。家に弦の張っていないエレキギターがあったので、父親に弦を張ってもらって使っていました。サイモン&ガーファンクルやベンチャーズ、ビートルズなどを聴いて「かっこいいな」と思っていたのもその頃です。

――中三の時には、ライブハウスに電話して「ライブさせてくれ」と頼んだとか。

あははは、よくご存じですね。確か、そのライブハウスに先輩が出演していて「いいな」と思ったんです。当時はまだインターネットも普及していなかったので、タウンページで電話番号を調べて電話したら、「いついつが空いてるからいいよ」と即答されて。向こうも中学生とは思ってなかったんでしょうね。慌ててメンバーを募って、ダムドやミスフィッツなどのカバーをやっていました。
高校では文化祭に出演して、ブラフマンやハイスタなどをカバーしたこともあります。でも、あくまでそれは遊びの一環というか、そんなに一生懸命やっていたわけじゃなくて。ただ、中一の頃から「プロになろう」とは思っていました。このままギターが上手になれば、勉強なんてしなくていいじゃないですか(笑)。それで19歳の頃に、ちゃんとしたバンドを作ろうと思って始めたのがThe Cigavettesだったんです。

――The Cigavettesは結成当時から、主にUKロックから影響を受けたサウンドを鳴らしていたのですか?

最初はもっとミニマムなサウンドというか。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドみたいにドラムもすべてミュートして、テンションも一定のまま演奏していました。かなりスノッブな感じでしたね(笑)。そこから、自分的にはどんどんセルアウトしていったというか、ポップな方に寄せていったんです。もちろん好きな音楽の要素を取り入れてはいたんですけど、個人的に一番やりたいことが詰まっていたのは、テイチクのインディーズから出した『taste of The sun』(2007年)ですね。「わびさび」しかない通好みのサウンドで、今考えても絶対に売れない作品だったし実際に全く売れなかった(笑)。

――くるりのサポートメンバーに抜擢されたのは、The Cigavettesの活動中?

そうです。アルバム『魂のゆくえ』のツアー中にたまたま知り合って。2009年だったかな、飲んでいる時に「何本か手伝ってくれ」と言われたのが始まりですね。当初は「ツアー・ファイナルの武道館だけやってくれ」という話だったのですけど、「その前に一度、どんな感じか観に来てよ」と言われて大阪公演を観に行ったら「せっかく来たんだから弾いていけば?」って。

――あははは。

「じゃあ、せっかくなので」って出ていったんですが、くるりのお客さんからしたら意味わかんないですよね。いきなり謎の人物が、「福岡の飲み友達です!」って紹介されてステージに現れるんだから(笑)。その流れで次のライブも出て、予定通り武道館のファイナルにも参加しました。それが23歳くらいの頃ですね。

――サポート・ギタリストとしての活動はいかがでしたか?

自分のバンド以外の人と演奏するのが初めてだったので、「こんなにも大変なのか」と。The Cigavettesだったら自分のやりたいようにできるけど、サポートだと誰も言うこと聞いてくれないじゃないですか(笑)。

――確かにそうですね(笑)。そこが楽しくもありましたか?

打ち上げは毎回楽しかったけど(笑)、演奏している時はずっと必死でしたね。もちろん緊張もしました。それまでは、多くてもせいぜいキャパ200人くらいのハコでしかライブをしたことがなかったのに、いきなりZeppやら武道館やらで演奏したわけですから。

――そこからThe Cigavettes以外の仕事も増えてきました?

The Cigavettesが所属していた当時のレコード会社には、ヒップホップのトラックメーカーがたくさんいたんです。その人たちがCMの音楽や劇伴などをレコーディングする時に、ギターを弾く仕事をちょこちょこともらったりしていました。で、しばらく空いて、2013年からまたくるりのツアーサポートをやるようになって、それは2年くらい続きましたね。

――ちなみに、現在はくるりとどんな関わり方をしているのですか?

ディレクターとして、彼らの事務所で原盤制作を一緒にやっています。ま、ど素人なんですけど(笑)。

■くるりのツアーの後、しばらくスケジュールが空いた時は辞めて田舎に帰ろうかなと思いました

――The Cigavettesは2013年12月に惜しくも解散しますが、その理由はなんだったのでしょうか。

「このままやっていても仕方ない」というのが一番の理由でしたね(笑)。これはもうダメだ、アルバム10枚出しても結果はひっくり返らないだろうと。「それでも趣味で続けよう」みたいな考えはなかったし、「仕事として成立するかどうか?」でしか考えてなかった。あんな辛い制作を趣味でやるのはとても無理です(笑)。

――バンドを解散した後は、プロのギタリストとして生計を立てていこうと。

もう引き返せないところまできていましたしね。とはいえ、そんなシリアスに考えていなくて(笑)、単純にスケジュールが埋まっていたので続けていけただけです。

――そのまま順調にキャリアを重ねてきたのですか?

いや、くるりのツアーがひと段落して、しばらくスケジュールが空いてしまった時があったんですよ。その時はもう、辞めて田舎に帰ろうかなと思いました。くるりの佐藤(征史)くんに「お別れパーティー」を開いてもらう予定だったんですけど(笑)、その直前に今度はBOOM BOOM SATELLITESのサポートのオファーが来て。

――すごいタイミングですね。「引きが強い」といいますか。

くるりの2014年のツアーで福田洋子ちゃんがドラムを叩いていて、彼女がBOOM BOOM SATELLITESのサポートを長いことやっていたのもあり、彼女経由で僕の名前が候補に上がったみたいです。正直言って、当時は彼らの音楽をあまり聴いたことなかったんですけど(笑)。

――(笑)。山本さんは、2015年3月15日に東京・EX THEATER ROPPONGIで開催された『SHINE LIKE A BILLION SUNS PREMIUM GIG』から、2017年6月18日に新木場STUDIO COASTで行われたラストライブ『FRONT CHAPTER THE FINAL SESSION~LAY YOUR HANDS ON ME SPECIAL LIVE~』までサポートを務めていたわけですが、おそらくBOOM BOOM SATELLITESが求めるギターのアプローチって、The Cigavettesやくるりのそれとはかなり違いますよね。

違いますね。ただギタープレイとしては、パワーコードでリフを弾くことが多いのでシンプルな部類というか。BOOM BOOM SATELLITESの方が「ロックバンド然」とした、ストロングスタイルのライブをするんですよね。そのグルーヴ感をしっかりと演出することを心がけました。

――当時のことで印象に残っていることはありますか?

川島(道行)さんも中野(雅之)さんもすごく良くしてくれて。特に川島さんとはプライベートでも仲良くさせてもらっていました。

――こうして話していて思うのですが、音楽性の部分はもちろん、それ以上に山本さんの人柄にみなさん惹かれているような気がします。

どうなんでしょう。確かに僕は、自分で言うのもなんですが、あまりテクニカルなプレイをする方ではないですからね(笑)。それに、サポートをするアーティストのことを好き過ぎる人も、それはそれで鬱陶しいのかも(笑)。僕くらいの距離感が、アーティストにとってやりやすいっていうところももしかしたらあるのかもしれないですね。
もちろん、くるりもBOOM BOOM SATELLITESも大好きですし、一緒にやればやるほどすごい人たちだなとは思っています。特に僕は、洋楽にかぶれまくって日本のロックを全く聴かない時期が割と長かったんですけど、そんな僕でも知っている、そういう層にも食い込んでくる曲を彼らはガシガシ書いていますからね。BOOM BOOM SATELLITESのことをあまり知らなかった時から「Kick It Out」っていう曲のことは知っていましたし。

――BOOM BOOM SATELLITESのラストライブについて、記憶に残っていることはありますか?

思い出はたくさんあって、一言じゃ言い表せないのですが……川島さんが弾いていたギブソンのFlying Vを、「ライブで弾いて欲しい」と中野さんに頼まれて……。2曲くらい弾いたときは、さすがにちょっとグッときてしまいましたね。

■「ラウド」かつ「緻密」を要求される銀杏BOYZのサポートはすごく勉強になった

――銀杏BOYZのサポートはどのように決まったのですか?

元andymoriの小山田壮平くんがやっているALってバンドのライブを観に、新代田FEVERへ行ったんです。そうしたら銀杏のスタッフの方たちがいて。その時の第一声が「あ、ちょうどいいやつがいた」みたいな(笑)。その場でスケジュールの確認をされて、「そこ空いてますよ」と言ったら「じゃあ、押さえさせてください」って。「え、誰のサポートですか?」と聞いたら「実は銀杏BOYZがサポートメンバーを探しておりまして、一度(峯田和伸と)会ってくれませんか?」と。

――ここでも「引きの強さ」が(笑)。銀杏BOYZのサポートはどうでしたか?

もう、「これでもか」と言わんばかりに音がデカくてびっくりしましたね(笑)。峯田くん自体はものすごく音楽的で、かなり細かいアプローチを要求されるというか、すべてにおいてディティールにこだわる人です。いわゆるロックギター然としたことは好きじゃなくて、ブルージーなフレーズなどは「味付け程度」に出すくらい。手クセで弾くと、大抵ダメ出しされる。ちゃんと練り上げたものを常に要求されますが、確かに銀杏BOYZを聴き返してみると、無駄なフレーズは一つも入っていないんですよ。僕はどちらかというとかなり雑なプレイヤーなので(笑)、すごく勉強になりました。

――峯田さんってものすごく衝動的なアーティストに見えますが、サウンドメイキングはかなり緻密なんですね。

「ラウド」かつ「緻密」という部分を両立させなきゃいけないので、かなり工夫が必要でした。繊細なピッキングが要求されるし、めちゃくちゃ歪んだ中でも綺麗な音を鳴らさなきゃならない「禅問答」のようなアプローチが必要です。

――ちなみに、多い時はどのくらいサポートの仕事をされているのですか?

2019年は正直大変でしたね。1日に2つの現場を移動することも多くて。サポートミュージシャンとしては曲を覚えるのが一番大変な仕事ですよね。去年の正月にエレカシのサポートをやらせてもらったんですけど、50曲くらい候補曲があって。

――50曲……。

最初の繋がりというと、エレカシのサポートをやってたムラジュン(村山☆潤)と、10年前に下北沢の飲み屋でベロベロの状態で初めて会って、すごく険悪な状態になったんですよ(笑)。ただ、それから年月を経て片平里菜ちゃんのライブで一緒になったら、もうお互い良い大人というかおじさんなので(笑)、普通に挨拶したし何もわだかまりはなくて。

――それでサポートをやってみてどうでしたか?

エレカシはとにかくガッツのあるロックサウンドなので、力強いプレイを求められる。そして、ただただ宮本(浩次)さんに圧倒され続ける感じですね。「こんなかっこいい人、他にいないよな」と素直に思いました。それまでは、真っ直ぐなメッセージって照れくさいというか、個人的には得意じゃなかったんですけど、宮本さんのメッセージは刺さりまくりました。後ろで演奏していても感動しっぱなしなのだから、客席で正面から浴びたらとんでもないだろうなと(笑)。

――世代的にはかなり上の人たちですよね。プレッシャーも相当あったのかなと。

今まで一緒に演奏させてもらってきた方々の中でも一番上かもしれないですね。ただ、一方、下の世代の方たちもとにかくみんな元気なので、それについていくのが大変ですよ。

■コロナの影響で仕事がすべて飛んで、我に返って、自分のバンドを作りました

――比較的最近だとnever young beachのサポートもされましたよね?

ネバヤンのときは、とにかくスマブラ(『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』)を一緒にやりまくりました(笑)。一度、(安部)勇磨と2人で名古屋から福岡まで新幹線で移動したんですよ。打ち上げしてちょっと寝て朝イチで。二人で一度も休まずにスマブラ。全然勝てなくて、でもやめさせてもらえないからずっとやっていた。年下のアーティストをサポートするのは彼らが初めてで、演奏は気を使わなくて気楽だったんですけどね(笑)。というかネバヤンはとにかく4人で完成されているバンドなので、僕はもうお刺身についている黄色い花の造りみたいにいるだけです。

――そんなことはないでしょう(笑)。

いやいや、大抵のバンドはメンバーだけで完成されているので、ほんとサポートは添え物という気分ですよ。

――きっと「どのくらい弾くべきか?」など匙加減もいろいろと工夫されているのでしょうね。サポート・ギタリストとして何か、心掛けていることやこだわっていることはありますか?

なんだろう……。やっぱり、バンドとの一体感みたいなものは大切にしています。そのために楽曲は完全に頭に入れる。そして、ステージ上ではメンバーとコミュニケーションをちゃんと取る。それって、サポートだからというよりは、バンドで演奏する際の最低限の心構えというか。演奏中に冗談を言えるくらいの余裕は欲しいですよね。そうやって、ありがたいことに、楽しく演奏をさせていただけている状態がずっと続いていて。これまでずっと自分のバンドを作ることを忘れていたんですよ。

――そう、それも聞きたかったんですよ。山本さん、自分のバンドを作らないのかな?って。

作ったんです。俳優の永嶋柊吾くんがボーカルのsunsiteというバンドなんですけど、今レコーディングの真っ最中なんです。サポートでベースがYogee New Wavesの上野恒星くんでドラムがBOBO。今後の活動を楽しみにしていてください。

――豪華なメンツですね(笑)。

コロナの影響で仕事がすべて飛んで、我に返ったというか。ついに重い腰が上がりました。

――やはりコロナは活動に大きな影響を与えていますか?

ライブが丸ごとなくなってしまったので、大きいです。元通りになるのは難しいと思うけど、新しい形で早くステージに立てるようにならないとまずいなと。何かしら活動も進めばいいと思うけど、世界の状況を見ると長丁場になりそうですよね。となれば、配信ライブも含めてこれからできることを考えてやっていくしかないのかなと思っています。ギターも練習しましたよ。やっぱり弾いていないと腕が衰えてしまうので。オンライン麻雀ばかりやっている場合じゃないなって思ったんですよね(笑)。

取材・文=黒田隆憲 撮影=村井香

 

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