ヴァイオリニスト・石上真由子「一生に一度、出会えるかどうかの瞬間を作っている」 自身がプロデュースするコンサート・シリーズを語る
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石上真由子
石上真由子は、いま最も旬なヴァイオリニストだ。高校二年生のときに日本音楽コンクールで第2位を受賞した。大学は医科大学へ進学。現在は、多彩な演奏活動を展開し、みずからコンサート・シリーズ「Ensemble Amoibe(アンサンブル・アモイべ)」もプロデュースしている。
2021年11月1日(月)に、東京の浜離宮朝日ホールでアンサンブル・アモイべのシリーズが行われ、“Sextet(六重奏)”をテーマに、シェーンベルク「浄夜」とブラームス「弦楽六重奏曲 第1番」を演奏する。
――11月の浜離宮での公演は、六重奏によるプログラムです。
2年前、このメンバーで同じプログラムを東京でやっています。その時は、私がどうしてもシェーンベルクの「浄夜」をやりたくて、素晴らしいメンバーが集まり、そのプログラムを実現することができました。コンサートの後に「人生で一番良かったかもしれない」と、ヴィオラの大山平一郎さんが言ってくださったことは、自分の心の中に残っています。
大阪でもこのプログラムをやりたいとみなさんにお願いして、この秋コンサートができることになり、東京でも再び開催することになりました。
――「浄夜」のどんなところがお好きですか?
私のことをよく知っている人たちのなかには、自分の思っているような音楽性を発揮できるのは、ロマン派の音楽だと言ってくださる方がとても多いのです。シェーンベルクの「浄夜」やブラームスの「弦楽六重奏曲 第1番」は、自分にとっての表現という意味でも、自分の音楽を受容する私という意味でも、とても共鳴するところが多く、自分の感性に刺さるのです。
石上真由子
――「浄夜」を聴いていると、森のざわめきのような表現など、細やかな弦楽器の動きが印象的です。
「浄夜」については、メロディから離れて、標題音楽のコアな部分を突いていると思っています。風景描写のようなものを、もっと効果音的な音楽……効果音そのものではないけれど、耳触りの良いメロディではないもの、がいっぱい出てきます。それによって、音楽の奥行きが深められているのが「浄夜」のすごいところ。それでいて、まったく異質なものには聞こえないのです。
――「浄夜」はデーメルの詩にもとづいた音楽ですね。
楽譜を弾いていて、デーメルの詩も読み込む時、詩と音楽を結びつけ、自分の人生を結びつけ、そして音楽と自分を結びつけて考えた時、とても共感する部分、自分の感性に合うところが多いと感じています。
――シェーンベルクは、ブラームスに影響を受けている作曲家ですが、このカップリングはやはりそこから?
そうですね。シェーンベルクは、ブラームスの作品に愛着をもっていました。そのシェーンベルクにも敬意を示して、ブラームスのゼクステット(弦楽六重奏曲)を選びました。特に、ふたりの若い頃……比較的初期の作品ということで、第1番を選んでいます。
「浄夜」のモティーフも、ブラームスのこの六重奏曲に由来しているのではないかと思うところもたくさんあるのです。
――もしも、シェーンベルクがこの世に存在したら、何を彼に訊ねてみたいですか?
シェーンベルクの、調性のある「浄夜」のような初期の作品は、とてもロマンティックだと思います。調性を失って、十二音技法をはじめた頃の方がもっとロマンティックで、メロディックです。それは、十二音技法というルールのなかで作られたもので、本当は彼の100%の意志でもって書いたメロディではない。なのに、もっとメロディックだと思えるのです。なぜ自分がそのように感じてしまうのかを、一緒に話してみたいですね。
石上真由子
――ブラームスの「弦楽六重奏曲 第1番」ですが、石上さんにとって思い入れのある作品だとうかがっています。
初めてこの曲を弾いたのは、今回ご一緒する大山さんの室内楽の講習会に参加したときで、大山さんと中恵菜さんと一緒に弾きました。「弦楽六重奏曲 第1番」は、ヴィオラのこの二人の組み合わせでしか弾いたことがないのです。
それまでは、あまりブラームスに深く取り組んだことがなく、ブラームスの精神性に到達していないと感じながらこの曲を弾いていました。でも、大山さんと一緒に演奏したことで、腑に落ちたところがたくさんありました。
――第2楽章が聴きどころかなと思うのです。
私が思うに、シェーンベルクは、この第2楽章からインスピレーションを受けたのでは、と思うところがたくさんあります。最初の鐘の音などがそうですね。メロディというのではなく、その曲のある部分、シェーンベルクと通じるところがあるのです。
――ブラームスの音楽は、以前から演奏していらっしゃいますね。
好きなんです。すごく好きなんですけれど、モーツァルトと同じく、手を出したいけれどなかなか出せなくて。自分の人生が、まだブラームスの音楽に追いついていないと感じていたのです。でも、ようやく今になって弾けるような気がしています。とてもピュアなのですが、もっと人間的な大きさも感じます。
例えば、高校生レヴェルでの恋愛とか「好き」という感情では弾けないと思うんです。めちゃめちゃ好き合っているカップルが、お互いの好きな食べ物も嫌いな食べ物もわかっているのに別れる……そういうのが理解できないようなうちは絶対に弾けない。自分の体験ではないけれど、「そういうことってあるよね」と思える年齢になってきたから弾けますけれど、それもわからない段階では弾けなかったと思います。
――ある意味、ブラームスの音楽の入り口に立ったと?
そうですね。ブラームスの作品って、どの時期の作品に取り組んでも、心のカロリーを消費するような……そして弾くときには体力的にも消耗します。やはり、心が追いつかない。ブラームスを弾くとき、気持ちが空回りすることが多いのです。もう少し落ち着かないといけないなと、いつも思います。
石上真由子
――ところで、石上さんはアンサンブル・アモイべを立ち上げて、この7月で50回目のコンサートを迎えました。
このコンサートを月に1~3回をやっています。大きな規模ではないですが、3年半続けてきました。
――これまでのプログラムを見ているだけで、とても楽しそうな雰囲気が伝わってきますね。
もちろんです! 自分のやりたいことをやっているので。じっくりとリハーサルをして、納得のいくまでディスカッションして、ある程度の確信をもってコンサートに臨む機会が減ってきています。みんなで納得いくまでやって、本番へ持っていく場を作りたいと思っていましたし、それを楽しみにしてくれる共演者も多いので、これからも大事にしていきたいと思っています。年齢など関係なく、みなさんがフラットに意見を言い合いながらできるような場になればいいなと思っています。
――読者の皆様に、演奏会への意気込みをお願いします。
前回、東京で同じプログラムをやったときは、あっという間に
演奏するごとに、私たちにとっては「あ、ここ良かった」と思う瞬間もまったく違います。人数が増えれば増えるほど、みんながその時に良いダシを出すところも違うので、その瞬間を逃さないでほしいと思っています。一生に一度、出会えるか出会えないかという瞬間を私たちは作っているのです。
石上真由子
取材・文=道下京子 撮影=荒川潤