市川弘太郎から二代目市川青虎へ。3月歌舞伎座『新・三国志』諸葛孔明役で襲名披露【歌舞伎座『新・三国志』集中連載1】
市川弘太郎、改め二代目市川青虎
市川弘太郎が、二代目市川青虎(せいこ)を襲名する。2022年3月3日に開幕する『三月大歌舞伎』の、第一部『新・三国志』が披露演目となる。会場は歌舞伎座。
23年前の1999年4月、新橋演舞場でスーパー歌舞伎『新・三国志』が初演された。市川猿翁(当時、三代目猿之助)が演出・主演し人気を博し、続編の『新・三国志Ⅱ』と『新・三国志Ⅲ 完結編』を含めると、2004年まで続く異例のロングランシリーズとなった。
今回の『新・三国志』は、猿翁がスーパーバイザー、四代目市川猿之助の演出・主演、横内謙介の脚本・演出により、歌舞伎座での上演にむけて新たに構成されたもの。
開幕を前に弘太郎は、猿之助、市川中車、市川笑也とともにスチール撮影にのぞんだ。
「猿之助さんの関羽、中車さんの張飛、笑也さんの劉備。この3人の人間性や志にシンパシーを感じ、3人を助けるべく、諸葛孔明は生涯をかけます。今日の撮影で皆さんの温かさを感じ、孔明もこのような感じだったのでは、と思いました。劉備役に、初演と変わらない笑也さんがいてくださることも心地良いですね」(弘太郎。以下、同じ)
『新・三国志』への意気込み、二代目市川青虎襲名への思いを弘太郎に聞いた。
■新しい市川青虎を作っていけたら
「青虎」という名前は、もとは二代目市川小太夫の俳号。門下の市川小金吾が歌舞伎俳優の名前として初代を名乗った。
「今年は先代の青虎さんの十七回忌とのこと、ご家族にご挨拶に伺い一緒にお墓参りをさせていただきました。青虎の名前はこのまま終わると思っていたから、探し出し、継いでくれて嬉しいと言ってくださいました」
まずは黒紋付で撮影を。
ご家族からは、初代が所有していた浴衣、化粧道具の薬味箱、座布団、小太夫から受け継がれた『青虎』の落款などを託されたという。
「さすがに落款は、レプリカを作って本物はお返ししますと申し出ましたが、ぜひ持っていてほしいと。お名前をお許しいただくだけでもありがたいのに!」
お墓参りした日は、その月で唯一の雨模様。
「奥様とご長男は『お父さんらしい、雨男だったから』と笑っていらしたのですが、実はその前日に、僕も『明日は雨の予報ですね。さすが弘太郎くんは雨男だから』と言われていたんです(笑)」
「初代は関西を拠点にされた方です。関西での歌舞伎興行が苦しい時期に、澤瀉屋に身をおきながら、歌舞伎以外の商業演劇などで青虎を名のり舞台に立たれました。様々な思いもおありだったでしょう。皆さんから伺うお話が血となり肉となり、新しい青虎を作っていけたらと思います」
■雪輪に立澤瀉から四つ澤瀉へ
弘太郎の初舞台は、1993年の10歳のとき。1995年7月に猿翁の部屋子となり、市川弘太郎を名のる。「弘太郎」は本名だ。
「師匠の猿翁には7人の部屋子がいて僕が7番目。一番年が近い先輩は春猿(現・河合雪之丞)さんで、ひと回り以上離れています。先輩方は、師匠がお元気なうちに幹部に昇進されました。師匠が脳梗塞でお倒れになった時(2003年11月)、僕はまだ19歳。そのまま30歳を過ぎ、師匠も先輩も気にかけてくださっていたんです」
名前を変えようという話は、コロナ禍前からあったという。「人づてに聞いたのですが」と弘太郎。
「師匠は人に頼んで猿之助さん宛に手紙を書き、僕の襲名を頼んでくださったそうです。猿之助さんは澤瀉屋にある名前を調べ、検討してくださいました。名前を継ぐには各所のお許しがないといけません。また、猿之助さんは『変えるなら、良い名前でないと意味がない』とも。そして昨年7月頃、『良い名前を見つけたんだけれど、ちょっと考えてみて』とご提案くださったのが『青虎』でした。とても素敵な名前だと思いました」
2022年3月の歌舞伎座第一部『新・三国志』が披露演目となる。
「名前が決まってからは早かったです。澤瀉屋の皆が揃う演目で、お披露目ができるよう考えてくださいました。猿之助さんだけでなく、中車さんや澤瀉屋の皆さんからも、できることはないかと本当に温かい言葉をいただきました」
名前とともに、紋も「雪輪に立澤瀉」から「四つ澤瀉」へ変わる。
四つ澤瀉があしらわれた黒紋付で。
「師匠も猿之助さんも合理主義。紋付や暖簾をはじめ全てを変える必要が出てくるので、紋はそのままでもいいとお考えだろうと思っていたんです。でも、おふたり揃って『変えたほうがいいと思う』と言ってくださって」
■愛された人格者として諸葛孔明を演じたい
「『新・三国志』の台本はこれからですが、横内さんのお書きになる台詞は、いつもとても美しいです。僕も楽しみにしていますので、皆さんにもご注目いただきたいです」
弘太郎が勤めるのは、諸葛孔明。劉備が率いる蜀の国の軍師だ。
「孔明と聞くと、稀代の天才軍師をイメージされる方が多いと思います。たしかに頭が切れる戦の天才。でも初演の印象や自分でも調べるうちに、戦略家である以上に、忠義の人だと感じるようになりました」
劉備は、若くして有能な孔明のもとを自ら訪ね、礼を尽くして軍師として迎える。「三顧の礼」とよばれるエピソードで、初演でも大切な場面として描かれた。
「孔明が『三顧の礼』に心を動かされたのは、孔明自身も礼節を重んじていたからではないでしょうか。上の立場の人への愛情と尊敬があるから、信頼されて任される。下の立場の人たちを信頼しているから、慕われて皆が動く。プロ野球でいうなら、オーナーや監督と選手の間に入って繋ぐヘッドコーチの立ち位置。民を思う蜀の国の要となり、民に礼節をもって接し、皆に愛された人格者。そうありたいという理想も重ねて演じたいです」
■一所懸命だけはなんとかなる
スーパー歌舞伎『新・三国志』が初演された頃、弘太郎は中学生だった。
「当時は、お芝居をいつも客席の後ろから観させていただいていました。でも『新・三国志』の月は『空き席がまるでなくて』と、なかなか観られなかったことを覚えています。パート2からは稽古に参加しました。師匠が演出席から全体を見る間、師匠の代役に右團次さんが、右團次さんの代役に僕が入って。パート3には参加しました」
その頃の思い出をたずねると、意外にも渋い顔で「夏休みがねぇ……」と苦笑いする弘太郎。当時、澤瀉屋一門は、毎年夏に軽井沢にあった猿翁の自宅兼稽古場で合宿をしていた。
「13歳から22歳まで、青春時代の夏は毎年稽古合宿だったんです。朝から深夜まで毎日お稽古。師匠や先輩方は、食事中も芝居の話をされるのですが、まだ分からない話も多くて。東京の同級生は部活や遊びで夏を満喫しているのに、僕はコンビニへ行くのも徒歩1時間……! 夏が終わるのが待ち遠しかったです(笑)。今となっては、あれほど贅沢な時間はありませんでした。20数年たった今になって、師匠や先輩の言葉をふと思い出し、そういうことかと理解したりします」
弘太郎の気持ちを支える、猿翁の言葉がある。
「『役者は上手いか、きれいか、一所懸命か。3つのうち、どれか1つあれば何とかなる。自分は上手くも綺麗でもないから、とにかく一所懸命にやってきた。一所懸命だけは自分でなんとかなる。自分にそう言い聞かせている』と。師匠が60歳くらいで、僕が高校生の頃です。これほど活躍されながら、この年齢でもそんな思いで役者をされていると知り、自分もがんばらなくてはと思いました」
■青虎の名前で、澤瀉屋というチームで
2003年11月に、猿翁が脳梗塞で倒れた。その時点で3年先まで興行は決まっていた。
「師匠の監督のもと、予定していた舞台を残された一門で続けました。それが途切れたのが、ちょうど僕が大学を卒業する春でした。僕は子役の頃から澤瀉屋の中だけにいたので、他の一門の方々にほとんど存在を知られていなかったと思うんです。役者を使う側からしたら、知らない役者は使えませんよね。自分は歌舞伎役者を続けていけるのか、フェードアウトしてしまうのか。不安を感じながら過ごしました。不安な時って、歌舞伎とまっすぐ向き合うことにも不安になるんですよね。そんな自分が嫌で、正直辛い時期でした」
乗り越えたきっかけを問うと、少し考え「だんだんとですね、多分」と答える弘太郎。
「大学卒業の月は、坂東玉三郎さんの公演(国立劇場小劇場『蓮絲恋慕曼荼羅』)に出させていただきました。翌月から仕事がない僕に、『来月からどうするの?』と声をかけてくださり、ご自身の公演に呼んでくださるようになりました。その舞台をきっかけに、市川海老蔵さんや他の方も使ってくださるようになりました。皆さんが『猿之助さんのとこの子たちはどうするんだ?』と気にかけてくださり、師匠が皆さんに『頼みます』と言ってくださったおかげです。一門の先輩方が『その月は弘太郎が出られます。自分たちが責任をもって面倒をみますので』と、一緒に呼んでくださったおかげでもあります。少しずつ経験を積んで、見えてくるものがありました」
30歳を前に、年間を通して舞台に立てるようになった。2012年に三代目猿之助が二代目猿翁、市川亀治郎が四代目猿之助となり、市川中車、市川團子が歌舞伎界に加わる。
「コロナ禍は『いつものメンバーで芝居をする』という、僕らにとっての"当たり前"を奪いました。それは、澤瀉屋というチームで芝居をする幸せに、気づかされるきっかけになりました。歌舞伎の家の子ではない僕を、師匠は部屋子として厳しくも見放すことなく見守ってくださっています。“猿翁の部屋子であること”に守られてきました。師匠が思い描き、成し遂げたことは本当に大きなこと。それを今は猿之助さんが受け継いで、師匠の一門、段四郎さんの一門、ご自分のお弟子さんを率いて体現してくださっています」
「歌舞伎座でやった『日蓮』(2021年6月)は、コロナ禍で稽古をするのも難しい中、新しく製作された歌舞伎でした。ひさしぶりに皆が舞台に集まった時、澤瀉屋は1人1人に力があり、お互いを認め合っていて、その1人1人を猿之助さんが信じてくださっている。それを強く感じて、やっぱりこのチームでこの人のために、自分の力を発揮していきたいと思っていました」
■あの頃、客席の弘太郎少年は
世界的なパンデミックは続いている。弘太郎は、2020年に『不易流行』というプロジェクトを立ち上げ、公演やトークライブのオンライン配信を行い、2021年8月には自主公演『不易流行 遅ればせながら、市川弘太郎の会』を開催。
「WEBアンケートをしたところ、いつも出演している劇場から遠く離れた富山、新潟、佐賀、北海道などからも、お声が届いたんです。お客様は全国にいらっしゃるんですね。これまで、時間とお金と労力をかけて足を運んでくださっていたということですよね。いかに多くの方々に支えられてきたか。遡れば芸能は、天下泰平、五穀豊穣への祈りにつながります。応援してくださる方々のために、どんな気持ちで舞台を勤めるべきかをあらためて考えています」
弘太郎の名前で立った最後の舞台は、2022年1月の歌舞伎座『義経千本桜』「川連法眼館の場」、通称「四の切」だった。
歌舞伎座『義経千本桜 川連法眼館の場』亀井六郎=市川弘太郎ⓒ松竹
弘太郎の名前では最後の舞台の日、四代目猿之助と(市川弘太郎オフィシャルブログより)
「『四の切』の亀井六郎をやらせていただきました。ふと思うんです。あの頃、客席に座っていた弘太郎少年だって、ここまでやれると思ってた? って。いつか自分も……とさえ思わずに観ていた気がします。そのお芝居に、しかも歌舞伎座で出させていただいているんですから、これほどの幸せはありません。今後挑戦したいことはいくらでもありますが、それは、この先僕が何かをした時に『これをやりたかったんだね』と思っていただけたら嬉しいです」
取材を終えて「大変な時期ですががんばってください」と伝えると、「自粛自粛で大変な時期と言われますが、軽井沢の夏を思えば全っ然! あとは皆揃って千穐楽まで走り抜けられたら」と笑顔がかえってきた。『新・三国志』は、2022年3月3日(木)~28日(月)まで歌舞伎座『三月大歌舞伎』の第一部での上演。
『新・三国志』(左から)諸葛孔明=市川弘太郎改め市川青虎、張飛=市川中車、関羽=市川猿之助、劉備=市川笑也(撮影:渞忠之)
猿之助の発案により、急きょ孔明の姿で口上風の写真を撮ることに。
「うち(澤瀉屋)らしい!」と猿之助、「本当にうれしいです!」と弘太郎。(撮影:渞忠之)
※「澤瀉屋」の「瀉」のつくりは、正しくは「わかんむり」です。
取材・文・撮影(クレジット記載のないもの):塚田史香
公演情報
■会場:歌舞伎座
横内謙介 脚本・演出
市川猿之助 演出
市川猿翁 スーパーバイザー
三代猿之助四十八撰の内
新・三国志(しんさんごくし)
関羽篇
市川猿之助宙乗り相勤め申し候
劉備:市川笑也
香溪:尾上右近
孫権:中村福之助
関平:市川團子
諸葛孔明:市川弘太郎改め市川青虎
華佗:市川寿猿
司馬懿:市川笑三郎
陸遜:市川猿弥
黄忠: 石橋正次
曹操:浅野和之
呉国太:市川門之助
張飛:市川中車
天衣紛上野初花
一、河内山(こうちやま)
質見世より玄関先まで
松江出雲守:中村鴈治郎
宮崎数馬:市川高麗蔵
腰元浪路:片岡千之助
番頭伝右衛門:片岡松之助
北村大膳:中村吉之丞
米村伴吾:澤村宗之助
黒沢要:中村亀鶴
大橋伊織:坂東亀蔵
和泉屋清兵衛:河原崎権十郎
後家おまき:坂東秀調
高木小左衛門:中村歌六
政五郎女房おたつ:中村時蔵
左官梅吉:河原崎権十郎
錺屋金太:坂東彦三郎
酒屋小僧:寺嶋眞秀
桶屋吉五郎:市村橘太郎
大家長兵衛:市川團蔵
金貸おかね:中村東蔵
大工勘太郎:市川左團次
一、信州川中島合戦(しんしゅうかわなかじまかっせん)
輝虎配膳
お勝:中村雀右衛門
直江山城守:松本幸四郎
唐衣:片岡孝太郎
越路:中村魁春
戸部銀作 補綴
増補双級巴
二、石川五右衛門(いしかわごえもん)
松本幸四郎宙乗りにてつづら抜け相勤め申し候
三好長慶:中村松江
三好国長:中村歌昇
左忠太:大谷廣太郎
右平次:中村鷹之資
佐々木秀経:中村玉太郎
細川和氏:市川男寅
仁木頼秋:市村竹松
次左衛門:松本錦吾
呉羽中納言:大谷桂三
此下久吉:中村錦之助