自分と向き合い、対話する。唯一無二の「音」の魅力を次世代へ 角野隼斗 × ピティナ「アップライトピアノ・プロジェクト」始動
アップライトピアノに、あなたはどんなイメージをお持ちだろうか?
1800年、ジョン・アイザック・ホーキンズが製作した直立(upright)ピアノ。グランドピアノに比べて場所をとらないという利点から、19世紀ヨーロッパで広く普及し、日本のピアノ学習者にもおなじみの楽器だ。身近な存在に思えるかもしれないが、フレデリック・ショパンやクロード・ドビュッシーを筆頭に、アップライトの「音」を愛したアーティストは多い。
そんな「音」の魅力を次世代へつなぐ、画期的なプロジェクトが始まる。発案者はピアニスト、角野隼斗(Cateen)。アップライトとともに巡った全国ツアー2023 “reimagine”の興奮も冷めやらぬ3月の終わり、記者会見の席で「角野隼斗 アップライトピアノ・プロジェクト~Piano for Myself~」への思いを聞いた(3月31日、スタインウェイ&サンズ東京)。
全国ツアー2023 “reimagine”より
会場には、角野の愛器「スタインウェイ K型」。ハンマーと弦の間にフェルト布が設置されていることで、まろやかで内省的な音が響く特別仕様だ。屋根が開き、上前板を取った剝き出しの姿で設置されたアップライトの側板には、全国ツアー千秋楽のカーテンコールで角野が記したサインが輝いている。
角野と全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)の福田成康専務理事が傍らに着席すると、さっそくプロジェクトの概要が説明された。「子どもたちに音楽をつなぐ」というコンセプトに賛同する全国の企業や団体、個人へ向けて、「かてぃんピアノ」と名づけた前述のアップライトを貸し出すというもの。「角野隼斗とともに全国をまわったピアノが、あなたの街へ」。分かち合うことを実践し続ける角野らしいアイデアに、思わず笑みがこぼれる。
2022年の全国ツアー“Chopin, Gershwin and…”を皮切りに、数多くのライブでアップライトを演奏し、その魅力を発信し続ける角野だが、そもそもなぜアップライトを使うようになったのだろう。理由として彼は、パリでの衝撃的な出会いを語った。
「2年以上前、パリでハニャ・ラニという作曲家のライブに飛び入り演奏させてもらったとき、カスタムされたアップライトに初めて触ったんです。ポストクラシカルの世界では、かなり前からピアノにフェルトをかませ、ぼやけた音で幻想的な雰囲気を作る演奏が流行っていたのですが、はじめて弾いたその音の、経験したことのない美しさが心に残って。帰国後すぐにアップライトを買いに行き、調律師さんと試行錯誤しながら音を作っていきました」
その魅力を彼は、「ピアノと自分自身、2人きりで対話をしているような音色を奏でられる」点だと語る。
「たとえばグランドピアノだと、音を大きく遠くまで飛ばすために感覚も外側に向かうんですけど、アップライトピアノ――特にフェルトをかませたアップライトでは、狭い部屋の片隅で自分だけのために奏でるような、内省的な感覚になる。懐かしさや、やさしさで包まれるような、グランドピアノとは全く違う魅力があるんです。ツアーではその魅力を伝えたくて、わずかな打鍵の音を拾うためにピアノの内部にマイクをセットするなど工夫したのですが、それをたくさんの方が受け止めてくれました。3月10日にツアーが終わり、このアップライトの音の魅力、“自分のためだけにピアノを弾く”という経験をもっと広めたいと思いました。プロジェクトにすることで、グランドピアノの代替品と捉えられがちなアップライトのイメージも、変えられるんじゃないかなって」
プロジェクトをどうやって進めようかと考えたとき、脳裏に自然と浮かんだのが、4歳から馴染んできたピティナだった。2018年、東京大学大学院在学中に受賞したピティナピアノコンペティション特級グランプリが、演奏家としての第一歩でもある。「音楽がつなげる豊かな人生」をビジョンに活動するピティナは、音楽の楽しさをどう伝えるかを考える上で、角野の同志のような存在。ピティナの返答はもちろん快諾だった。
「具体的にピアノをどう活用してもらうかについては、皆さんから募りたいと思っています。ストリートピアノが流行って久しいですが、普通のストリートピアノのようにはしたくない。大きな音量ではないこのピアノ、この音ならではの魅力を感じてもらえたら」
そう語った角野は、アンコールピースとしても人気を博した〈ダニーボーイ〉を披露した。旅立つ子を思うアイルランドの歌が、そのミニマルな響きとあいまって心に染入る。続く質疑応答では、アップライトで弾く曲を選ぶポイントについて語った。
「この曲はアップライトの音で聴きたい、と思うときがあるんです。自分の〈追憶〉もそうですが、ショパンのマズルカやノクターンは、自分自身と対話するために作られた音楽だと感じます。音楽が作曲家の内面に向かっているような曲を弾くとき、アップライトの音がしっくりくることが多い。弾く場所はあまり騒がしくないところが望ましいとは思いますが、ある程度の環境音はスパイスになるかもしれません」
小編成の室内楽的なストリングスや、囁くような歌声にも合うのではないかという角野の言葉に、イメージが広がっていく。ポストクラシカルの旗手ヴィキングル・オラフソンやハニャ・ラニからの影響も語り、シンセサイザーなどと重ねたアンビエントミュージックの可能性も示した。
クラシックを軸足にジャンルを横断する角野の試みは、ピアノという楽器の可能性を広げていく。角野の言葉に、福田専務理事も大きく頷いた。
「たとえばサッカー業界には、子どもたちが選手に憧れ、憧れが練習の原動力になるという仕組みがありますよね。ピアノにはまだ、その仕組みがない。練習させられていると感じる子どもたちも多いので、憧れの存在が必要だと思っていました。じゃあ誰が未来の流れを作っていくのかと考えたとき、角野さんはど真ん中。この人の後ろに道ができるはずです」
角野は子どもに限らず、たとえば施設で暮らすお年寄りに内省的に弾いてもらえたら素敵だと笑う。
「ただ、5年後や10年後に“第二、第三のかてぃん”が出てきてくれたらという願いはずっと思っているので、子どもたちに僕が楽しいと思っている音楽を伝えたい。日頃アップライトで練習している日本中の子どもたちに、アップライトにはアップライトの魅力があるんだよと気づかせてあげるような存在になったら嬉しいです」
自分自身と対話する演奏体験。このプロジェクトが、従来の「ピアノ」からこぼれ落ちてしまうたくさんの音楽愛を育むよう、願ってやまない。
文=高野麻衣 写真=Ryuya Amao
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