台湾から世界へ 2015年のTIFA(台湾国際芸術節)から── 藤井慎太郎
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Ensemble Palermo Palermo photo by Laurent Philippe
台北では、旧正月の休暇が終わるとともに、国立劇場の4つのホールを会場として、大きなフェスティバル(台湾国際芸術節、TIFA: Taiwan International Festival of Arts)が始まる。今年のTIFA参加作品の中で私が立ち会うことができた5作品についてこれから論じるにあたって、台湾の舞台芸術環境とその大きな変化、その中でのフェスティバルの位置づけと特色について、まずはふれておきたい。
TIFAを取り巻く台湾の環境
TIFAは、台北にある国立劇場(より正確には「国家表演芸術中心」、National Performing Arts Center)が主催し、同劇場を会場として、2009年から開催されているフェスティバルである。国家表演芸術中心は、2074席のコンサートホールと363席のリサイタル・ホールを擁するコンサートホール棟(「国家音楽庁」)と1526席の大劇場と180〜242席の実験劇場がある劇場棟(「国家戯劇院」)から構成され、合わせて「国家両庁院」と呼ばれ、200人以上のスタッフが勤務している。両棟は広大な公園の中に、蒋介石を記念した中正記念堂(台湾では蒋介石は蒋中正として知られる)に隣接して、向かい合って建っている。両者の間の広場もまた大規模なイベントに常時用いられており、太極拳やダンスに興じる人々とともに、劇場周辺にはつねに大勢の人間が集い、日本の国立劇場の周囲には感じられない活気がある。
国立劇場は、かつては国(中華民国政府)の直営であったのが、2003年に日本の独立行政法人にも似た法人格(「行政法人」)を与えられた。政府補助金は年々減額傾向にあるといい、今日では予算の4割を自己収入(入場料、貸館、物販、売店・レストランなどの空間の賃貸、駐車場…)で賄っている一方、運営の自由度は大きく高まったという。TIFAはこの国立劇場が自らの自主事業の一環として主催するものである。したがって会場費や人件費を含めずに200万米ドル(2億4千万円前後)の事業予算が確保できているというだけあって、世界的な大物をそろえた演目はきわめて充実している。
国家表演芸術中心は、台中市にあって伊藤豊雄の設計による曲線・曲面を生かした建築がすでに話題となっているメトロポリタン・オペラ・ハウス(台中国家歌劇院、現在はプレオープン中、2016年に正式オープン予定)、高雄市の旧陸軍基地の敷地にあってオランダ人建築家フランシーヌ・ハウベン設計のこれまた近未来的な建築が際立つアーツ・センター(衛武営国家芸術文化中心、こちらも2016年に開館予定)も運営することになっている。
台北市政府もまた、中央政府の向こうを張るかのように、2015年で第17回となるフェスティバル(台北芸術節、8月を中心)を主催しているほか、レム・コールハースのOMAが設計した舞台芸術の拠点(台北芸術中心、Taipei Performing Arts Center、2015年竣工予定)を建設中である。今年から来年にかけて、建築だけでも見に行く価値が大いにあるこれらの劇場が、一斉に正式オープンを迎えることになる。
台湾ではこうして舞台芸術のインフラストラクチャーが急速に整いつつあるのだが、それはハコモノに限られない。1981年に発足していた台湾(中華民国)政府の文化建設委員会が改組されて、2013年5月に文化部(「部」は日本の「省」に相当する)が発足していることも特筆される。文化部の創設は2008年の選挙によって台湾総統に就任した馬英九の選挙公約であったという。まだ発足したばかりであってその成果が問われるのはこれからであるが、文化省設立へ向けた動きがなかなか実を結ばない日本の一、二歩先を行っているのは確かであろう。
TIFAとそのプログラム
今回、私が実際に劇場で見ることができた作品はピナ・バウシュ『パレルモ、パレルモ』、ローザス『ローザス・ダンス・ローザス』および『ドラミング』、1927『ゴーレム』、裴艷玲(ペイ・ヤンリン)『尋源問道 Arts of Chinese Traditional Opera』の5作品であった。このほかにもアンヌ・ファン・デン・ブルック『The Red Piece』、流山児★事務所『義賊☆鼠小僧次郎吉』、身体気象館『Wall of Fog』、ホテル・プロ・フォルマ『War Sum Up: Music.Manga.Machine』、蜷川幸雄『ハムレット』など、音楽の催しまで含めて全部で17の演目が組まれている。
フェスティバルが委嘱する新作は多くはないが、第一級と目される国外のアーティストの代表作を多く招聘していることが注目される。3月が台湾では舞台芸術のローシーズンにあたること、また民間のプロモーターがリスクの少ない、保守的な傾向を見せていることもあって、国立劇場ではよりリスクを背負った現代の作品に特化しているとのことであった。だが、私が見た5本の作品の中に観客を落胆させるものは1本もなかったように、慎重に注意深く演目が選ばれていることが感じられる。同時に、コンサートホールの専属楽団であるNSO(「国家交響楽団」)を起用したクラシック音楽の演目も相当部分を占めているように、ジャンル間、地域間のバランスにもかなり気を遣っているようである。こうしたプログラムのあり方は、観客からも大きな支持を集めているようである。入場料は最も高額な券種でピナ・バウシュや蜷川幸雄が3600元(1元=3.8円として14000円前後)、ローザスが2500元(9500円前後)、裴艷玲が1600元(6000円前後)、小劇場は均一料金で800元(3000円前後)であって、民間よりは格安だというものの、東京と比べても決して低い水準ではない。さらに、台北都市圏の人口は約700万人と言われ、3000万人を超える東京都市圏にははるかに及ばないのだが、近年は95%前後の有料入場率を誇り、毎年多くの演目でソールドアウトが相次いでいることは特筆できよう。
ピナ・バウシュ『パレルモ、パレルモ』
『パレルモ、パレルモ』(初演1989年)はピナ・バウシュの代表作のひとつに数えられることの多い作品であり、日本でも2008年に上演されている。1500席のいささか広すぎる大劇場で、休憩を含めると前後半合わせて3時間ほどになる長い作品であったが、前売が完売したというだけあって、観客はきわめて集中していた。
他のほとんどのバウシュ作品と同様、『パレルモ、パレルモ』も短い断片から構成され、その諸断片には一貫性や相互関連性をあまり読みとれないようになっている。だが、それでも作品を貫く大きなドラマトゥルギーを読みとることは可能であるように思われる。作品の冒頭において、舞台前面を覆っていた巨大なブロック壁が地響きのような轟音を立て、相当な粉塵を巻き起こして崩れる(その瞬間に私の隣の若い男性がさっとマスクを取り出してかけたのが印象に残っている)。こうして、舞台と客席を隔てる「第四の壁」を文字通りに物質化した上で、崩壊させるのだ、と筆者は理解した。とはいっても舞台と客席の間の見えない壁は見えない壁として残るのだが、舞台芸術を成り立たせる虚構と現実の二重性、その境界線を意識的に探る側面がより際立った(粉塵はイリュージョンではなく本物なのだ)。作品の最後に、腕を組んで横一列に並んだダンサーたちが、絶妙なバランスをとりながら、頭に乗せた林檎が落ちないように、ゆらゆらと踊ってみせる。この「無駄な努力」、どうということはない無償の目的ないし結果(達成されたときに目的は結果に転じる)とそれに賭ける労力の甚大さとの間の不均衡が、冒頭の場面と同じように現代芸術の本質をつき、そしてその無償性ゆえに感動を誘うのだ。さらにいえば、最近のピナ・バウシュの作品すべてに通じることであるのだが、パフォーマンスの「今、ここ」という時間には、もうひとつ別の時間性が付け加わって、感動をより強いものとする。それは、初演時から出演しているダンサーが年老いていくさまを見ては(これは観客の私が年老いていくことと同義である)、あと何年、これらの作品を見続けることができるのかと考える(ヴッパタール市はバウシュの死後すぐに、舞踊団への支援の打ち切りを示唆して国際的に大きな問題になった)、というせつなくも人間的な問いに関わる時間の問題である。
裴艷玲(ペイ・ヤンリン)『尋源問道』
現在、河北省京劇芸術研究院を率いる裴艷玲は、1980年代からアリアーヌ・ムヌーシュキンが率いる太陽劇団において定期的にワークショップの講師として招かれているように、中国語圏だけでなく、ヨーロッパにおいても評価の高い、「人間国宝」とされる名女優である。リサイタル・ホールで上演された本作品は、狭義の舞台作品というよりレクチャー・パフォーマンスのかたちをとり、20分の休憩を挟んで前半(70分)と後半(60分)の二部構成となっている。前半は、カツラも化粧もつけないまま(カツラのためであろうが、男性のような坊主頭が印象的である)、作務衣のような簡略な衣裳とごくわずかな小道具(剣、鉾、輪)のみを用いて、自ら解説を加えつつ、昆劇の名場面を抜いて上演する趣向となっている。演じる場面と演技について解説しているという以上には、語られる内容については私には分からないものの、その軽妙な語り口にたびたび観客から大歓声が上がる(フンドシのようにも見える帯をつけてある場面を演じた後、ひとしきりその帯をネタにして観客を沸かせていた)。1947年生まれとは思えないアクロバティックな動き、その動きのコントロールの正確さには鳥肌の立つ思いがする。先にバウシュ作品に対する台湾の観客の熱い拍手に感心していたのだが、このときの観客の反応は、熱狂的というより「発狂的」といえるほどで、比較にならなかった。
京劇の部分を見せる後半部分は、より「上演作品」に近づくといえる(とりわけ衣裳、化粧・カツラをつけて演じられた『偸詩』はそうなのだが、同一人物とは思えないほどの変身ぶりである)。だが、それがまるで俳優の道からは遠ざかることを意味するかのように、観客の反応は逆に控えめになるのが興味深い。熱烈なアンコールを受けて、最後の最後にはオペラ歌手も顔負けの熱唱まで聞かせてくれた。日本でも(字幕つきで)ぜひ見てみたいものである。
ローザス『ローザス・ダンス・ローザス』
羅莎舞團《Rosas danst Rosas》
作品は大きく見れば4つ、コーダともいえる最後のパートを加えれば5つのパートから構成される。それはティエリー・ドゥ・メー(振付家・ダンサーのミシェル・アンヌ・ドゥ・メーの兄であり、作曲家であり、『ファーズ』を映像化した映像作家でもある)が作曲した現代音楽の構成に対応したものである。ダンサーが床に横たわってはしばし何もせずに、観客をじっと見据える、いささか挑発的な第一部に始まって(その挑発性においてヤン・ファーブルを思わせる)、11脚の椅子を用いた第二部を経て、ダンサーの動きは次第に大きくなり、舞台空間全体へと広がっていき、はじめはいささか距離を感じていた観客も舞台に惹きつけられずにはいられなくなる。一貫して共通しているのは、4人の女性ダンサーがもともとは比較的単純な動きをときにユニゾンで(4-0)、ときにずらしを加えていく(3-1、2-2、2-1-1、1-1-1-1)、数学的な「組み合わせ」の変化が思いのほか複雑な表情を見せることである(この点は後述する『ドラミング』で眩惑するほどの発展をさらに遂げることになる)。あるいは観客は構成要素の単純性を理解しているだけに一層のこと、生じては増大し、観客の把握を逃れていこうとする複雑性を強く感じとることになるのだ。
ローザス『ドラミング』
『ドラミング』(初演1998年)もまたドゥ・ケースマイケルの代表作に数えられ、2012年に再演されて以来、現在でも上演が続いている作品である(4月には東京芸術劇場でも公演がなされた)。『ファーズ』にも音楽が用いられたスティーヴ・ライヒが1971年に作曲した同名の音楽からタイトルがとられている。ドリス・ヴァン・ノッテンによる軽やかで華やかな衣裳をまとった女性9人、男性3人、計12人のダンサー(全員PARTSの出身だそうである)が出演した。通常は男性4人が出演するが、負傷のために急遽、女性が男性のパートを演じたそうだ。抽象絵画のような大きなパネルを背景に、開場時前から所在なさそうに舞台袖に立つダンサーが、観客を迎え入れる。
60分の上演時間は、音楽の構造に対応して4つのパートに分けられるが、動きは切れ目なく連続している。音楽が反復を続けながら楽器と音色を変え、照明もオレンジを強調しながら色調と表情を変えていくように、動きのフォルムの生成と消滅は繰り返され、ある空間の一点、一人のダンサーに意識を集中させようとしても、すべてが移ろいゆく変化の運動のなかにあって、最後の瞬間まで、ただ一つ巻かれたまま残っていたオレンジのリノリウムが床を滑るように転がっていき、すべてがほどかれたその瞬間に、暗転して幕となる、美しいとしかいいようがない最後の瞬間まで、意識は快くも撹乱され続ける。
この作品の振付の根底にあるのは、黄金比、より専門的に言い換えればフィボナッチ数列(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13…と続き、
1927『ゴーレム』
Golem_Esme Appelton, Will Close, Lillian Henley_copyright_Bernhard Mueller
『ゴーレム』は1927、ザルツブルク音楽祭、パリ市立劇場、ヤング・ヴィック(ロンドン)の四者の共同制作により、2014年にザルツブルクで初演された作品である。200席前後の実験劇場には、背景幕のように大きな白いスクリーンが張られている。そこには部分的に開閉できる開口部が設けられており、スクリーン一杯に投影されるアニメーション映像の中のドアや窓となる。そのほか、俳優が出し入れする4枚の小パネルも用いられる。
5人のパフォーマー、2人のミュージシャンが登場するが、カツラ・衣装、役を頻繁に変えるために実際に何人の出演者がいるのか、知ることは難しい。厚化粧によって生身の俳優は脱現実化して、アニメーションの登場人物に近づく。映像の非物質的、仮想的な現実性が、俳優の身体の現実性を変容させ、不思議な効果を発揮する。
映像の第一の役割は、アニメーションによって、登場人物が置かれた空間(たとえば赤線地帯の怪しげなネオンサインと店舗)を指示し、俳優はその場で駆け足をしているだけなのだが、映像が変化することで登場人物の移動を巧みに表す。映像の第二の役割は、舞台に実在しない登場人物を登場させることであり(それによって少ない俳優でより多くの人物を登場させることが可能にもなる)、タイトルともなっている泥人形のゴーレムがその筆頭に挙げられる。平面的なアニメーション映像の中で、このゴーレムは(おそらく)実写の粘土アニメーションによって造形されているために、立体性と物質的現実性を帯びて背景から浮かび上がってきて、生身の登場人物と対等な存在感を獲得しているところがたいへん興味深い。さらに映像は、スクリーンに設けられた開口部が映像の中の窓やドアと重なり合い、物質的現実(いわゆる現実)と仮想的現実(虚構)の境界線はさらに侵犯され、観客の現実感覚はさらに揺さぶられることになる。
イギリス的とでもいうべきブラックユーモアが満載であることも、この作品が大人にとってもおもしろいものになっている理由の一つである。子ども向けと言ってしまうにはスレスレの内容であり、登場人物の多くは、何事についてもお金本位で行動する資本主義者であったり(行き届いたアフターサービスのおかげで、ゴーレムが故障したり破壊されたりしても、さらに進化した新製品が届けられる)、いかがわしい店ばかりの赤線地帯を舞台としていたり、子どもたちがアンダードッグズというパンク・バンドを結成していたりするなど、至るところにアイロニーが利いている。このアイロニーこそが「距離」の印象、言い換えれば、口にされる言葉は本心からではなく、本意はほかにある、という印象を生み出し、その言外の意味を想像させる側面が、この作品の(すぐれた技巧性を超えた)芸術性を担保していたのだと思う。
最後に
台湾と日本との間に正式な国交がないことも影響しているのだろうが、残念なことに台湾の舞台芸術に関する情報は、韓国ほどにも日本では知られておらず、自ら意識して収集しないことには、私たちは情報を得ることもなかなかできない。TIFAは流山児★事務所と蜷川幸雄の2作品を招聘しているにもかかわらず、日本での知名度はまだ充分ではない(さらにいうなら、ローザスのツアー公演も、台北、ソウル、東京と連続しているようでいて、実はアジアに留まっていたのは舞台美術のみで、ダンサーはその都度ヨーロッパとアジアを往復していたように、最も効率よいスケジュールが組めていたわけではない)。だが、台湾の舞台芸術は急激な変化を経験し、日本にひけをとらない環境を急速に整備しつつある。私たちは隣人の動向にもっと関心(そして敬意)を払うべきだし、現在よりももっと緊密な連携が可能であるように思う。
本稿を執筆するにあたって、台湾国立劇場およびTIFAのプログラム・ディレクターである黃本婷(Pen-Ting Huang)、同広報担当の呂佳音(Nancy Lu)、ローザスの池田扶美代の三氏にご協力を頂いた。記して感謝申し上げる。
追記 ベルギーの舞台芸術界は2014年5月に実施された連邦議会、地方議会の選挙以来、大きく揺れている。フランダース地方では、フランダースの分離独立を目標に掲げ、文化に冷淡なことでも知られる政党N-VA(新フランダース同盟)が第一党になり、選挙結果を受けて新たに組織されたフランダース政府は、芸術団体に対する助成金の一律7.5%カットを決定した。ベルギー連邦政府のレベルでも、2015年からの王立モネ劇場に対する連邦助成金の大幅削減が決定され、追い込まれたモネ劇場は政府に強く抗議するとともに2015年からダンスのプログラムをほぼ全面的にとりやめる方針を発表した。その影響を直接に受けるのはモネ劇場が共同制作に名を連ねてきた振付家ドゥ・ケースマイケルやシディ・ラルビ・シェルカウィである。もっとも、ローザスは160万€(1€=130円として約2億円)、フランダース王立バレエ団の芸術監督に就任することになったシェルカウィは77万€(約1億円)の助成金を毎年受けるなど、きわめて手厚い支援をフランダース政府から受けており、池田扶美代は「ローザスが被る影響は限定的であって、むしろ2番手、3番手のアーティストの方がずっと厳しい状況に置かれるだろう」と話していた。