はじまりはここから…原作映画『リトル・ダンサー』の魅力に迫る~ミュージカル『ビリー・エリオット~リトル・ダンサー~』鑑賞の手引き④(全5回シリーズ)
-
ポスト -
シェア - 送る
映画『リトル・ダンサー』ブルーレイディスクのジャケット (販売元:KADOKAWA / 角川書店)
ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』は、映画を舞台化したミュージカルのなかでも間違いなく最高峰と言える作品だ。原作となったのは、2000年に公開されたイギリス映画『リトル・ダンサー』(原題はミュージカル版と同じく『Billy Elliot』)。そしてこの映画も、映画史上に燦然と輝く傑作である。
この映画とミュージカルを比べてみると、映画、舞台それぞれがもつ表現媒体としての特性・違いがよくわかって、とても面白い。語られるストーリーも作品から受け取れる感動の質も同じなのに、表現のし方や描いているディテールが明確に違うからだ。そこで、ミュージカル『ビリー・エリオット〜リトル・ダンサー〜』のファンに、そしてこれからこのミュージカルを楽しもうという読者に、映画版をより楽しむためのインフォメーションをお届けしたい。(※文中にはネタバレの含まれる部分があります)
脚本家の少年時代を反映した
コミュニティと成長の物語
映画『リトル・ダンサー』は、脚本家リー・ホールによるオリジナルのストーリーだ。舞台は1985年、マーガレット・サッチャー政権下にあるイングランド北東部の炭鉱町。炭鉱労働者の組合がサッチャーの強硬改革に対しストライキで闘争する中、母を亡くした炭鉱夫の次男坊ビリーは「バレエ・ダンサーになる」という夢を抱くようになる。
プロダクション・ノートやメディアのインタビューによれば、この物語は実際にこの時代、イングランド北東部の炭鉱町で少年時代を過ごしたホールの「個人的な体験」を元にしたものだという。ホールはこの時代(1980年代半ば)、政治によって崩壊を余儀なくされた、炭鉱町における労働者階級のコミュニティについて描きたいと思っていた。そこで過ごした自分自身や、周囲の人々についても。彼の場合、周囲から浮いていたのはバレエに取り憑かれたからではなく、詩や演劇といった文学的な創作、自分の物語を映画で語るといった芸術表現を夢みていたことからだった。当時は周囲の理解を得られず、「変なやつだ」と奇異な目で見られているのを感じていたという。やがて夢を叶え、人生の意味を見つけるため奨学金を得てケンブリッジ大学に進んだホールが「自分の旅を映画で視覚的に表現するなら」と考えたとき、彼の頭に突然、バレエを踊る男の子の姿が浮かんだのだった。
そのイメージを膨らませ、ホールはまだ駆け出しのころにこの脚本を書き上げたが、「炭鉱ストの話なんて、バレエを踊る男の子の話なんて誰が見に来る?」と評価されず。何十年も経ってから、ワーキング・タイトルでやっとゴーサインが出る。やはり炭鉱町での希望を描く『フル・モンティ』を手がけた製作会社だ。ホールと同じように炭鉱町で育ったプロデューサーのジョン・フィンは共鳴を感じ、本作の監督に誰がふさわしいか熟考。そのころ名だたる劇場の芸術監督を務め、『インスペクター・コールズ』などで英米の主要な演劇賞をいくつも獲得、「現代演劇の顔」と言われていた演出家、スティーヴン・ダルドリーに白羽の矢を立てた。ダルドリーも同様に炭鉱町出身で、炭鉱ストライキに関わった経歴の持ち主。しかも演出家として脚本家ホールと仕事をした経験があり、その才能を熟知していたのだ。脚本を読むなり「映画を作ったことはないが、これを作りたい!」と惚れ込んだのも頷ける。
ダルドリーが元々演劇人であることから、映画の舞台ミュージカル化は当初から想定されていたのだろうと思う人もいるかもしれない。だが、誰もそんなことは考えていなかったそう。カンヌ国際映画祭でこの映画に大感激したエルトン・ジョンが「ミュージカルにすべきだ!」と言い出したとき、ホールもダルドリーも「そりゃないだろう、突飛なことを思いつくなあ」と思ったのだという。もちろん、エルトンのアイディアと楽曲を聞けば、誰も拒むことなどできなかったわけだが。
北東部の方言とダンス力、
演技力を備えた少年を探せ!
この映画を成功させられるか否か。それは、ビリー役を演じるにふさわしい少年を見つけられるかどうかにかかっていた。「演技ができて、バレエもタップなどのダンスも踊れて、北東部出身でこの地方の訛りをネイティヴとしてしゃべれて、根気強さと集中力と体力が備わっていて、年頃もピッタリな少年」を求め、オーディションで2000人以上の少年たちを根気よく吟味する必要があった。そんな条件に合う子がいるのか? 奇跡は起こった。7回にも及ぶオーディション(最終オーディションは2週間みっちり)をクリアして、当時12歳だったジェイミー・ベルが見いだされたのだ。
ジェイミーは北東部の元炭鉱町、ビリンガム出身。早くに父を亡くし、祖母、母、姉妹、叔母がダンサーという環境で育つ。6歳からタップダンスとバレエを始め、ビリーとの共通点をたくさんもっていた。ビリーの時代からは15年も経っていたのに「バレエなんか女の子のするもんだ。男はサッカーをやってろ」というジェンダー固定概念が横行する故郷。少年ジェイミーは友達にバレエを習っていることを隠し、「男らしく」サッカーをやってからバレエのレッスンに向かうなど、ごまかし作戦を決行しなければならなかった。それでも結局はバレて、「ガーリー・ボーイ」とか「バレリーナ・ボーイ」とからかわれたという。
映画の魅力において大部分をになっているのは、もちろんこのジェイミーだ。彼は演じているというより、ビリーとして生きている。彼の表情、一挙手一投足がビリーを雄弁に物語り、惹きつけずにはおかない。鉄の女首相サッチャーに対して不毛な闘争を続ける労働者たちのコミュニティの中、組合員と警察が日常的に衝突する町の中、母親というかけがえのない存在を失った家庭の中で、ビリーは父と兄に抑えつけられ、祖母の世話を押しつけられ、フラストレーションをため込んでいる。「男らしく育て」とボクシングを習わせる父親に渋々従いながら、ただ文句も言わず運命を受け入れるしかないビリー。そんな彼が、バレエに出会って生き生きと輝きを放つ。踊ることで自分を縛りつけるもろもろから解き放たれ、怒りもやるせなさもすべてをぶつけ、自分を表現する喜びを爆発させるビリーがそこにいる。
ジェンダーの縛りを超えて
手に入れる“自己表現”の力
映画はビリーがさまざまな困難を乗り越えていく姿を描いている。ビリーが生まれからずーっと育ってきた世界は、いまや破壊される寸前のコミュニティ。そこに住む炭鉱夫たち(ビリーの父ジャッキーと兄トニーも)は貧困にあえぎ国家(サッチャー)と闘いながら、自分たちのすべてだった炭鉱にはもう先がないことをどこかでわかっている。自分たちは切り捨てられるのだ、ということも。
さらにビリーの行く手を阻む大きな壁は、この田舎町を支配する「伝統的な男らしさ、女らしさ」という古くてマッチョなジェンダー価値観と、その強要だ。いまでは不適切かつ有害な考えだと知られているが、ジャッキーにとっては「男は男らしくするのが当たり前」であり、それを疑ったこともない。彼に言わせれば、バレエを踊る男なんてものはみんな同性愛者に違いないのである。彼に育てられたビリー自身にもその価値観が染みついているから、バレエを習い始めた当初は居心地の悪さを感じ、ウィルキンソン先生に「バレエなんて女がやるもんだ」と言い放つ。しかしビリーの本質は、ジェンダーへの偏見にまるでとらわれない自由人。彼自身の性的アイデンティティはストレートで迷いがなく、ただ踊りたい、うまくなりたい、それだけ。親友マイケルが女装好きだと知ってもゲイだと告白されても自分に惹かれていると気づいても、ニッコリ受け入れる器と優しさをもっている。
自分がゲイだと自覚し性的アイデンティティに悩むマイケルの存在が描かれていることで、この映画も「ジェンダー問題」をテーマにした作品として語られる傾向があるようだ。特に昨今の「コンプライアンス」重視の世の中では、この問題は際立って見えるだろう。しかし、それはサブテキストに過ぎない。映画の主幹にあるのは「自分を表現したい」と渇望し、ダンスを通してその術を、自分の声を得ていく少年の成長物語である。
バレエで感情を発散することを覚えていくビリー。わからず屋の父に対し、声をあげずにダンスで猛抗議するビリー。バレエ学校オーディションの審査員に「踊っているときはどんな気分?」と聞かれ、たどたどしく不器用ながらも少しずつ、自分を言葉で表現して語るビリー。「自分を表現したい」という渇望には誰もが覚えがあるだけに、バレエによって自己表現力を育てていく彼の姿に思わず目頭が熱くなる。ここは、ミュージカル版では「Electricity」という一大ナンバーへつながり、大クライマックスとなるところ。大興奮を呼ぶ見ものだが、映画版の「リアル」も実に味わい深い。
ビリーによって変化する
大人たちのドラマも深い!
そしてまた、この物語はビリーだけではなく、ビリーによって心を動かされ、変わっていく大人たちのドラマを丁寧に描いている。その点が大きな魅力だ。
ビリーの父ジャッキーは、ビリーが怒りと願いを込めた渾身のダンスによって目を覚まされ、大きく変わる。息子の才能を思い知り、自分の偏見が間違っていたことを悟るのだ。その衝撃は、彼がそれまで当たり前としていたすべてを覆す。古い価値観を手放し、信じてきたものすべてをかなぐり捨てて次男の未来を守ろうとする父の思いに、グッとこない人がいるだろうか? 息子が踊って訴えるダンス表現の説得力に胸打たれ、自らを変えるべく勇気を発揮するジャッキーもまた、人間として成長を見せるのである。
そしてビリーの才能を見いだし、ロイヤル・バレエ学校へと導くことになるウィルキンソン先生。ジュリー・ウォルターズ、名演である。いつも片手にタバコを持ちっぱなしの彼女は聖人とはほど遠いし、センチメンタルな優しさとは無縁。だからこそ、共感を呼ぶ。先生はビリーたち炭鉱夫に比べれば裕福な中流階級の女性だが、夫と自分の人生に失望し、娘のデビーにも母親らしい顔はほぼ見せず、やさぐれていてぶっきらぼう。ビリーに対してまるで子供扱いをせず厳しく接する彼女だが、人間と人間としてのぶつかり合いに、ビリーへの愛情が見え隠れする。ふとしたときに心を触れあわせ、通わせる瞬間が確かに感じられるのだ。あるいはオーディションを前に激しく言い争い、「負け犬だ!」とビリーに言われた先生が思わず殴ってしまった後で、ふたりが見せる心の機微。こういう繊細な感情表現は、映像ならでは。
ミュージカルにはなく映画だけにある見せ場のひとつが、T.Rexの「Love to Boogie」に合わせ、先生が創作したダンスをビリーと満面の笑顔で踊るナンバーだ。これがあるからこそ、合格通知の後やっと別れを告げに来たビリーに怒るでもなく、そっけなく虚無顔で対する先生に泣ける。
ビリーをバレエ学校へ入るよう仕向けたのは自分。それは彼女にとって、感じ始めていた生きがいを手放すことを意味する。ビリーへの愛着を切り捨てなければさびしさが増すばかりだとわかっているからこその、あの態度だろう。せつない。この作品はある意味で、ビリーとウィルキンソン先生のラブストーリーでもあるのだ。
リアルなロケーション、
心の機微を表す繊細さ
ほかにも、舞台では出し得ない映像の魅力を挙げればきりがない。ダルドリーは、初監督とは思えない仕事ぶりだ。なにしろ映画は500万ドルという低予算だったため、たった7週間で撮らなければならなかったのだ。しかも子供は9時から5時までしか働けず、土日は休み。そんな中で何より効果を発揮したのは、実際に炭鉱のあった北東部の町、イージントンでロケ撮影ができたこと。映画の舞台はエバーリントンという架空の町という設定だが、ダルドリーにとって物語の鍵は「コミュニティの死であり、喪失感」だっただけに、ロケは重要不可欠だった。監督たちは住民たちの「心の古傷を刺激しているのではないか」と心配したが、地元民たちは協力を惜しまず。群衆シーンでは、ストライキを経験した元炭鉱労働者たちがエキストラを買って出てくれたという。
映像ならではの視覚表現は、時間の経過を表すモンタージュ(短い映像をつなぎ合わせたカット)や、コントラストを強調した撮影にも見て取れるだろう。たとえば撮影監督は町の閉塞感を出すため画角に建物の角などを入れ込んで、閉所恐怖症をあおるような撮影行った。逆に踊るシーンではビリーの開放感を表そうと、よりワイドなフレーミングをして対比を出したという。さらに、チュチュを着た女の子たちとボクサー姿のビリー、闘争に明け暮れる町の現実とダンスという芸術世界、大人の世界と子供の世界、労働者階級と中産階級、労働者階級とブルジョア、希望に満ちた未来へ旅立つビリーと絶望の淵へ沈みゆく炭鉱夫たち、といった対比を際立たせ、物語をクッキリと彩っている。
UKロックがハマった
サウンドトラックの魅力
そして、映画をミュージカルに負けない音楽の力で支えているのが、80年代に流行したUKロックのサウンドトラックだ。中心となっているのが、マーク・ボラン率いるグラムロックバンド、T.Rexの曲たち。これは脚本家ホールのアイディアだ。兄のトニーがT.Rexの大ファンで、ビリーも兄のアルバム・コレクションを通して気に入っているという設定である。冒頭(とラスト)のベッドで跳びはねるシーンでは、LP盤の2曲目「Cosmic Dancer」に直接針を落とすという芸当を披露し、ウィルキンソン先生に「自分を表現するのにふさわしい曲を持ってきて」と言われて持参するのが「I Love Boogie」だ。カットされたシーンでは、兄のトニーがビリーへの餞別にT.Rexのアルバム『Billy Super Duper』を贈るシーンも撮影されていた。ほかにも見事なのは、理解してくれない父や兄への怒りを込めたシーンで使われるThe Jamの「The Town called Marice(悪意という名の街)」、警察から逃げるトニー、組合と警察との激突シーンにかぶさるのは、The Crashによる「London Calling」。ウィルキンソン先生とぶつかり合った後でダンスするビリーのシーンでは、お洒落サウンドに思いっきりサッチャー批判の歌詞をのせたりするThe Style Council(ボーカルはThe Jamと同じくポール・ウェラー)の「Shout to the Top」。もう、ビリーが歌えばそのまんまジュークボックス・ミュージカルとしていけてしまいそうな、素晴らしいサウンドトラックだ。
また、この映画がミュージカルに負けない力を発揮している理由のひとつに、クリエイティヴな振付があることも忘れてはならない。振付を手がけたのは、ミュージカル版と同じピーター・ダーリング。彼はビリーを演じるジェイミーのキャラクターにアプローチし、彼の中に「束縛から逃れ、壁を突破して自由を手に入れたい」という願望を確認。バレエといえども男性的で、ジェイミー=ビリーの感情を表現するような振りを創りだした。「パフォーマンスを彼ら自身の人生と関連付けることが重要」だというダーリングは、ウィルキンソン先生と同じ考えの持ち主なのだ。ビリーのダンスシーンは、しばしばフレッド・アステア方式で撮影された。細かいカットで割らず、フレームをダンスに合わせて長回しをするという方法で。
ハッピーエンドを飾る
プリンシパルの大人ビリー
映画のラストシーンは、親友マイケル(男性のパートナー同伴)やお父さん、兄貴トニーらが客席で見守るなか、立派なバレエ・ダンサーへの成長したビリーがロンドンの舞台に立ち、プリンシパルとして『白鳥の湖』を踊るというシーン。ここ上演される『白鳥の湖』は、マシュー・ボーンがオリジナルを大胆に再構築し、白鳥を男性ダンサーが演じるバージョンだ。大人ビリーを演じるのは、ロイヤル・バレエ団のプリンシパルを務めたスーパー・ダンサー、アダム・クーパー。かつて『白鳥の湖』のストーリーをウィルキンソン先生から説明されて納得のいかない顔つきだったビリーが、「この設定には納得がいっているのだろうな」と思えるだけに、観客席で感慨に浸るウィルキンソン先生の姿が見当たらないのは本当に残念! 実際、ここに先生を出さなくていいのかという議論が生じたそうだが、撮影日にウォルターズがスケジュールの都合でどうしても参加できず、予算がないため調整できなかったのだそう。
ちなみに舞台での大人ビリーは、ビリーが未来の「こうなりたい」と憧れる夢想の存在として、空に舞うビリーとデュエットを踊る幻想シーンに登場。この姿が、父の心の動かすことになる。舞台のラストはビリー旅立ちのシーンで、こっちも人情味があふれていい。しかし、アダム扮する大人ビリーのハイジャンプに少年ビリーの無邪気なベッドジャンプを重ねて見せる、映画の美しい幕引きは格別だ(観客席にいる父親の気持ちになって見ると感慨100倍!)。
映画とミュージカルそれぞれの、それぞれでしか味わえない魅力と感動を存分に堪能してほしい。
文=若林ゆり
【連載】ミュージカル『ビリー・エリオット~リトル・ダンサー~』鑑賞の手引き(全5回)
作品情報
■劇場公開日:2000年9月29日(イギリス)、2001年1月27日(日本)
■配給:BBCフィルムズ(イギリス)、日本ヘラルド映画(日本)
■脚本:リー・ホール
■製作:グレッグ・ブレンマン、ジョン・フィン
■製作総指揮:ナターシャ・ワートン、チャールズ・ブランド、テッサ・ロス
■撮影:ブライアン・テュファーノ(英語版)
■編集:ジョン・ウィルソン
■製作会社:BBCフィルムズ、タイガー・アスペクト・ピクチャーズ(英語版)、スタジオカナル、WT2プロダクションズ
■言語:英語
■動画配信:U-NEXT https://video.unext.jp/
公演情報
協力:キョードーファクトリー(東京公演のみ)
後援:BS-TBS、TBSラジオ
<キャスト>
オープニング公演:2024年7月27日(土)~8月1日(木)
本公演:2024年8月2日(金)~10月26日(土)
※会場内にて「撮影OK」のお知らせが表示されている時のみ撮影可能です。
※写真撮影は、お客様ご自身のお座席にてお願い申し上げます。お座席をご移動されての撮影は、ご遠慮くださいますようお願いいたします。
※フラッシュ撮影はご遠慮ください。
※内容は変更になる場合がございます。
8月29日(木)13:30(登壇者:鶴見辰吾×濱田めぐみ×吉田広大)
9月19日(木)13:30(登壇者:益岡徹×安蘭けい×西川大貴)
※対象公演回の
U-25:平日¥12,000/土日祝¥12,500