美しくも大胆なラインナップで挑んだ「死」のテーマ ピアニスト・務川慧悟は答えのない世界を描き続ける【リサイタルレポート】

2024.9.6
レポート
クラシック

リハーサルより

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パリに本拠を置くピアニストの務川慧吾が2024年8月、国内全国5都市をめぐる自身初となるリサイタルツアーを開催した。「芸術家と死」という重くも意欲的なテーマを軸とした演奏会は真夏の外気温にも負けぬほどに各会場を大いに熱狂させた。8月22日(木)に東京のサントリーホール大ホールで行われた公演の模様をお伝えしよう。

美しくも大胆なラインナップで挑んだ「死」のテーマ

リハーサルより

務川が満を持して構想した今回のツアープログラムのテーマは「死」だ。決してそれが副題のように明記されているわけではないが、事前のインタビューや務川自らが記したプログラムノート、メディア向けの自著原稿でもその言葉に明確に触れている。

プログラムを構成する作品の並びも実にユニークだ。前半にJ.S.バッハ「パルティータ第1番」全曲、ベートーベン「ピアノ・ソナタ 第17番《テンペスト》」の二題。そして、後半はショパン晩年の大作「ポロネーズ 第7番《幻想》」を筆頭に、フォーレ「ノクターン」第8番・第13番、そして最後にプロコフィエフ「ピアノ・ソナタ 第2番」 というものだ。

一つのプログラムの流れを通して「死」を様々な角度から捉えようとする務川。その死生観の多様性にどこまで聴衆を肉薄させられるかという課題に挑む美しくも大胆な発想のラインナップだ。哲学や文学にも造詣が深い務川ならではのプログラミングにおける文脈の冴えは心憎いまでに完璧だ。当夜の演奏は、その鮮やかな文脈を自身の演奏を通して三次元に立体化させ、客席の人々の心と知性にストレートに浸透させた。2時間20分にも及んだ当夜の演奏会を振り返ってみよう。

前半は“好き”を体現する王道二作品

前半プログラムの バッハ「パルティータ 第1番」とベートーベン「ピアノ・ソナタ《テンペスト》」。ここまでテーマ性が明確にされたプログラムにおいて、あえて冒頭の二作品は主題提起のような基調的存在となるものではなく、いきなり ‟閑話休題” 的なものから始めるところがいかにも務川らしい。一作品目の「パルティータ」は古典音楽をこよなく愛する務川の “好き” を体現するものだ。続くベートーベンもしかり。「ようやくステージで自信を持って弾ける」と自らを納得させられるようになった今だからこそ、この“好き”な王道の二作品を大切なリサイタルツアーのステージで演奏してみたかったそうだ。

6曲の古典舞踊から構成された「パルティータ 第1番」。一曲目のプレリュードは比較的ゆっくり目のテンポで一音一音を噛みしめるように、しかし大きな弧を描くように流麗な音を響かせる。テヌート気味に心を込めて紡ぐ音の粒立ちが美しく、透明感に満ちた優しい歌心がいかにも務川のバッハらしい。続く、アルマンドやクーラントではクラヴィチェンバロの音色や奏法を思わせる軽快な響きが心地よく、一連の装飾音における表現の洒脱さが、これらの作品が生まれた時代の典雅な空気感を雄弁に描きだしていた。務川はこの組曲について、「生活感すら感じられる、日常の中にある舞踊曲たち」と語っているが、力みも衒いもない自然体の演奏から生みだされる音楽はどこまでも純粋な喜びに満ちていた。

5曲目の(二つの)メヌエット。ダ・カーポ形式でメヌエットⅠとⅡが演奏されるが、中間に挟まれたメヌエットⅡの大胆なアーティキュレーションの取り方やアクセントの付け方に、古典楽器の奏法を極めたピアニストならではのバッハ演奏の妙味を余すところなく堪能する。そして、最終曲 ジーグ。ペダリングやダイナミクスによる表現を極限にまで抑え、華やかながらもミニマリズム的な要素を美しい和声感とともに際立たせていた。

続いて演奏されたのはベートーベン「ピアノ・ソナタ 第17番《テンペスト》」。冒頭の瞑想的でたゆたうようなアルペッジョから一転して性急で激しい動機の提示へと突入。務川はいつもには無いほどの激しい身体的アクションで印象づける。その後に続く展開部での劇的さにも、今までの務川にはない、何か一皮むけた力強いパッションが感じられたのは偶然だろうか。

再現部への橋渡しとなるAdagioからLargoへ、そして詩的なレチタティーヴォへと拡大された美しきアルペッジョによって描かれる幻想的な音のうつろいは、むしろ“幽玄”という言葉がふさわしい程に深みのある響きを燻らせていた。数回繰り返されるフェルマータの音が醸しだす余韻、そして時折、挿入される短い休止の空白の音価すらにも意志のある力強い言葉を湛えていた。詩的な理解にすぐれた務川ならではの含蓄のある緻密な演奏とともに、静と動の対立の妙など、情動の振れ幅の豊かさに終始、心を揺さぶられる第一楽章だった。

最終楽章においても、完璧な様式感の中で大胆不敵にダイナミクスを描き出し、感情の起伏の激しさを格調高く表現していた。抑制の効いた古典様式をしっかりと留めながらも、内面の情動に肉薄した演奏は、まるで一つの完成された自由形式の幻想曲を聴いているかのようでもあり、ロマンティシズムへの道を切り拓かんとするベートーベンの凄まじいまでの渇望や生き様そのものまでをも感じさせる情熱と個性にあふれる演奏だった。

務川いわく、前半プログラムは決して「死」というテーマに直結するものではないとしているが、死と隣り合わせの壮絶な人生を送ったベートーベンという作曲家に対し、真っ向から「死」というものを意識した凄みのある演奏であったことは間違いない。

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