日常から非日常へ。イマジネーション掻き立てられる“英雄の誕生”、ピアノリダクション版世界初演に喝采~上野耕平リサイタルレポート

2026.7.24
レポート
クラシック

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2026年5月16日(土)、東京の浜離宮朝日ホールでサクソフォン奏者の上野耕平によるリサイタルが開催された。ピアノ共演者はお馴染みの高橋優介。毎回、エッジの効いた変化球で多彩な面を見せてくれる上野と高橋だが、今回の演奏会における最大のトピックは何といっても2022年に上野自身によって初演された逢坂裕「アルトサクソフォン協奏曲」のピアノリダクション版世界初演だ。当日、後半プログラムでは逢坂作品のみが演奏され、作曲家立ち会いのもと意義深い演奏が繰り広げられた。一連の流れを振り返る。

幻想世界へ誘う上野耕平×高橋優介のタッグ

プログラム一曲目はムソルグスキーの歌劇『ホヴァンシチナ』から「モスクワ川の夜明け」。スラブ的な抒情性と牧歌的な美しさに満ちた作品だが、今回演奏された伊賀拓郎編曲版は“モスクワ川の夜明けによるテーマと幻想”と銘打って良いほどにオリジナル性に富んだユニークな作風だ(2016年に上野のために書かれた編曲版)。

冒頭イントロダクションでは、暁の広がりを思わせるアルペッジョが織り成す幻想的な世界が華麗なピアノのリードで発展してゆく。と同時に、サックスという楽器の持つ独自の世界観が濃密に描きだされる。すると独自の語法は“幻想”という官能的なものから少しだけ“おとぎ話”あるいは“ファンタジー”というような夢のあふれるものへと変化してゆく――これらのプロセスを経て、ようやく本来の「モスクワ川~」のテーマが豊饒な響きを持って描きだされるが、それもまた豊かに現代性を帯びており、スラブ的な空気感や土臭さとは無縁の、侵しがたいほどにキラキラした輝きに満ちていた。そして、その夢の世界に息づくあたたかい息吹を残したまま、やさしい感情を放ちつつ曲は終わってゆく。
この一曲目の作品は我々を日常から非日常へ、そしてこれから上野と高橋が繰り広げる異次元の世界へと誘ってくれる“結界”のような役割を呈していたかのようだ。

二曲目はアルフレッド・リード「アルトサクソフォンのためのバラード」。4分くらいの小作品だがピアノによって導かれる得も言われぬ和声感の中でうつろいゆく印象主義的な光と翳のコントラストが美しい作品だ。上野は冒頭から豊かに太い線を大きく描きながらその陰影の中に繊細な揺らぎの“かたち”を噛みしめるように際立たせる。そして中間部では短く凝縮された尺の中で翳りのある色合いから光に満ちた音色への絶妙な変化も見事に聴かせた。(翳りのある音では)琥珀色のような深みのあるニュアンスを描きだしていたのも印象的だった。

続いて演奏されたのはイギリスの作曲家 アーノルド・バックス「ヴィオラ・ソナタ」。知られざるヴィオラのための名曲だ(ヴィオラ奏者にとっては“知られざる”とは言えない重要な作品に違いないが……)。演奏前、上野は「ヴィオラとアルトサックスの音域が似ているので親和性を感じる」とコメントしつつ、30分近い長尺の作品ゆえに客席に聴きどころを説明。第一楽章で奏される親しみやすいテーマが他の楽章でも循環して現れることや、第二楽章は少し“田舎臭い”作風の音楽であること、終楽章で第一楽章のテーマに再び遭遇する時の“感動の大きさ”などをかいつまんで説明した。

第一楽章——“懐かしさ”を感じさせるカンタービレの主題が瞬く間に技巧を伴って野心的に展開してゆくその曲想を、上野も高橋もアグレッシブに描きだし、最初から聴きごたえ充分だ。本来はヴィオラを想定した作品ゆえに、弦をカサカサと動かす弦楽器独特の動きの速いパッセージも広い音域をカバーしながら難なく吹きこなしてしまうところは上野ならではだ。

第二楽章——上野の言うとおり、確かにブリューゲルの画に描かれた“田舎の農民の踊り”を彷彿とさせるかのようなある種グロテスクな個性のある楽章だ。上野と高橋はその画に描かれたような音楽性を音で具現化し、キレのあるリズム感で終始、予想不可能な展開を暗示させるスリリングさと不安定さを醸しだしていた。

第三楽章——大きな跳躍のあるダイナミックな旋律を抒情的に聴かせるのは上野ならではの力量だが、上野、高橋両者ともに段階的にダイナミクスを紅潮させてゆくその描きだし方の巧さと息の合いようにも改めて感心させられた。
上野が先のトークで“感動的”と語っていた、第一楽章の主題が再び現れる箇所の前に、インターリュード(間奏曲)のごとくピアノだけが時間的経過を描きだす場面が挿入されているが、ダイナミックレンジを極限まで駆使したオーケストラのような高橋の演奏に、その後の主題再現が“感動的”である意味が想像以上に理解できた感がある。最後は上野が静かに奏でるロングトーンで祈りを込めるように終わってゆく。その得も言われぬ余韻もまた美しかった。

後半は作曲家 逢坂裕の世界。世界初演含むラインナップ

後半は作曲家 逢坂裕の世界。逢坂は上野の藝大時代の同級生で、藝大寮で寝食を共にした仲だという。

一曲目は上野のために書かれた2019年初演作品「ソプラノサクソフォンとピアノのためのソナタ エクスタシス」。上行型の音型や速いスケールの連続とともに高揚してゆく様を二人は悲壮感すら漂わせながら美しく表現した。両者共に、あたかも淡い光を見つめ続けるような眼差しで紡ぎ続ける息の長いフレージングのとらえ方も秀逸だ。またソプラノサックスが類似音型をミニマリスティックに弾きあげ、自らを極限まで追い込むその姿は、妖艶さの中に感じさせる一筋の理性の叫びでもあり、これこそがこの作品における“エクスタシス”なる所以なのかもしれないと思わせるものがあった。

続くフィナーレではアルペッジョやトリル、スケールというありとあらゆる技巧を駆使した音型のセクエンツァで上野がこの上なく迫真の演奏を聴かせた。逢坂にオマージュを捧げる晴れの舞台で見せた見事なワンシーン。サックス演奏の歴史に新たな一ページを刻む名演奏であったことは間違いない。

続いては、この演奏会のメインイベントともいえる「アルトサクソフォン協奏曲 ピアノリダクション版」世界初演だ。上野はすでに2023年12月31日にオーケストラとの共演でこの作品(原曲)を演奏しているが、今回、逢坂自身によってサックスとピアノのためにリダクション版が編まれ、この日、初演の運びとなった(約二年の歳月をかけて断続的に作業が行われたという)。

 

演奏にあたり、上野と高橋がミニトークを繰り広げる。
高橋が「オーケストラ版の演奏も聴いているので、そのサウンドが耳に残っており、当初、ピアノであの打楽器なども駆使したスケール感が表現できるかどうか、(ピアノパートの演奏を受けるか)上野さんに返事を渋った」との経緯を語ると、上野は「ピアノリダクション版でも打楽器の響きなどを存分に聴かせたいという僕のわがままも逢坂さんはすべて聞いてくださって、逢坂さんと僕と高橋君の三人で作り上げた作品のような気がする」とコメント。
この作品は裏テーマが“英雄の誕生”と銘打たれているだけに、高橋にとって管弦楽のパートをピアノ一台で演奏するというプレッシャーはさぞ大きいものだっただろう。

第一楽章 簡略化されたソナタ形式——上行・下行音型やアルペッジョを縦横無尽に駆使したイントロダクション。冒頭からパワー漲る演奏でこの作品を一挙に特徴づける。展開部では天に向かって飛翔し続けるかのようなサックスの響きをさらに力強くピアノパートが牽引してゆく。高橋はそのダイナミズムを高音部・低音部ともに見事なバランス感で歌い上げた(作曲家ノートによるとこのくだりは“英雄の誕生と躍進”のイメージだという)。

第二楽章 自由な二部形式——作曲家ノートによると“別離・永訣・諦念という言葉をイメージして書かれたレクイエム”と記されている。一瞬、ブルース的な曲想にも感じられる旋律を上野は格調高く、あくまでも精神性の高みを感じさせるかのような凛とした響きで紡いでゆく。高橋もまたストイックなまでにその精神へと肉薄してゆく——しかし、両者は次第に張り詰めたものから逸脱し、静かにリリシズムの極致へと歩みを進めてゆく——それは(あくまでも筆者の主観であるが)ある種のエロティシズムすら感じさせる官能的な世界にも思えるものだ。アルトサックス特有のゾクッとさせるような妖艶な響きに絆されながらも、その世界をあえて理性で断ち切るかのようにベートーヴェンの“運命の動機”を思わせる力強い音の連続の一打を得て現実世界へと引き戻されてゆく——そしてアタッカで終楽章へ。

第三楽章 自由なロンド形式——漲る精気——それを二人は巧みな技巧とパッションであふれんばかりに表出させる。打楽器的な音の連続を轟かせるピアノパートも高橋本人の杞憂を払拭する見事なものであり、トーンクラスター的な響きが心地よいと感じられるほどだ(作曲家ノートによると、このくだりは“死からの再生”をイメージするものだという)。両者ともに高揚感と覚めやらぬエネルギーを充満させたままクライマックスへ——。最後はアルトサックスのフラジョレットによる高音のロングトーンで締めくくられる。

この余韻を残すロングトーンのエンディングは、聴き手に何かしらの想いを呈していたかのようにも思えるが、一体何が込められていたのだろうか……。それは一連のストーリーを歩んだ英雄が今こそ客席に何かの想いを提起しているかのようでもあり、安堵の中に憩う“英雄”の夢の吐息のようでもあり……実にイマジネーションが掻き立てられるものだった。初演者と作曲家と聴衆が一堂に会する空間の中でそんなことを心の中で問うことのできる幸せと喜びが感じられる意義深いひとときだった。

演奏後は逢坂本人もステージに登場。満場の客席から万雷の拍手を浴びていた。照れるように頭を深く下げて挨拶する姿がひと際、印象的だった。

高揚感覚めやらぬ空気感の中、アンコール作品が演奏された。曲はお馴染みの作曲家 山本菜摘氏による「Encore Piece」。これも上野の為に書かれたもので、エッジの効いた作品のあとの清涼感のある癒しの音楽で一連のプログラムは締めくくられた。

取材・文=朝岡久美子 撮影=上溝恭香

上野耕平 今後の出演情報

『上野耕平・山中惇史・石若駿 トリオ・コンサート』

2026年8月9日(日) 14:30開場 15:00開演
東久留米市立生涯学習センター まろにえホール(東京)
全席指定:前売4,000円
※未就学児入場不可

2026年11月8日(日) 15:30開場 16:00開演
三鷹市芸術文化センター 風のホール(東京)
全席指定
会員 S席4,500円・A席3,600円 / 一般 S席5,000円・A席4,000円
U-23(23歳以下/ A席限定)3,000円

ランチタイム・コンサート Vol.32「上野耕平」
 
2026年9月9日(水) 11:00開場 11:30開演
大阪住友生命いずみホール(大阪)
出演:上野耕平(サクソフォン)/高橋優介(ピアノ)
一般¥3,000 フレンズ¥2,000

〜芸劇ブランチコンサート〜 名曲リサイタル・サロン第39回「上野耕平」

2026年9月16日(水) 10:30開場 11:00開演
東京芸術劇場コンサートホール(東京)
出演:上野耕平(サクソフォン)/高橋優介(ピアノ)
全席指定:3,000円
 
★その他多数公演あり!上野耕平オフィシャルホームぺージをご覧ください。
https://uenokohei.com/
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