室伏鴻追悼(1)麿赤兒「“非在の強度”が迫って来る」

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2016.2.17
祭壇には故人の遺品も供えられた ©BOZZO

祭壇には故人の遺品も供えられた ©BOZZO

昨年2015年に急逝した振付家・舞踏家の室伏鴻。今週末2月18日~2月22日には横浜赤レンガ倉庫1号館で、惜しまれつつも世を去った室伏鴻を追悼するイベント『<外>の千夜一夜 Vol.2』が開催される。これにちなんで、昨年8月5日(水)に行われたお別れの会「ありがとう 室伏鴻!」の模様のレポートとしてお届けする。日本発の「BUTOH」を世界に広め、身体のエッジを追求して、多くの人たちに強い影響を与えた室伏の功績を、今一度あらためて振り返っておきたい。(取材・文:堤広志)


【連載目次】

室伏鴻追悼(1) 麿赤兒「“非在の強度”が迫って来る」
室伏鴻追悼(2) 石井達朗「海外で観た3つの公演」
室伏鴻追悼(3) 中原蒼二「苛烈な無為」/渡辺喜美子「最期の状況」


お別れの会「ありがとう 室伏鴻!」は、発起人代表は麿赤兒氏、発起人を天児牛大氏と中原蒼二氏が務め、2015年8月5日(水)東京・赤坂の草月ホールで行われた。おりしも真夏の日差しが強く照りつける猛暑にも関わらず、生前親交のあった舞踏家、舞台関係者、ファンなどが多数参集した。
 

●式次第
[パフォーマンス]Ko&Edge『DEAD 1』
[映像上映]
[開会挨拶]
  司会進行:森下隆(慶應義塾大学アート・センター「土方巽アーカイヴ」)
[別れの言葉]麿赤兒(舞踏家)
       石井達朗(舞踊評論家)
       中原蒼二(「ヒグラシ文庫」店主)
       渡辺喜美子(室伏鴻マネージャー)
[献花]
[献杯]

[開催挨拶]
 

森下:それでは、ただいまより、室伏鴻お別れ会「室伏さん ありがとう!」を開催いたします。司会進行はわたくし、森下隆が務めます。よろしくお願いいたします。今日は草月ホールに、本当にたくさんの方にご参集いただきまして、本当にお暑い中、酷暑の日々の中でございますが、お運びいただきありがとうございました。天国の室伏さんも、まぁ言葉にはしないでしょうけれども、喜んでいることと思います。

今しがたは、かつて室伏さんが指導・演出、また出演されていましたKo&Edgeのダンス作品『DEAD 1』が上演されました。鈴木ユキオさん、目黒大路さん、岩渕貞太さん、3人のダンスでした。3人の銀塗りの肉体を観ていると、それだけで室伏さんを思い起こし、胸が熱くなりました。バイレロ(Baïlèro:Chants D’Auvergne)の音楽が鳴ると、もう涙が止まらない状態になりました。ありがとうございました。

Ko&Edge『DEAD 1』では、落ち続ける銀砂が故人の非在を象徴した ©BOZZO

Ko&Edge『DEAD 1』では、落ち続ける銀砂が故人の非在を象徴した ©BOZZO

それから、室伏さんの懐かしい映像と写真が次々と上映されました。本当にもう、これ以上、室伏さんの踊りを観ることができないんだということを、あらためて思い起こしました。辛いと言いますか、本当に悔しい気持ちにとらわれました。

本日のお別れ会は、麿赤兒さん、天児牛太さん、中原蒼二さん、お三方の発起で行われます。残念ながら、天児さんは海外でのお仕事ということで、今日は参列されておりませんけれども、遠くイタリアから室伏さんを悼んでいただいていることと思います。それではまず最初に、発起人代表であります麿赤兒さんより、お別れの言葉をいただきます。麿さん、お願いいたします。


[別れの言葉]麿赤兒「“非在の強度”が迫って来る」
 

お別れの会「ありがとう 室伏鴻!」発起人代表の麿赤兒さん ©BOZZO

お別れの会「ありがとう 室伏鴻!」発起人代表の麿赤兒さん ©BOZZO

麿:「よっ、室伏! 元気か?」、という風に会ったのが1年ぐらい前で、会いまして…。えぇ、まぁどこがいいとか悪いとか、だいたいもうこの歳になると、足が痛ぇ、腰が痛ぇ、もう辞めようかな? とかなんとか…、まぁそういう話にまずなるんですが、一晩、飲み屋で飲み明かして。天児と室伏、滅多に会わない水と油みたいな存在で、ま、僕がちょうど年上なものですから、一応、蝶番みたいなもんで、「まぁ、たまにはいいじゃねぇかよ、おまえェ!」と。「孤独比べ…、天児の孤独と室伏の孤独。どっちが上だ?」なんてバカな話をやって、でも楽しかったな。もう20代に3人とも戻ったような感じですから、まず時間は尽きなくて…。大したことは話してません。最後に天児が、「結局、麿さんはエロ話だ。エロ話しかしねぇ」って言うもんだから、「8時間も喋って、エロ話だけ聞いたのか、おまえ」とちょっと頭に来てね、暴力を振るいましたね(場内爆笑)。それ以来ね、また20代のような楽しみが一挙に戻ってきたような感じだったんですが…。

えー、室伏は大駱駝艦創設に馳せ参じてくれた。ビショップ山田、天児牛太、室伏鴻。まぁみんなね、まだ死んでませんけど死んでるような奴もいますけれども。大須賀勇、田村哲郎、長野揚一。あとはいろいろ、「一番は」なんて(広沢)虎造じゃないんですけれども、「一番は大政、二番は小政」みたいな連中で、集まりまして。まぁ、大政はちょっとビショップみたいなのがね、小政はどっちかって言うと天児ですね。三、四(山椒)は小粒でピリリと辛いみたいな。三番は、と室伏はなかなか出てこない森の石松みたいな…。頭はいいんですけどね。まぁ、とにかくそういう面々が、まだ大駱駝艦という名前をつくる前に馳せ参じてくれまして。僕も芝居を辞めてショボンとしているところに、彼らのおかげで元気がついてきたんですが…。まぁ、室伏はその中でも一番当時としてはエリート、大学は退学しているんですけれどもね。でも、大駱駝艦のいわば思想的バックボーンみたいなものを、「激しい季節」という新聞を出しまして、あることないこと、何かもう滅茶苦茶なアジテートをしまして。「何だ、舞踏とは?」とか「舞踏皇極戦線!」、そういう天皇陛下だか右翼だか左翼だか何だかわからない(場内笑)。何でもいいから、どこにでもこうにもケンカを売るというような。72年でした。

それから3年ばかり、大駱駝艦でいろいろな仕事をやってくれて…。話しが長くなりますけどもね、室伏とは40年ぐらいになるんですけれども、長くなりますんで、きりがないんですけれども。五太子というところに、カルロッタ池田と室伏と、僕と天児が行くと、まぁ五太子というところに、25戸ぐらいしかない福井県の越前海岸のちょっとした山野辺にある、まぁ今で言う「限界集落」ですかな。そういうところの蚕棚を改造して、そして一夏に2000人くらいのお客が来て、それでまぁ、室伏得意のミイラ。また田舎にミイラが帰って来たみたいなので、村のおじいちゃん・おばあちゃんはみんな拝んでいましたけれど(場内笑)。ところが、室伏が先ほどのような。あれ絶対、いろんなところで踊りをやりますげど、結局は室伏という男はミイラにミイラれた(見入られた)ような感じで…。若い時に山形の出羽三山のあの辺のミイラを相当インプットされたと思うんですが、そういうところでミイラと、まさに土方のいう「突っ立った屍体」というか、そういう風なものを本当に原理的な体験しようという、そういう意識が最後まで貫かれているというか…。踊りとしてそんな器用なことはしないが、そこから滲み出て来るものは、もうとにかく人間の威厳というか、生物のプリミティブな非常に自然的なものを何とかあぶり出そうとする。原理的といえば原理的で、いつも僕は彼のソロを観ると、ちょっと潤んできちゃうんですが…。またひっくり返るのかよ〜、まーたひっくり返るのかよ〜っ、というような。いわばそれも彼の一つのサクリファイスのような気分になっているのかどうかわからないが…。あの、背中に“ひっくり返りダコ”というんですか?(場内笑) ま、言ってみればこれも一つの、大地に体を打ち付けるという、修験道の一つの五体投地というようなところから来ているんじゃないかと思うんですけど、あんまりそういうこと言うと身もふたもありませんけれど、まぁ彼はそういう舞踏というかなんというかそういうものと重ね合わせて、彼の中に一つのいわば境地というかな、そういうものをどんどん見つけて行ったという。


【参考動画】室伏鴻「quick silver (excerpt)」
※2009 CanAsian International Dance Festival

しかし、こうやって写真なり映像、スライドを見ていると、なんか屍体のくせに楽しそうですな(場内笑)。ま、そうやって開放された時の室伏のかわいい顔というのは、ジーンときますけれども…。ま、僕もパリで、彼の訃報を聞きました。ちょうど踊りが終わった後、女の人が駆け込んできて、「室伏さんが死にました!」「何言ってんだ、おまえ」という風なことで…。それから、しばらくして公演の休みの日にギュスターブ・モローか…、昔、僕はギャスターブ・マロー(麿)という、そういう名前を付けていたんですけれどもね。ギュスターブ・モローの美術館に行きまして、そうしたら室伏がいましてね。まぁいわば、プロメテウスですね。あれと室伏がすごくダブりまして。彼に火を持たせるとね、非常に生き生きした。火を体中につけて、これはちゃんと体を燃やすんですけれども、ちゃんと装置としてつくっているんですけれどもね、それこそアスベストかなんかであれして、そこに油をしみ込ませてね。それでね、カァーッと…。まさにプロメテウスというか、なにか人間の、キリストみたいなところもあるのかな? 一つの罪というか罰というか、それを引き受けているっていう。そういう感じで一生を、69歳をまっとうしたと…。まさに舞踏芸人というものを、恍惚とした思いで逝ったと僕は思っています。
 

それも素晴らしいことに、空港で前のめりに膝を着いて、そして崩れるようにウーッと逝ったと。病院で入院しているより、そういうのがカッコいいなぁという風な、オレもあやかりたいなとそういう感じで…。
 

ま、むしろ室伏とはあれですね、普段はそんな会いません、彼も忙しいし。1年に一度会うか会わないか。「よ、元気か?」というような感じですね。ところがこうやってあれが一応いないということになると、その強度と言いますか、いわば「非在の強度」というようなものが、ここまだ2ヶ月にも満たないんですけれども、まだまだその強度というものがどんどんどんどん逆に迫って来る感じですね。どんどん、いない方が彼の説得力というものが、これからますます。舞踏の何たるか、まぁ舞踏だろうがなんだろうが、体の一つの仕事と言いますか、そういうものは何なのかということをあらためて問い直されているような気がします。それがますます強いものになって…。「いや、俺も歳なんだからもう、お前の宿題なんかしたくないよ!」という感じなんですが…。


【参考動画】室伏鴻ソロ・パフォーマンス「quick silver 変奏」
※JCDN「踊りに行くぜ!!」VOL.7上演作品ダイジェスト(2006.10.22@前橋・旧麻屋デパート)

ま、できる限り、こうやってさっきの若い人も、室伏そのものになって、たぶん室伏のDNAというものはどんどん引き継がれていくもんだと思っています。安心して…、というわけにはいきませんね、室伏! むしろ、若い人をまたあのいい声で「この野郎!」「バカ野郎!」とそうやって言われて、ここにいらっしゃる方の中でも「何でそんな怒られなくちゃいけないんだよ?」(場内笑)って言って、半分憎たらしくて、殺してやろうと思った人も何人かいるとは思うんですけれども、そういう人も全部水に流して、来てくれたぞぉ!?(場内笑) また、そういうところで室伏の、またあのニコッと笑われるとなんか許してしまうような、そういうところがある男でした。ま、別に「さよなら」とか言う気もないし、オレもまさに「ありがとう」とは言いたくないな。「これからもよろしく頼むよー」という風な感じで、ありがとうございました。(拍手)


森下:どうもありがとうございました。いま、お話がありましたように、お二人は大駱駝艦で素晴らしい舞台を創っていたのは、もう40年も前のことです。私もその長い年月を少し思い起こしながら、今の麿さんのお話を伺っていました。本当に悲しい、辛いことなんですけど、麿さんのお言葉を聞いて、やっぱり亡くなってもまた我々もやっていかなければならないという勇気を与えられたような気がします。本当にありがとうございました。
 

イベントデータ
お別れの会「ありがとう 室伏鴻!」
■日時:2015年8月5日(水)
■場所:草月ホール
■発起人代表:麿赤兒
 発起人:天児牛大/中原蒼二
室伏鴻追悼企画『<外>の千夜一夜 vol.2』
■日時:2016年2月18日(木)~22日(月)
■場所:横浜赤レンガ倉庫1号館(045-211-1515)
www.ko-murobushi.com/outside-2015/
 
室伏鴻プロフィール
室伏鴻 (むろぶし・こう、本名・木谷洋=きたに・ひろし) 。 1947年東京生まれ。舞踏の創始者・土方巽に師事。72年、麿赤兒らと「大駱駝艦」を旗揚げ。女性だけの舞踏集団「アリアドーネの會」のプロデュースを経て、76年、舞踏派「背火」を主宰し、福井県五太子町(現福井市)に劇場「北龍峡」を開いた。78年にパリで上演した「最期の楽園」が1カ月のロングランとなり、これが「BUTOH」を世界に広めるきっかけとなった。2003年からは、舞踏を次世代の若手ダンサーに引き継ぐユニット「Ko&Edge」でも活動。06年にはベネチア・ビエンナーレで全身に銀塗りした『クイック・シルバー』を発表。10年にはジンガロのバルタバスとのコラボレーション『ケンタウロスとアニマル』で欧州をツアーし、話題となった。
2015年6月18日、メキシコ市にてブラジルのサンパウロなどでの公演を終え、ドイツでのワークショップに向かう途中、乗り継ぎ地であったメキシコ市の空港で前8時(日本時間午後10時)ごろに倒れた。ヘリコプターで病院に搬送されたが、午前10時5分(現地時間)に心筋梗塞のため、亡くなった。享年68歳だった。
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