「2001年宇宙の旅」ライブシネマ・コンサート11月に開催
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ライブ演奏で生まれ変わる「2001年」
近年では、映画に合わせてそのサウンドトラックを実際にオーケストラなどによって演奏するスタイルの上演が世界的に増えてきている。チャップリン映画や「戦艦ポチョムキン」などトーキー以前の映画への試みから始まったこのスタイルはどんどんその対象を広げ、昨年には日本でも「ゴジラ」(1954)の上演が行われたのは記憶に新しい。そして今年11月にはライブシネマ・コンサートとして、「2001年宇宙の旅」の上演が決まった。もちろんスタンリー・キューブリック監督のあの傑作である。
クラシックファン目線で言うならば、「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭を有名にした映画「2001年宇宙の旅」は、キューブリックの、というよりすべての映画の中でも高い評価を受ける1968年公開の名作だ。正直なところ、これほどの作品についていまさら私などが説明をするのも気が引けるところだけれど、ここは自分なりに整理をさせていただこう。
キューブリックとSF作家アーサー・C・クラークとの共同脚本による「2001年宇宙の旅」は、制作された映画と小説では描写の方向、スタイルがかなり異なる。小説では多くの説明を入れて明確な意味付けをするところで、映像はこの上なく克明に描写するけれど説明を避けて作られている。そのため、映画は高い評価を受ける一方で難解だと今でさえも言われている。だが、この映画が一貫してある種の「進化」の繰り返しを描いている、と見ればそうわかりにくいこともない、のではないだろうか。猿人は道具を得て文明を作る、人が作った文明はその内側で衝突をもたらす、しかしそれさえも乗り越えて上位存在へと進化を果たす人類の、際限のない進化の物語。
その「進化」につけられるのが、R.シュトラウスの「ツァラトゥストラ」冒頭部分だ。この音楽は映画全体の冒頭を飾るファンファーレ、そして猿人が「道具」を手に入れる瞬間、そして最後に地球に対峙するスターチャイルドを示す全体のラストでもう一回と、映画全体で三度使われる。ここから、「ツァラトゥストラ」が作中で大きな「進化の瞬間の描写」の際に、大いなる悦びをもって鳴り響いていることがわかるだろう。劇的な響きもさりながら、演奏効果に加えてニーチェが語る「超人」にも似た存在への道が作品のテーマであることもまた、そこですでに示されているのではないだろうか。
そして「ツァラトゥストラ」に対比されるのは、「ルクス・エテルナ」や「レクイエム」などの、ジェルジ・リゲティの諸作品だ。彼の音楽の、緻密に書かれているのに捉えどころのない響き、動きが緊張感を強めて「コンピュータが理解できない行動をしている」不条理への恐怖を呼び起こすあたり、同じキューブリック監督作品である「シャイニング」(1980)でのバルトーク(弦楽器、チェレスタと打楽器のための音楽)の用いられ方に似ているかもしれない。「2001年」作中で使用された場面など合わせて考えるなら、リゲティの響きはあの石板の存在に関連させて考えるべきなのだろう。そしてその謎解きは映画ではなされないのだ、リゲティの音楽が今も私たちにとって謎めいた存在であるのと同様に。
映画全体のテーマとも密接に絡むように用いられた音楽が、実際のオーケストラと合唱団によって演奏されることでより説得的に、なにより示唆的に響くことになるだろう。そこに加えて、ライブならではの緊張感も見逃せない要素だ。また、別の場面で流れるヨハン・シュトラウスII世の「美しく青きドナウ」の場違いなほどの陽気さはさらに強められ、ハチャトゥリアンのアダージョから暗示される長旅の不穏はより痛切に響くのではないだろうか。そして、この映画が示す真空を、無重力を示す無音の闇の深さもまた強められるのではないだろうか。
11月の上演は、すでにこの作品の上演で世界各地で大成功を収めた指揮者ロバート・ジーグラーの指揮のもと、日本フィルハーモニー交響楽団、東京混声合唱団による演奏で行われる。すでにこの名画に親しんできた方も未見の方もぜひともこの上演を体験してみてほしい、1968年の名画が今また新たな姿に蘇るだろうから。