クリスチャン・ルパの演劇――2009年欧州演劇賞イベントで上演された三本から/野田学

Krystian Llupa  Photo: K. Paletko  Courtesy of Polish Theatre in Wrocław

Krystian Llupa Photo: K. Paletko Courtesy of Polish Theatre in Wrocław


フェスティバル/トーキョーにルパ (Krystian Lupa) 演出作品『Woodcutters ――伐採――』がやってくる。4時間半の大作だ。ポーランドのルパといえば、ヨーロッパ最後の「巨匠」とでもいうべき存在である。本国ポーランドではもとより、オーストリア、フランス、セルビアなどで受賞歴があり、ヨーロッパでは大家と言っても良い演劇家だ。しかし、たとえば英語圏ではなじみの薄い作家である。ルパはアメリカ公演は行っているが、英国では少なくとも欧州演劇賞受賞の時点(2009年)で公演歴皆無だ。これもまたヨーロッパ演劇賞の「ヨーロッパ」たるところなのかもしれない。実に国によって様々なのである。そして、残念なことに日本においても、必ずしも知名度の高い演出家ではない。来日公演は2016年のフェスティバル/トーキョーがはじめてとなるはずだ。

私は、ポーランドの演劇を専門にしているわけではない。また今回来日する作品の原作者であり、ルパが長いことこだわってきたオーストリア作家、トーマス・ベルンハルト (1931-89) の作品を原書で読めるわけでもない。しかしながら、2009年にポーランドのヴロツワフで行われた欧州演劇賞関連行事で、幸運なことにルパの舞台を三本観たことがある。それで、今回の来日にともない、かつて『シアターアーツ』39号(2009年6月)に書いた記事のメモをたよりに、ルパの舞台の記憶を呼び覚ますのも悪くはないだろうと思った。今年8/30には駐日ポーランド共和国大使館で、ピョトル・ルツキ氏(演劇学者、ヴロツワフ・ポーランド劇場ドラマトゥルク)によるルパについての公演があったが(残念ながら私はうかがえなかった)、これの定員は20名だった。ならば当誌で私なりの紹介を試みても罰は当たるまい。

60年代から80年代にかけてのポーランド演劇のスターは二人いる。一人は(ルパは否定的な評価しか与えていないが)グロトフスキであり、その俳優の超人的な身体性と、ブルックが『何もない空間』で述べているような「聖なる演劇」の体現者だ。もう一人は、ルパ自身が多大なる影響を認めているタデウシュ・カントールであり、その表現主義的な演技の中で、人間とモノとの境目が亡くなっていくような圧倒的視覚性が特徴だった。そして、もちろんカトリック国としてのポーランド特有の、ミサのような儀式性だろうか。

しかしながらルパはそのどれにも当てはまらない。彼はグロトフスキの「聖なる厳かさ」を批判している――「愚かなこと、馬鹿げたことをするならば、それをわれわれは隠すべきではない。私はいつも恥知らずであることを奨励してきた。まったく新しく、証明されていない仮説を滔々と述べることをね。気まずい思いをする危険を常に冒すから、そこから恩寵が得られるんだと。われわれは馬鹿なことを言わなければいけないんだよ」 (Interview with Grzegorz Niziołek, trans. by MR, Notatnik Teatralny, 1993, 6:1, reprinted in Krystian Lupa, Rozmowy/Conversations, Notatnik Teatralny, 2009, nos. 54-55, p. 296)。イェレニア・グラにある C. K. ノルヴィド劇場で数年にわたり修道院のような演劇集団を形成し、その後ポーランドで最も権威の高い劇場の一つであるスタリ劇場に拠点を移してからも「大家」としての名を着々と築き上げていったルパであるだけに、「ルパのグロトフスキ批判はルパ自身にも当てはまる」といった批判が一部からあがったのもうなずける。

ルパは1943年生まれ。画家志望として美術学校を卒業、その後映画学校を経て、クラクフの演劇学校で主にコンラッド・スヴィナルスキに師事した。スヴィナルスキはブレヒト演劇をポーランドに持ち込んだ最大の功労者の一人である。またルーパは実際には師事していないものの、カントールに大きな影響を受けたことを認めている。また思想的に大きな影響を受けたのがカール・ユングである。

ルパが「巨匠」であると広く認められているのは、彼が欧州演劇賞の受賞者の一人であることからも明らかだろう。この賞は、欧州委員会がヨーロッパ演劇を顕彰するために創設した賞だ。ヨーロッパにおいて演劇と演劇的知を助成し、その普及を計ると同時に、文化関係の発達を促進し、ヨーロッパの集団的意識を豊かにすることを目的としている。第一回目の受賞者 (1987年) は太陽劇団とその主宰であるアリアーヌ・ムヌーシュキンだった。その後、ピーター・ブルック、ジョルジオ・ストレーレル、ハイナー・ミュラー、ロバート・ウィルソン、ルカ・ロンコーニ、ピナ・バウシュ、レフ・ドージン、ミシェル・ピッコーリ、ハロルド・ピンター、ロベール・ルパージュ、ペーター・ザデク、パトリース・シェロー、クリスチャン・ルパ、ペーター・シュタイン、そして今年のマッツ・エクと続く。錚々たる顔ぶれである。若干不思議なのは、今まで明らかにヨーロッパ以外の出身の演出家が二人受賞していることである(ウィルソンとルパージュ)。EU以外ということでロシアのレフ・ドージンを加えると三人になる。

ルパの受賞理由を見ると、ルパがどのように欧羅巴で評価されているのかがよく分かる。たとえば、ロバート・ウィルソンやタデウシュ・カントールは、自己の強固な世界観を舞台上で作り上げて観客を圧倒してしまうオトゥール (auteur) タイプの演出家であると言えるだろう。この場合、観客が目にするのは、あくまで作者としての演出家(ないしは舞台芸術家)のヴィジョンである。これに対しルパの場合は、しばしば難解な長編小説を、そのテクストの襞にいたるまで、舞台上で再現/構築してしまうのだ。まさに小説を「読む」という行為の舞台化である。ここで断らなければならないのは、ここでのテクストに没入しようとするかのような「読む」行為の主体が、あくまでルパ自身であるということだ。だから彼の舞台は、いわゆるリアリズム的な、テクストをひたすら三次元に忠実に起こそうとするスタイルをとらない。むしろ、彼の舞台は、登場人物達のしばしば長大なせりふが織り出す迷路のような旅路を、その寄り道から逡巡にいたるまで、観客にたどりなすことを要求する。その結果、彼の作品は往々にして長い。ドストエフスキー、ムーシル、そして誰よりもベルンハルトという作家が織りなすあらゆる難解な人間性のテクストを、彼は観客にその細部にいたるまで見せつけ、その暗部にいたるまで追わせようとするのである。

この作風を可能にしたのが、ルパの作品における代表的な俳優であるピュートル・スキバであったということも、ここで申し添えよう。2009年の欧州演劇賞受賞の時点で、もはや二人は微妙な関係になっていると噂されてはいたが、ルパは彼の作品において最も代表的な俳優であるピヨトル・スキバと長い間協働している。スキバは『ファクトリー2』でも主演のアンディ(ウォーホール)役を務めていた。スキバのような優れた俳優に対し、ルパは信じがたいような圧迫を加えることで、作品中の人物達の暗部をえぐり出させるのだ。

ルパの一番の特徴は、長大で観念的な中欧・東欧小説を多く舞台化していることだろう。ロベルト・ムーシルの『特性のない男』、ヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、リルケの『マルテの手記』、トーマス・ベルンハルトの『石灰工場』などに題材をとっている。その中でも特にムーシルやブロッホのような、20世紀前半の価値観の激変期を描いたオーストリアのモダニスト小説には何度も立ち返っているし、20世紀後半のベルンハルトは小説・戯曲ともに多数上演している(これは、ベルンハルトが糾弾するオーストリアのカトリック-ナチズムの世界が、ルパの国ポーランドでも適用可能であるとルパがみなしているからだろう)。これら作品の丹念な読み込みから、ルパは人間性の暗部をあぶり出す大作舞台を作り上げてきた。

同時にルパの受賞理由としてあげられるのは、ポーランドの優れた若手演出家を輩出してきたその教育面での功績である。1983年よりクラクフの演劇学校で教鞭を執り、94年より教授職をつとめたルパは、2008年の第10回ヨーロッパ演劇的新現実賞の受賞者であるポーランドのクルジシュトフ・ヴァルリコフスキをはじめとして、グジェゴジュ・ジャルジナ、アンナ・アウグステノヴィッツ、ピョートル・チェプラックなど、多数の優れた若手演出家を産み出しており、ポーランドで唯一「一派」を形成できた「巨匠」演出家であると言って良い。

2009年の欧州演劇賞行事期間中、3本のルパ作品が上演された。ヴェルナー・シュヴァーブ作『かぐわしきかな天国 (<em>Die Präsidentinnen</em>)』<span style="font-size: 13px;">(邦題は寺尾格訳 [『Deli』第1号(沖積舎)2003年所収]による)</span>、そして2本のオリジナル作品--『ファクトリー2』(2008年)と『マリリン』(ワーク・イン・プログレス)--である。以下、この3本を追っていこう。

『かぐわしきかな天国』

ルパ演出により1999年に初演された『かぐわしきかな天国』は、その後世界各地をツアーした作品である。シュヴァーブといえば、オーストリアにおいて徹底的にそのカトリック・ブルジョワ的精神性を攻撃した作家だ。英国のサラ・ケインやマーク・レイヴンヒルに代表されるような血と精液だらけのニュー・ブルータリズムは、その後全世界的に上演ラッシュをみたが、オーストリアのシュヴァーブによる仮借なき人物造形とグロテスクでスカトロジカルなイメージの連鎖はこれの先駆けとなったといってよいだろう。

Thursday, 2 April 2009 Teatr Polski, Scena na Œwiebodzkim Prezydentki (The Presidents) directed by Krystian Lupa,  photo by Zbyszek Warzyñski

Thursday, 2 April 2009 Teatr Polski, Scena na Œwiebodzkim Prezydentki (The Presidents) directed by Krystian Lupa, photo by Zbyszek Warzyñski

  作品では三人の女性がそれぞれのきわめて偏狭な価値観の中で繰り広げられる幻想と幻滅を止めどなく吐露(吐瀉?)し続けていく。なかでもマリードルは素手でトイレの糞尿のつまりを取り除くことにカトリック的聖性を見いだしている。彼女の役は他の二人の女性と同じ中高年に設定されることが多いようだが、それを若い女優にあてたのはルパの工夫だろう。破滅へと突進していく「不条理パンク」的作風の中で、リアリズム型の演技における集中力が切れないところに、ルパの俳優の力量の高さを垣間見ることができた。

『ファクトリー2』

『ファクトリー2』(2008年)は8時間の大作だ。2008年初演時に二日に分けて上演されたが、ヨーロッパ演劇賞行事用上演では午後4時からの一回上演だった。

『ファクトリー2』は、1960年代中葉においてアメリカン・ポップアートの発信地となったアンディ・ウォーホールの「ファクトリー」を舞台とする、ルパのオリジナル作品である。しかしこの舞台は、ウォーホールと彼等を取り巻く「スーパースター」たちの綿密な研究に基づいているものの、あくまで歴史にはこだわらない虚構として作られている。プログラムの登場人物名リストには、彼等のファーストネームだけが並んでいる。この作品は、アンディ・ウォーホール、彼のシルバー・ファクトリー、そしてファクトリー神話の一部となりその構築に貢献した人々をめぐる、あくまでインプロビゼーション主体の幻想となのだ。

  それまで主に中欧の小説を舞台化してきたスタイルをすてて、ビデオカメラを多用する作品に仕立てた『ファクトリー2』。43年生まれの巨匠が若者のおもちゃに手を出したかと皮肉な見方もされたが、授賞に合わせて出版されたルパのインタビュー集によると、これはウォーホールに啓発された「俳優の状況に関する問いであり、演技という冒険のしばしば乱雑に散らばった未知の諸相にかんする問い」なのであるという(Krystian Lupa, ‘Rozmowy/Conversations,’ Notatnik Teatralny, 54-55 [Wrocław, 2009], p. 357. このインタビューは2007年のものである)

ウォーホールは映画を撮るにあたって、俳優を、キャラクター表象のための演技者としてではなく、「パーソナリティ」として捉えた。彼の『チェルシー・ガールズ』のような映画は、物語を語らないし、俳優がキャラクターに完全没入することもない。ほとんどのウォーホール映画において実名で登場する「スーパースター」達が行う行為は、彼等の「生」ではなく、あくまで「パーソナリティ」にしたがうものである(同p. 358)。映画の専門家でもあり、学生時代に映画を志したこともあるルパだけに、ウォーホールのファクトリーでの芸術活動に材をとった『ファクトリー2』は、演劇の中核である俳優の存在を問い直す実験となりえたのである。

Wednesday, 1 April 2009 Wytwórnia Filmów Fabularnych, Studio B Factory 2 directed by Krystian Lupa, photo by Zbyszek Warzyñski

Wednesday, 1 April 2009 Wytwórnia Filmów Fabularnych, Studio B Factory 2 directed by Krystian Lupa, photo by Zbyszek Warzyñski

『ファクトリー2』の幕開けはウォーホールの16ミリ白黒映画『ブロージョブ』 (1964) のファクトリーにおける試写会の場面である。ウォーホール・スーパースター達が一堂に会して、沈黙のうちにスクリーンを見つめる。そのまなざしを、観客も映画を観ることで共有するわけだ。スクリーンにはスチルフレームの中、肩から上しか映っていない美男が、題名の示唆する行為中、何度も恍惚のうちに目を閉じる。とめどなき射精である。映写が終わると、長い沈黙の後、参加者達が感想を述べ始める。<br> ルパはこの作品の14ヶ月にわたる創作過程において、ウォーホールが固定カメラで行った行為を自分も実験したという。彼は実際に部屋に閉じこめられ、カメラという窃視圧力に晒された自分の俳優達をビデオに撮り、そのビデオを作品中で用いることで、「演技」を介在させない俳優達の「パーソナリティ」の露出狂的かつ刹那的表出の仕方を探ったのである。

この窃視圧力とは、光景の最中にありながら、ひたすら受動的で浮遊する視線のことである。それはウォーホールその人であり、また現代のリアリティTVの文脈でいえば視聴者のことだろう。『ファクトリー2』では、ウォーホール・スーパースターの一人であるヴィヴァは、あらゆるレッテルを拒むようなウォーホールの浮遊する受動性にいらだっている。ある時、ヴィヴァは、一度部屋を出ると、アンディ・ウォーホール風の男装をして舞い戻ってくる。それを見たアンディは、自分も部屋を出ると、しばらくしてマリリン・モンロー風の女装をして舞い戻ってくる。ファクトリーでは男装のヴィヴァと女装のアンディが対峙する。ヴィヴァは目を伏せる。アンディはあくまで自己を定位することを拒むのである。

二度目のインターバルの直前の場面では、アンディがボーダーシャツにブリーフという姿で電話をとる。電話の向こうのブリジッド・バーリン(イヴォーナ・ビエルスカ)の姿がスクリーン上には大写しになっている。彼女が際限なく自分の掃除癖の話をしている間(書類は切り刻んでトイレで流すことまでするという)、アンディは奇妙な格好のままで朝食のトーストを食べ、突然絵を描き始める。あたかもとめどなき排泄のようなブリジッドの独白が、アンディのポップアート魂を刺激するのである。

二度のインターバルを挟んだ『ファクトリー2』を三部構成とみなして、そこにある図式を見てとることはできるかもしれない。第一部冒頭の「ブロージョブ」試写会はとめどない、そして不毛な射精である。これをあてどない生産と考えようか。第二部の終わりのブリジッドの告白は、強迫症的消費であり、やむことをしらない排泄である。第三部、つまり映画の撮影後、ウォーホールと取り巻き達が集合写真を撮るのだが、幕切れではそこに三発の銃声が聞こえてくる。ウォーホールに対して向けられた銃声だが、彼のことを少しでも知っていれば、ここでウォーホールが死なないことは観客にもわかっている。よってこれは先延ばしにされる死である。あてどない生産。やむことをしらない排泄としての強迫症的消費。そして先延ばしにされる死。これこそ資本主義の過程であると論じることができそうである。

ポップアートをこの過程において論じるということは、カメラの前で露出狂的に自らを晒すリアリティTV的状況における発信者と受信者を論じることでもある。極端に受動的で捉えどころのない(時に寝ているときさえある)ウォーホールとは、現代のTV視聴者の謂いなのかもしれない。ルパは演技というものの現代的特質を探求するために、ウォーホールを取り上げたのである。

『マリリン』

Sunday, 5 April 2009 Studio ATM Persona Tryptyk - Marilyn directed by Krystian Lupa photo by Zbyszek Warzyñski

Sunday, 5 April 2009 Studio ATM Persona Tryptyk - Marilyn directed by Krystian Lupa photo by Zbyszek Warzyñski

『マリリン』では、がらんとしただだっ広いビルの一室に、マリリン・モンローがいる。彼女は、カメラのフラッシュから、さらには「世間が求めるモンロー像」という圧力から逃れるために、この部屋に引きこもっている。彼女は、『カラマーゾフの兄弟』のグルシェンカの役を演じることで、今までのセックス・アイコンとしての自分から脱却したいと夢見る。そこを様々な人が訪れる。彼女に求められている役を演じさせようとするメソッド演技のコーチ、モンローのイメージを複製するカメラマン、彼女をセックス・アイコンとしてしかみない闖入者、そして彼女の精神分析医。モンローは仮面としてのペルソナと、自己が求める人格との溝を埋められないまま、精神分析医の求めに応じ、彼の招待を受け入れることとなる。しかし彼女が連れられていったところは精神科の病棟であった。彼女は分析医と患者達のまなざしに、モンローとしてのカツラと衣装を身につけて晒されることになる。モンローは服を脱ぎ、前を隠す。舞台のスクリーンではモンローの蝋人形が燃やされる。これはまさに『ファクトリー2』における窃視的視線を暴力的に用いた「治療」となるのだ。

「ペルソナ三部作」のうちの一作目としてマリリン・モンローを扱っている『マリリン』はワーク・イン・プログレスとして公開された。残りの二部ではロシアの神秘主義者グルジエフと、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユを扱うという。「ペルソナ」という言葉は、ルーパが傾倒しているユングの心理学用語である。彼は『ファクトリー2』での探求活動を、ペルソナと影の問題として再展開しようとしていたのだろう。


About 野田学
(のだ・まなぶ)英文学。明治大学文学部教授。1963年生まれ。著作に『シェイクスピアへの架け橋』(共編著)、『八〇年代・小劇場演劇の展開・演出家の仕事③』(共著)など。現在『シアターアーツ』誌編集長、国際演劇評論家協会 (AICT/IATC) のウェブ・ジャーナル Critical Stages (http://criticalstages.web.auth.gr/) の編集部員。
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