クイケンの「マタイ」、2016年3月に来日
シギスヴァルト・クイケン
最小人数で紡ぐ、最高に美しい受難の物語
まずはひとつ動画を見てほしい。とは言ってもこれは演奏時間が約二時間の、バッハの大作「ヨハネ受難曲」全曲なのでお時間の許す範囲でご覧いただければ幸いだ(1987年に収録されたシギスヴァルト・クイケン指揮、ラ・プティット・バンドの演奏、ラ・プティット・バンドによる公式配信)。
字幕はないが、アリアを「歌手と音を出す奏者だけ」で見せるなど視覚的にわかりやすく作られた良い映像だ(歌詞が気になる方はWebで検索してほしい、必要なら総譜も容易に入手できる)。福音史家にはクリストフ・プレガルディエン、アリアにはアンドレアス・ショルほかが参加しており、またオーケストラが演奏する見慣れない古楽器を見るだけでも楽しく、また寺神戸亮や鈴木秀美らの姿も見受けられることも感慨深い。もう30年近くも前の、若き日の彼らの姿を見られるのも興味深い動画である。
さて映像をご覧いただいて「小さめのオーケストラと合唱、そして独唱による編成だな」と思われたかもしれない、「作曲された当時の」合唱、オーケストラとしては十分以上に大きい編成なのだけれど。しかし、現在のシギスヴァルト・クイケンとラ・プティット・バンドはこの映像で見られるものよりずっと小さい編成でヨハン・セバスティアン・バッハのミサ曲 ロ短調、二つの受難曲、そしてクリスマス・オラトリオを演奏、録音している。
特に声楽パートは合唱と独唱をOVPP(One Voice Per Part)、つまり声楽については合唱と独唱の別なく「一つのパートを一人が歌う」スタイルを採用して、楽譜にある音を響かせるために必要な最小の編成で演奏しているのだ。結果、音楽の「線」が絡みあうさまが自然に浮かび上がり、バッハの大作の持つ別の美しさが浮き彫りとなった録音は絶賛されている。そして発表された2016年3月の来日では、そのアプローチによる演奏がついに体験できることになる、それもバッハ最大の傑作「マタイ受難曲」で。
こういう演奏会が貴重な機会だということはわかっていても、演奏時間二~三時間と演奏時間が長い、それにキリスト教に不案内だ、などの理由もあってつい「マタイ受難曲」を敬遠している音楽ファンも少なくないかとは思う。しかしマタイ受難曲はバッハの作曲技術の粋を尽くした傑作であるのみならず、作曲された当時の聴衆には「まるでオペラ(のように感情的)だ」と評されたりもしている感動的な作品なので、基督教徒の方もそうでない方も、構えすぎずにまずコンサートに行かれてはどうだろう。
受難曲が描き出す場面は”最後の晩餐”の前からキリスト処刑を巡る数日間の出来事だからどなたもまったく知らないということもないだろうし、今回の演奏会なら字幕付きの上演だから歌詞について心配する必要もない。二群のオーケストラと声楽が紡ぐ最高に美しい受難物語を、ぜひ会場で体験してみてほしい。最小にまで刈り込まれた編成から、きっと作品の持つ最大の可能性が導かれることだろうから。
2016年3月のシギスヴァルト・クイケン率いるラ・プティット・バンドの「マタイ受難曲」は、初台の東京オペラシティ コンサートホールでは3月5日(土)に、横浜の神奈川県立音楽堂では翌6日(日)に開催される。はオペラシティ公演が8月28日(金)、神奈川県立音楽堂公演が10月23日(金)に一般発売の予定だ。
……せっかくの機会なのだから、残響が美しいオペラシティで音楽の「響き」を、そして「木のホール」の愛称で知られる音楽堂の自然な残響で音楽の「線」を、と個性の異なる二つの会場で同じ演奏家による一つの作品を聴き比べてみるのも一興であろう。それがラ・プティット・バンドの「マタイ」であるならば何の不足があるだろう?