『ゴッホとゴーギャン展』に行く方必見! 臨床心理士が読み解く、ゴッホの孤独とは
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2016年12月18日まで、上野の東京美術館で『ゴッホとゴーギャン展』が開催されている。これから行く予定でいる方も、すでに足を運んだ方もより本展を楽しめるよう、臨床心理士でもある筆者の視点から、ゴッホの人生をご紹介したいと思う。
今から2年前の夏、旅行先を検討している時、本屋で『地球の歩き方』をパッとひらくと、ゴッホ終焉の土地である、オーベル=シュル=オワーズが目に飛び込んできた。即座に、そこへ行くことに決めた。その時に撮影した現地の写真にも、ぜひ目を留めながら読んでいただきたい。
ゴッホの生い立ちから終焉まで
まずは、彼の人生を追いかけてみよう。フィンセント・ヴァン・ゴッホは1853年、オランダの小さな村に生まれた。16才で実家を離れ、画商グーピル商会のハーグ支店に4年間務める。失恋をきっかけにパリ支店に転勤するも、その後解雇される。父の影響もあったのかその後ゴッホは、聖職者を目指し、25歳で伝道師の仮免をとってベルギーの炭鉱地区ボリナージュに赴任。そこで貧しい労働者たちに強く心を寄せ、自分を犠牲にしてまで手を差し伸べたが、次第に身なりがボロボロになっていった。それが、教会から聖職者としての評判を落とすと考えられ、免許を剥奪されたゴッホは、ついに芸術の道への足を運び入れることになるのだ。
しかし、人間関係のトラブルも絶えず、常軌を逸する激しい言動をするゴッホに、父や親戚たちは見切りをつけていく。唯一、グーピル商会に勤めていた弟のテオが彼の経済的支援を生涯にわたり行ったのだという。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「ジャガイモを食べる人たち」 1885 ファン・ゴッホ美術館
初期のゴッホの作品は、ベルギーで見た苦しい生活を作品に描いており、このように色彩も重く暗いトーンで満ちている。これは貧しい生活に対する単なる同情ではなく、誠実な人生を送る人々への尊さから描かれているようにも感じられる。
1886年、32歳のゴッホはテオを頼ってパリに移り住んだ。そこで他の画家たちから強い刺激をうけたゴッホは、様々な技法を学んで作品に取り入れていく。そこから、色彩豊かな作品へと変化していったのだ。
ここがその頃住んでいた彼の家。この家があるモンマルトルは、かつて芸術家たちが集った地区で、ムーランルージュや映画『アメリ』のカフェからも程近く、パリの中では下町の雰囲気が漂っている。
しかし、彼はどこかパリを息苦しいと感じたのか、1888年に南フランスのアルルに移り住み、半年ほど遅れてやってきたゴーギャンとの共同生活を始める。しかし、それは長くは続かない。2ヶ月で2人の生活は行き詰まり、有名な耳切り事件をきっかけに、ゴーギャンはパリに戻り、ゴッホはサン=レミの精神病院に入院する。
そこから1年後の1890年、パリから電車で北上して2時間のところにあるオーベル=シュル=オワーズに移り住む。ここが、彼にとっての終焉の地となる。ゴッホは、主治医のもとで、入院生活ではできなかった戸外での絵描きに精を出す。この田舎町は、"ゴッホの町"と言っても過言ではないくらいに、あらゆる場所に彼の絵パネルが飾られている。最後に下宿していた家では、彼の生涯を紹介する映像が上映され、彼の暮らした部屋をのぞくことも可能だ。
家のほど近くの教会。
そして、彼がモチーフとして愛していた麦畑。彼はここで何枚もの絵を描いた。
1890年7月27日、ここで彼は自分の胸に向けて拳銃の引き金を引いた。ゴッホの絵を世に出そうと買い手を探していた弟テオも、ゴッホの死後の6ヶ月後、その後を追うように亡くなった。1890年半ばに彼の作品が賞賛を浴び始めたことを、もちろん2人は知らない。麦畑のそばに、ゴッホとテオの墓が並んでいる。訪れた人々は献花をし、手を合わせていた。
"人生の喜びも悲しみも表現する"
彼の心の病気は一体何だったのか、そして最後は本当に自殺だったのか……。真相はいまだにわかっておらず、様々な解釈がされている。ゴッホは、情熱と狂気の精神世界をそのまま絵画作品に反映しているというイメージが強いが、専門家たちからは彼の絵は正気を失った状態では決して描けないと評価されているほど、構成や色彩などに多様な技法が織り交ぜられている。
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「種まく人」 1888 クレラー・ミュラー美術館
彼の作品に対する思いは、残されていた多数の書簡からも垣間みることができる。テオに当てた手紙にこう書かれていた。「色彩や線を使えば、自分が芸術家として立てた目標を実現できる。その目標とは、人生の喜びも悲しみも表現することだ」
1つの美しい風景から多くのことを感じ過ぎてしまう彼からすると、眼に映るのは単なる風景ではなく、それは悲しみであり、苦しみであり、喜びであり、人生であったのだ。こうして心の中に強い衝撃や感情がわき立つと、人はそれを表現せずにはいられない。自分の中にあるプリミティブな感覚をそのまま表現する、"そのまま"のために彼は懸命に、実直に絵画への探求に情熱を注いでいったのではないだろうか。
僕が僕であるということ
フィンセント・ヴァン・ゴッホ 「ローヌ河の星月夜」 1888 オルセー美術館
筆者が一番好きな作品は、アルルの時代に描かれた《ローヌ河の星月夜》だ。パリのオルセー美術館でこの絵画を見た瞬間、こぼれ落ちそうな光の輝きに目を奪われた。それは、心がぽっと暖かくなるようなそんな明るさでなく、孤独で胸が切り付けられるような刹那的な明るさだった。筆の跡が残っている本物の絵画を見ないと感じることができない衝撃がそこにあった。
実はフィンセントという名前には隠された出生の秘密がある。この名前は彼が生まれる1年前に死産した兄の名前なのだ。青色と黄色の対比の調和が見事だと称されているこの先品から、その名前を背負った彼の中にある深い暗闇と彼の強い切ない想いが対比されているように感じるのは私だけだろうか。
兄の代わりではない"自分"を認めてもらうことから運命がスタートしていたゴッホ。母の愛を強く求めていたこと、宣教師だった父とのすれ違い、自己の確立に苦しんだことなど、多くの人が様々な言及をしている彼の生い立ち。彼の中に「僕は僕でありたいんだ、僕は誰の代わりでもない僕なんだよ、僕を認めてよ」と根源的な苦しみがあるのではなかろうか。自分は本質的に誰からも認めてもらえていないんだと感じる時、どんなに人は生き辛いか。たとえ、成功しても賞賛を浴びても、痛みが身体の周りに煙のようにしつこくつきまとう。
ゴッホの場合、生きている間に彼の望む成功は得られなかった。賞賛さえも浴びなかった。人として極限に生きながらも、こんなにも懸命に絵を描き続けることができるものなのだろうか。僕が僕のままで生きていくための積み重ねを、絵を通して行っていたのかもしれない。僕は僕のままで生きていけるはずだという希望と、僕は僕のままではだめだという絶望。その繰り返しの果てにあるものとはなんだろう。労働者たちの姿に強く共鳴してしまう彼が、本当に救いたかったのは彼らの中に見た自分自身だったのかもしれない。
最後にゴッホに言いたい。ゴッホ、きみは苦悩に満ちた人生の中でも堅実に作品を描き続けた。実際のきみがどんな人かはわからないし、私たちは勝手に想像することしかできない。でも1つだけわかることがある。それは、きみの絵画は多くの人の心を動かす力を持つ、とても素晴らしいものだ、ということだ。
文・写真=Yoshiko
会期:2016年10月8日 – 2016年12月18日
開館時間:9:30~17:30(金曜日は20:00まで)
※入室は閉室の30分前まで
休室日:月曜日
観覧料:一般1600円、大高生1300円
HP:http://www.g-g2016.com
公式図録(2016)『ゴッホとゴーギャン展』
ジョージ・ロッダム(2015)『芸術たちの素顔⑤僕はゴッホ』 絵:スワヴァ・ハラシモヴィチ 監訳:岩崎亜矢 翻訳:山田美明 パイインターナショナル