松本幸四郎→二代目松本白鸚、市川染五郎→十代目松本幸四郎、松本金太郎→八代目市川染五郎、高麗屋が37年ぶりの三代襲名へ
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(右から)二代目松本白鸚を襲名する松本幸四郎、十代目松本幸四郎を襲名する市川染五郎、八代目市川染五郎を襲名する松本金太郎
歌舞伎俳優の松本幸四郎が二代目松本白鸚を、同時に市川染五郎が十代目松本幸四郎を、松本金太郎が八代目市川染五郎を襲名することが、2016年12月8日の会見で発表された。2018年1月、歌舞伎座での壽新春大歌舞伎を皮切りに、京都・南座、大阪・大阪松竹座、名古屋・御園座、福岡・博多座で襲名披露興行を行う。1981(昭和56)年、十・十一月歌舞伎座公演で、八代目松本幸四郎が初代松本白鸚を、六代目市川染五郎が九代目松本幸四郎を、三代目松本金太郎が七代目市川染五郎を、直系の親子孫の三代で襲名して以来、37年ぶりの高麗屋三代襲名となる。会見の様子を伝える。
二代目松本白鸚を襲名する九代目松本幸四郎
二代目松本白鸚を襲名することになった松本幸四郎(74)は「(1946年5月『助六曲輪江戸桜』の)初舞台から顧みますれば、71年。色々なことがございましたけれども、私は、今日の日のために今までのことをやってきたのではないのかなとしみじみと思えるぐらい、今、本当に幸せでございます。亡くなった父が命を懸けてやってくれた三代襲名をまた37年経った興行で実現できるということは、ほとんど奇跡に近いことでございます。来年がそれぞれの名前で最後の年となります。最後の年に悔いのないような、自分としては幸四郎を演じまして、息子に孫に手渡していきたいと思います」と挨拶した。
襲名を思い立ったきっかけは、息子の市川染五郎の舞台だという。幸四郎は、昨今の染五郎の舞台を見ながら、特に『伊達の十役』の政岡を演じる姿を見て、「我が子ながら舌を巻きました」と話す。「染五郎の芸が染五郎の器をあふれ出ちゃって、勿体ないような気がしたんですね。ここで器を変えて、幸四郎という器にして、その中にいっぱい芸を詰め込んでいって欲しいなと思っております」。襲名を考えた時期については、「襲名っていうのは半分以上『神懸かっている』出来事でして、説明とか理屈とかじゃご説明できないことなんですね。神懸かりになっちゃうんですけど、そのタイミングというものがあるんですね」と明かした。
夢を問われた幸四郎は「俳優として、悲しみも苦しみもそのままに終わらせないで、苦しみは勇気に、悲しみはなんとか希望に、お客様にも自分自身にも変えられないものかという気持ちでやってきました。それが振り返ってみると、自分の叶えるべき夢だったのかなと思います。そういう思いを諦めずに途中で挫折せずに頑張ってきたので、後を継いでくれる息子や孫が出てきてくれたことが、夢のような気がします。70歳を過ぎて自分の見る夢が本当の夢のような気がしてなりませんのです」と結んだ。
十代目松本幸四郎を襲名する七代目市川染五郎
十代目松本幸四郎を襲名することになった市川染五郎(43)は「ただただ興奮しております。感激しております。正直、それが何なのか分かりません。月日が経って分かってくることかと思います。私自身ずっと歌舞伎役者であり続けたい、舞台に立ち続けたい、そして高麗屋の芸を、代々演じてきた役柄を、自分が体現したい。その思いで舞台に立ち続けております。名前が変わりましても、思いは変わりません。命の限り続けたいと思います」と熱く語った。
「私の尊敬する人の言葉をちょっといただきまして申しますには、襲名するにあたり歌舞伎職人になりたいと。歌舞伎職人を目指すと。その尊敬する方というのは志村けんさんです。志村けんさんが『お笑い職人になりたい、死ぬまで』と仰っていた記事を読んで...」などとも話し、会場を笑わせた。
息子・金太郎へのメッセージを問われると、「頑張ってくださいという(笑)。襲名することは大変なことだと思います。これから子役から大人の役になっていく途中の時期でもございます。肉体的な変化が一番急激に起こることでございますけれども、その時に頑張らないといけないことはたくさんあるんで、今は幸いなことにお芝居が好きみたいなので、それを自分できる体にしていくことが一番大事なのではないかなと思います。そういう気持ちがあるのであれば、そういう役者にしたいと思っています」
八代目市川染五郎を襲名する四代目松本金太郎
八代目市川染五郎を襲名することになった松本金太郎(11)は、緊張した様子で、「松本金太郎です。今日はありがとうございます。再来年八代目市川染五郎を襲名させていただきます。よろしくお願いいたします」と挨拶した。心情を問われると、「まだ実感がないです」。そして、少し照れた様子で「(襲名を告げられ)嬉しかったです。やりたい役は『勧進帳』の弁慶です」と答えた。
少し言葉に詰まった金太郎を見て、染五郎は「襲名する前の年の会見の映像が残っておりまして、せっかくですので、その会見の映像を見ていたんですけど、私の時より30倍は喋っています。私は『はい』しかなかったですね」とフォローをする場面もあった。