「ラルビはアイビーのような人」森山未來が語るシディ・ラルビ・シェルカウイ、そして『sutra(スートラ)』の魅力とは?
森山未來 (撮影=こむらさき)
世界60都市で絶賛の大ヒット作『sutra(スートラ)』がついに日本に初上陸する!ダンス&現代アート界の最高のスターが結集して魅せる、本場少林寺の僧侶19名による大迫力のダンス&アクロバット。演出を務めるのは、舞台『テ ヅカ TeZukA』、『プルートゥ』の演出を務めたシディ・ラルビ・シェルカウイ。シェルカウイがどのような人物なのか、そしてこの舞台の見どころは?彼をよく知り、またダンスへの造詣も深いことで、本公演の来日公演PRアンバサダーを務める森山未來に話を伺ってきた。
――まず森山さんとラルビさんが出会うきっかけから。
僕が2008年に『RENT』という舞台を日比谷シアタークリエでやっていたときに、ラルビがそれを観に来て、楽屋で会ったのがいちばん最初です。2012年にはオーチャードホールで『テ ヅカ TeZukA』という作品をラルビが振付・演出をするということになっており、その3年くらい前からラルビとワークショップを少しずつ重ねていたんです。あの作品は日本とラルビの祖国、ベルギーとの共同制作でした。
シェルカウイの人物像について (撮影=こむらさき)
――森山さんから観たラルビさんの魅力とは?
彼はダンスからキャリアを始めているので、身体に対しての“イメージ”がすごくあるのですが、それにプラスで美術と相まって建築的にものを作っていく感覚があるんですよ。高さとか配置とか空間的なものが彼のなかの美学としてあって、それが『プルートゥ』などをやった時にも生かされていました。その関係図、高さであったり前後であったり、何が起こっているのかを見せる…芝居を見せる、ダンスを見せるだけではなくてポジショニングや空間を数学的に構築しているところがあって、その空間の考え方がおもしろいなあって。もう一つに、彼の頭の中から出てくるアイディアがどう作品に昇華していくのか。その辺りの思考の柔軟さにもすごく惹かれましたね。
――ラルビさんと一緒に舞台を作っていたとき「初めて演じる方からも提案していいんだ」ということが芽生えたと以前おっしゃっていたと思いますが。
ラルビの仕事の仕方というのは、彼自身が踊って振りをつけるのではなく、ダンサーたちを呼んで「こういうコンセプトでこういうフレーズで作りたいからみんなで考えてほしい」と。ソロならソロ、デュオならデュオ、トリオならトリオ。それをみんなにやってもらって、いいと思ったことをピックアップしてみんなで躍る、というやり方でした。あとは「これ、おもしろいから彼にやらせてみよう」というパズリングでものを作っていく人なんです。単純にダンサー自身がそこでクリエイトできなければ話にならない、という考えを持っていて『テ ヅカ TeZukA』をやった時に、僕にとってはそういったやり方は初めての経験だったので、すごく刺激的だったのですが、作品に対して、1つのフレーズに対して、瞬間に対して、お互いに意見を言い合える空気というのが必ずあるんです。もちろん最終的に決めるのはラルビなんですけど、何かそこに対して言いたい気持ちがあれば、ぜんぜん問題ないし、OKだし。そんな空気がありましたね。ラルビの意見と違うなら自分なりの提示の仕方がないといけない。ただ違うと言っているだけではダメだということがわかりました。
作品がどういう風に動いていくか、そこに脚本がある訳ではない。作っていく度に発想が膨らんでいったり、違う道筋を通っていったりすることがある。もちろんラルビに関してもそうなんですけど、キュレーションしていく中で誰かが作ったフレーズを見て、何か違うインスピレーションを受けるかもしれない。また違うアイディアが生まれる。そういう作業を続けていました。
『sutra(スートラ)』の魅力とは (撮影=こむらさき)
――『sutra(スートラ)』もこれまでのやり方と同様に練り上げた結果の作品、ということしょうか?
『sutra(スートラ)』に関しては非常にシンプルだと思いますよ。少林寺の武人を使って、シンプルな木の箱を組み立てて…。僕は彼から直接本作の話を聞いたことがないので、箱や人に対するそれぞれの意味合いはわからないですけど、たぶんラルビは仏教的なことも調べたと思うし、箱1個1個の配置であったり、動作や流れに対して何かしら理論を立てていたと思うんです。ヨーロッパの人たちは日本人のように感覚的ではなく、一つひとつのことに理屈を通すことを強く求めるので。そういうものが全部観る側に伝わる必要はないけれど「どうしてこういう配置になったんだろう」って想像して、作品と会話していくことはお互いにいい作業になると思います。
少林寺拳法の武人の力強い動きを観ているだけでもおもしろいのですが、シンプルに見える木の箱の配置も含め、ただの少林寺拳法のショーで終わっていないところ。そこに音楽が加わって…。
ラルビがやりたい、構築したいイメージって昔から一貫してあるんです。『sutra(スートラ)』は何年も前に作られている作品にも関わらず、特徴的なところはずっと変わらずにある。美術と身体との関係性や、パズリングに関しても一貫している感じがありますね。彼らの中で“マンダラ”のイメージがあるのかもしれないし、“棺桶”のイメージがあるのかもしれない。また、ラルビはアニメもすごく大好きなので、アニメーションの動きをやってみたかったとか、シンプルなことかもしれないけど、発想としてはすごく一貫しているなって気はしますね。
――森山さんから観た『sutra(スートラ)』とは、どんな作品と言えますか?
ラルビがアジアの文化、中国の文化と出会い、それに対するインプレッションというものを大事にした作品だと思います。彼の少林寺との出会い、中国の文化、アジアの文化の出会いを作品にしたという感覚がありますね。少林寺の少年が一人いて、彼と一緒に世界を旅していくというイメージがあるんですけど、西洋の人にとってアジアの文化が、またラルビにとって彼らの文化がどういう風に映っているのか、彼が感じた衝撃がシンプルに表れている作品なんじゃないかなと思います。
僕らが無自覚的に生活の中から受け入れているアジアの文化を、彼らはもっと系統だててそこから出てきた情報を理解しようとするから、僕らよりも精通していることが多い。『テ ヅカ TeZukA』の時は、「まずは手塚治虫さんの漫画を」というところから始まりましたが、結局「漫画、絵ってなんだ?絵ってもともと文字ってことになるよね、日本語は象形文字から。漢字は象形文字からできているよね」という考え方になっていきました。
実は最初、手塚作品の『火の鳥』をやる話だったんですよ。だけどやっていくうちにラルビの中でどんどんやりたいことが膨らんでいって、その同時期『sutra(スートラ)』も手掛けていたからアジアの文化も自分に取り込んでいたので、たぶん自分の中で何かがデカくなりすぎたんでしょう。『テ ヅカ TeZukA』でいいのでは?という話になったんだと思います。
『sutra(スートラ)』は、『テ ヅカ TeZukA』よりはあまり難しく考えずに見れてしまう。シンプルなので、逆にシンプルな方がこちらも想像力が膨らむというか。「こういうものを伝えたい」と提示することが、複雑であればあるほど、こちらはそれを拾うことが重要になってくるけど、この作品に関してはラルビが彼らと出会ったことの喜びに溢れた作品だと思うので、僕は単純に楽しめば良いと思います。彼らの動きを見ているだけで楽しいですから。あまり難しく考えなくて大丈夫です。
『sutra(スートラ)』とシェルカウイについて語る森山未來 (撮影=こむらさき)
――日本で上演される『sutra(スートラ)』では、ラルビさん自身がステージに「演者」として立つことになります。パフォーマーとしての彼の魅力は?
演出にも言えるんですが、ラルビはアイビーみたいな人、ツタ植物みたいな人だと思っているんです。出会ったものに対してすごくナチュラルにオーガニックに絡んでいく、絡んだものをより瑞々しいものに仕立てあげていくというか。踊り手としてもそういうイメージがあります。彼のソロダンスは若い頃に1回やったっていう話だけは知っていますが、それ以降ソロでやったというのは聞かないです。誰かとやることによってその誰かをより魅力的に見せ、そうやることでラルビ自身も美しく見えるっていうやり方をしているダンサーだという印象があります。
彼と仕事をしていて「いいな」と思うことは、最初に受けた印象や最初にいいと思ったことを忘れずにキュレーションの中に置いておけるところ。ダンスを作っていくとき、どんどん複雑化していって、横道に逸れて煮詰まってしまう時がときどきあるんです。そういう時はまずベーシックなところに戻ってくるんですが、ラルビは、自分にとって何が面白かったのかをすごく大事にするし、その一連の流れがおもしろいって感じたらそれはもうそれ以上やらない。掘り下げることもしない。その時のシンプルさを1番大事にするんです。それが一番出ているのが『sutra(スートラ)』だと思いますね。
■『sutra』ダイジェスト動画