熊本で雨傘屋『 夏の夜の夢 』を演出する天野天街( 少年王者舘 )に独占インタビュー

2017.5.31
インタビュー
舞台

天野天街

「シェイクスピアは“こういう風にやったら面白いという気持ちを催させる何かがある」

熊本で活動する役者たちが、年に一度集まる演劇ユニット「雨傘屋」。第2回公演からは、毎年「少年王者舘」の天野天街を演出家として招き、小規模ながらもセンセーショナルな舞台を送り続けている。昨年の公演は熊本地震で延期となり、その仕切り直しとなる今回は、意外にもシェイクスピア戯曲の演出未経験だった天野に『夏の夜の夢』をぶつけてきた! 古今東西の演出家によって舞台化され尽くした感のある名作喜劇を、彼らがどのような世界に仕立て上げるのか? その手がかりを探るべく、稽古で熊本入りする直前の天野に独占取材を試みた。

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■宇宙の果てから人間の細かいことまで、すべて入った言語の玉手箱。

──30年以上の演出キャリアを経て、初めてシェイクスピア作品を依頼された時のお気持ちは。

最初(雨傘屋主宰の)阿部(祐子)さんに提案された時は「他の本を探してほしい」って言いました。シェイクスピアは映画や舞台で何本か観たことはあるけど、特に関心を持てなかったので。でも阿部さんは毎回、一読した時は「何これ?」と思うような作品を薦めてくるけど、結果的にはいつも面白いことになってるから、今回もそうなるんじゃないかという予感……というより信頼があって、『夏の夜の夢』でいくことにしました。

──この作品もやっぱり「何これ?」ってなったんですか?

シェイクスピア自体初めてちゃんと読んだけど、まず宇宙の果てから人間の細かいことまで、すべて「言葉」で入っているなあと思いました。言語の玉手箱ですよ。対比的な比喩がそこら中にあって……有名なので言うと『マクベス』の「きれいは汚い、汚いはきれい」みたいな言葉が、この作品でもいっぱい出てくる。逆のようで同じことを言ってるというブレが好きだし、この感覚はすごくわかると思いました。

雨傘屋vol.7『夏の夜の夢』公演チラシ [コラージュ]アマノテンガイ

──確かに天野さんの作品も、いろんなモノが詰まってるけど「全部あるようで何もない」という感じがするので、結構シェイクスピアと共通する部分があるのかもしれないです。

それも含めて、とにかくいろんなものがいっぱい入ってるから、その分いろんな世界にできると思います。演出家に「こういう風にやったら面白い」という気持ちを催させる何かがあるし、実際どんな攻め込み方もできるんでしょうね。ただ自分としては、これだけ豊かでふくよかなものだったら……実際に稽古に入らないとわからないけど、逆にどんどん狭くしていくんじゃないかと。凝縮しているけど豊かさは一緒だよ、っていう。

──物語の中で、特に興味を惹かれた所はありましたか?

素人芝居をする職人たちが面白いというか、一番イメージがわきます。彼らが演劇の中でもう一個の演劇を建てて、無為な何かを一生懸命やっているというシーケンスが、ある意味のメタ構造となっているように見えたし、相当奥深く思えました。

──職人たちの辺りはさほど重要視されない傾向がありますけど、あの人たちは少年王者舘によく出る「主人公を翻弄するよくわからない集団」とちょっと似てるから、天野さんがそこに一番惹かれたというのは何となくわかります。

記憶を一切なくし、自分たちが今何をしているのかもわかってない、健忘症組合みたいなグループはよく出てきますよね。でもメインになっている4人の恋人の話も、実は「花の惚れ薬」というあからさまな装置を使った「自己喪失」や「アイデンティティーのブレ」の表出に見えますし、妖精の王と女王の辺も「神話的無意識」のデタラメさが「カラッポな自己」を強調しているように見えるんです。
 
──職人ほどではないけど、どの集団もやっぱりどこか自分を失ってる感があると。
 
ただこの話に出て来る妖精たちって、考え方や行動は人間の原理からはみ出してないように感じるんですよ。それに対してあの職人たちの自分たちの見失い方には、とてもシュールリアリスティックで生々しい迫力があると思います。はなから何かを忘れ切ってる者として演劇の中に出現して、世界というものを誤読して、さらにその中で誤読だらけの演劇をやっている……と、何重もの誤読が起こってる。「俺は何者で、何をしてるのか?」ということに一番抵触して、一番バックボーンが見えない夢のような存在。恋人たちも妖精たちも実は夢のようなあやふやな存在だけれども、職人たちはまた違った夢の階層にいて、ある意味明確に「夢としての演劇」を語ってる、あるいは「騙ってる」と感じられるんです。

『フリータイム』(作:岡田利規/2012年) [撮影]梶原慎一


 
■「何もないけどみんな入ってる」ということが、熊本ではできる。

──一般的には、妖精のパックがこの作品のキーマン扱いをされていますが。

台詞だけを読むと、パックの存在はそれほど突出しているとは思えないのですが、万能の「ご都合主義装置」としては、ものすごく便利なキャラクターですね。何をしても許されるのですから、可能性をすごく感じさせます。上演時間をなるたけ短くしたいから、台詞を半分ぐらいカットするつもりですけど、パックの台詞を含めた長いひと続きの台詞は、パックがパッと消えて見えなくなるように、消え失せているかもしれない。

──天野さんが他人の本を演出する時には、自分の世界に引き寄せるために大胆にリライトを入れるのが、もはや儀式のようになってますよね。

今回は「うつくしい言葉の氾濫」が半端じゃないので、中途半端には扱いたくないのですが、実際の稽古の感触次第では、結局いつものように全面的に書き換えることになるかもしれません。

──先ほど言っていた職人のシーンを引き立たせるとか?

書き換えなかったら大したことにはならないと思いますけど、もしそのままやったとしても結果的には明らかに、職人の所だけ違う感触が出て来る気がします。カンですけどね。

雨傘屋『禿の女歌手』(作:ウジェーヌ・イヨネスコ/2014年) [撮影]梶原慎一

──天野さんが雨傘屋でやる時は、映像やダンスや暗転の連続とか、天野演出の常套手段のようなことを全部封印されてますよね。

封印されているのでも、してるわけでもない。実は僕にはもともと、何もない所で演劇をやりたいという思いがずうっとあって。本当はすごくシンプルなことがしたいのに、いつも過剰な方に行ってしまうんです。どんなに時間やお金がなくても「まだ多少は使える」と言われたら、「多少」の中で、できるだけいっぱいやりたくなってしまう。明かりとか音とか人間とかの集合体としてね。それが雨傘屋は「全然ない」に近い、過剰になりようがない状況で作っているから、ある意味では気が楽なんです。でもだからって、本当に何もないわけではないんですよ。ゼロなんてないし、無なんてないんだから。でも、限界のキリキリまで切り詰めたら……。

──そこから何が見えるのか、というのが雨傘屋でやることの楽しさですか?

そう、それが面白い。シンプルで何もないけど、みんな入ってるという感覚。それがそのままできる状態が熊本にあるのが、僕にとってはすごく嬉しいことなんです……今言った「何もない」と「みんな入ってる」って、自己矛盾した言い方でしょ? これってシェイクスピアの「きれいは汚い、汚いはきれい」の対比法と意外と似てるなあと思いました。

──まだ稽古前なので何とも言えないとは思いますが、天野さんなりのシェイクスピアの攻め込み方ってどうなりそうですか?

何か大技を使うことにはなると思うけど、それがどんなものかは、恐らく本番ギリギリにならないと浮かばないでしょう。この作品って、相当当時の役者へのアテ書きでできてるように思えるので、それを今回出る役者たちに変換していく作業になっていく気がします。今回出演者の半分は初めての人だけど、半分は6年かけて付き合ってる、よく知った役者たちなんです。みんなとっても自由で達者でチャーミングな人たちだから、彼らの中からきっと何かが出て来るという感じはすごくしているし、そこに期待したいですね。いずれにせよ「シェイクスピアってこうだ」と思い込んでいる人が観たら、「えー?!」ってなるようなことができたらなあと思っています。

雨傘屋『すなあそび』(作:別役実/2015年) [撮影]梶原慎一

公演情報
雨傘屋vol.7『夏の夜の夢』
 
■日程:2017年6月15日(木)~18日(日)
■会場:Studio in.K.(スタジオインク)

 
■作:ウィリアム・シェイクスピア
■翻訳:松岡和子(ちくま文庫『夏の夜の夢・間違いの喜劇』より)
■脚色・演出:天野天街(少年王者舘) 
■出演:平野浩治(劇団濫觴)、小林夢二(少年王者舘)、椎葉みず穂、松本麻衣子(あったかハートふれあい劇団)、松崎仁美(劇団濫觴)、徳冨敬隆(DO GANG)、コバヤシユカリ、桑路ススム、木内里美(The ちゃぶ台)、結川楓子(DO GANG)、ゆいかわあも(CO GANG)、酒井絵莉子(演劇ユニット「」)、馬渡直実(劇団市民舞台)、冨川優、池田美樹(劇団きらら)、他