インプロ俳優・絹川友梨「即興演劇に役者同士が瞬時にコンセンサスを取りながら演じていくメカニズムを解明したかった。そしてその先に……」
上野学園大学でのワークショップ「音楽をまなびほぐす」を指導する絹川由梨
日本ではまだまだその存在が認知されているとは言いがたい即興演劇(Improvisation=インプロヴィゼーション)。その第一人者、絹川友梨から連絡があった。なんでも東京大学の大学院に所属しているのだという。東大を卒業した演劇人は何人もいるけれど、すでに女優やインプロの講師、大学の先生として活躍していた彼女がなぜにと「?」マークが頭を飛び交う。久しぶりに会うのだったら、その話を聞かねばならぬ。本郷の駅を降りて、あの、あの赤門をくぐる瞬間えも言われぬ緊張感がおそ、おそ……自分の小ささを感じるのだった。
偶然出会ったインプロがすこぶる楽しかった
奈良橋陽子さん(左)と奈良橋陽子さん(左)と
ーーそもそも絹川さんがインプロに出会ったのはどんなきっかけからですか?
絹川 所属していた劇団「遊◉機械/全自動シアター」を退団する時に、「もう演劇やめようかなぁ」と思っていました。才能ないなって(苦笑)。でも不思議なことに、そのタイミングで映画監督としても活躍している奈良橋陽子さんから「シアタースポーツ™をやるから来ない?」と誘われて、ワークショップに参加したらそれが面白かった! シドニーの国立演劇学院(NIDA)でインプロの講師をしていたリン・ピアス先生の指導で、1カ月のワークショップを経て作品を上演するという内容でした。シアタースポーツ™とは、お客さんからお題をもらって、チームごとに即興で劇を作って、審査員の採点で合計点数を競うという形式です。ライセンスを持っている人やグループだけが上演を許可されていて、世界中ではとても盛んなんです。でも当時は、日本語で即興演劇のことを説明してくれる人は周囲に誰もいなかったし、そもそもインプロという言葉すら使われていませんでしたので、私もシアタースポーツ™=即興と勘違いしていたほどでした。友人からは「即興の演劇なんて、エチュードを見せるようなものだから成立するわけがない」と言われたこともありました。でも私にとってはすべてが新しく、すべてが面白くて夢中になれたんです。その後にシアタースポーツ™はインプロの一つに過ぎないと知って、それからインプロの魅力にどんどんハマっていったんです。
インプロを通して“世界”と出会う
絹川が所属する国際インプログループ「Orcas Island Project」による即興演劇の舞台写真(イタリア)
ーーたしかにインプロと言っても、演劇関係者でも稽古でやるエチュードとの違いがわかる人は少ないかもしれませんね。
絹川 シアタースポーツ™はゲームショーのようなスタイルですが、海外ではもっと演劇的なさまざまな形式があって、奥が深いんですよ。ただリン先生が帰国してしまうと日本には先生がいませんでしたから、英語も大してできないのに、良い先生がいると聞くと海外に訪ねていくようになりました。最初はオーストラリア、その後にキース・ジョンストンに学ぶためにカナダ、アメリカのインプロ最先端の場であるシカゴにも行きました。インプロの大先生デル・クローズがまだご存命で、そこのメンバーもものすごくうまいんです。また有名なコメディクラブで連日インプロが上演されているのを見て、インプロがアメリカのエンターテイメント界の大きな部分を担っていることを知りました。その後、仲間と当時大人気だったブルーマン・グループを文字って「イエローマン・グループ」というバイリンガル即興グループを結成しました。日本でインプロやっていた人たちからは否定的な反応もありましたが、イエローマンではアメリカ横断ツアーをやったり、日本でも子ども劇場さんなどから応援をいただき、さまざまな場所で公演しました。こんなふうに海外を行き来しながら、もっと日本で一緒にやれる仲間が欲しいと思い、役者という立場の私が教えるようになったわけです。そして日本に即興演劇を紹介するために、国際芸術見本市(現在のTPAM)に出展しようと思い立ち、私と友人数名で、英語のimprovisationを「インプロ」という呼び名にして、パンフレットを作りました。今では「インプロ」という言葉が普通に使われていますが、日本では私たちが使い始めたんじゃないかな。
「Orcas Island Project」による即興演劇の舞台写真(アメリカ)
それからシアトルのフェスティバルに呼ばれて、そこで出会った仲間に「ドイツのサッカーのW杯とのタイアップで、シアタースポーツ™の世界大会があるから日本チームとして出演しないか」と誘われました。世界中のトップチームが集まりますので、インプロがうまいだけでは勝ち目がないと思い、インプロもできて役者としてもキャリアがあるスーパーカムパニーの今井敦さんと双数姉妹(当時)の佐藤拓之君に声をかけ、3人でドイツに行きました。言語や文化の違う中、W杯と同じようにドイツのさまざまな地域を公演して回るのは大変でしたが、世界中のトップレベルのインプロパフォーマーと出会うことができました。それ以来、海外のフェスティバルにも呼ばれるようになって。今は世界10カ国のインプログループのアートディレクターが集まって結成されたグループ「オーカスアイランド・プロジェクト」の一員として、海外で公演を行っています。同じ時期にインプロを始めた人は何人もいたけれど、なぜ私が認められたかと言えば、遊◉機械/全自動シアターの稽古場でのエチュードの経験やたくさんの舞台に立った俳優としての経験があったからだと思います。
今があるのは遊◉機械のおかげ
ーー絹川さんは遊◉機械では、高泉淳子さん演じる山田のぼる君の相手役の少女キャラとしての記憶があります。そのころの遊◉機械はエチュードから作品を立ち上げることで有名でした。
絹川 相手役なんてめっそうもない! ちょっとした脇役をやらせていただいたくらい。たしかに当時は稽古でエチュードをたくさんやりました。劇団員がそれぞれキャラクターを考えてきて披露するんです。面白ければ展開させられるし、面白くなければボツ。それらを発展させていき、高泉さんがセリフを付け足したり、コンセプトを明確にしていったり、白井晃さんや吉澤耕一さんが作品としてまとめていくんです。でも私自身は大変さ・難しさばかりで、エチュードや集団創作の本当の重要性はわかっていなかったと思います。劇団は上昇気流に乗って素晴らしい作品を創り出していきましたが、私は自分のことばかり。うまくできない、どうしたらうまくできるかということばかり考えていました。たまに褒められても再現できないし、ダメ出しされても理由がわからない。周りからの評価を気にして、いつも不安でした。面白くないと出番がどんどん減っていくし、後輩の役者さんがいい役をもらっていくし辛かったですね。今の私ならあの時の自分にアドバイスできますけどね(笑)。「自分、自分」と内に向かうばかりの意識だと外側とのインタラクション(相互作用)がなくなるから、刺激が減るし、思考がネガティブになる。脳が活性化しないという状態ですね。そうなるともがいても面白いアイデアが出なくなる。負のサイクルにはまるってね。
演劇のいちジャンルとしてのインプロになってほしい
ワークショップ(フランス)
ワークショップ(フランス)
ワークショップ(東経大学)
ーー絹川さんはインプロにどういうスタンスで向き合っていらっしゃるのですか?
絹川 私は小劇場出身だったこともあって、インプロを演劇としての文脈でやっていきたいんです。15年くらいは定期的に公演を続けていましたが、商業的には広げられてないのが実際のところ。いろいろな理由が考えられますが、まずは私の力不足。私は前に出て行くタイプでもないし、特別な才能があるわけではありません。それから日本の役者さんには「即興は見せるものじゃない」という固定概念があるのではないかと思います。役者さんとインプロをやっていた時期に感じたことは、彼らは即興の良さはわかってるけど、あらかじめ作品の内容が伝えられないし、質に関しても「絶対いいから来て!」と言い切れずに困っていました。だから積極的にを売ったり宣伝したりできなかったのかもしれません。
ーー僕も審査員などやらせていただきましたから、その楽しさはわかりますけど、「面白いから見に行こう」くらいしか言えませんでした。
絹川 でしょう(笑)。海外では即興的なパフォーマンスはとても一般的。人気テレビ番組にもなっている。アメリカやカナダではインプロを学ぶことが役者として成功するための登竜門で、演劇学校には必ずクラスがある。そしてインプロの劇場はいつも満員。一方、日本のお客さんが劇場に行く決め手は、演出や劇作、主演が誰かですよね。「どうなるかわからない」ものにはなかなか来てくれない。すでにマイナスイメージがある日本で根付かせようとしているのですから、やはり時間がかかるのではないでしょうか。
ーー2017年9月には演劇大学連盟で「シアタースポーツ™」をやりましたよね。評判も高かったと聞きます。
絹川 東京都内5つの演劇実践系大学が集まった演劇大学連盟の企画で、東京芸術劇場シアターイーストをお借りして上演しました。5つの大学からオーディションで選ばれた36人の学生が出演して、私はインプロのトレーナーとして参加しました。この公演は全日満員で合計1000人を動員しました。やる前は「即興なんてものをやって、お客様からお金をとっていいのか」などと否定的な意見を演劇関係者からばしばしぶつけられましたが(苦笑)、公演は大変に評判が良く、東京芸術劇場副館長の高萩宏さんからは「面白いから、恒例行事として毎年やったほうがいいんじゃないか」と言っていただきました。なかなか派手に展開できていないインプロではありますが、まだまだ可能性はあると思っています。それに今、インプロは面白いと思っている若い人たちが結成した小さなグループがいくつも生まれているようなので、彼らにも期待したいですね。
演劇系大学共同制作 vol.5 「Theatresports™」
演劇系大学共同制作 vol.5 「Theatresports™」
応用インプロ日本支部をフェイスブック上に立ち上げた、インプロを支えたい
ーー絹川さんご自身のインプロの活動はどんな感じなんですか?
絹川 私はプロとしてすでに活躍している役者さんたちと即興演劇をやるという企画を始めています。まだ少ないけれどライブを始めています。即興演劇は面白い人たちがやるとすっごく面白いんです。それを知って欲しい。
一方、インプロの考え方やエクササイズを応用して、教育・医療・福祉・ビジネスに生かす活動はかなり活発になっています。演劇を応用して行う活動を応用演劇といいますが、それに準ずると応用インプロとでも言えるかなと。こちらも国際的なネットワークがあり、ワークショップのファシリテーター、教育者、ビジネス研修講師、研究者などが集まって、情報交換をしています。年1回国際カンファレンスも開かれています。ただ共通言語が英語なので、日本の人たちがなかなか参加しづらい。そのために日本支部という位置付けで、応用インプロ日本支部をフェイスブック上で立ち上げました。まだまだカンファレンスまではいきませんが、関東と関西でオフ会を開いたり、なかなか盛り上がってますよ! ただ私はアカデミアの世界に入ってしまったので、インプロの公演やワークショップを企画したり出演したりすることがものすごく大変になってしまいました。勉強しなくてはならないことが多すぎて、なかなか動けなくって。教授からも「絹川さんはパフォーマンスをやるんですか? 研究者になるんですか?」とプレッシャーがかかる(苦笑)。本当はもっとやりたいんだけど、止むを得ずパフォーマンスはセーブしています。
ただね、やっぱり続けなくちゃと思い、今年からサークルを立ち上げました。私は東京大学の学生なので、学生サークルが作れるんです。東大に4年もいたのに今まで気がつきませんでした(苦笑)。東大内にサークルを作れば、そこで研究もできるし、東大生に知ってもらうのもいいし、ここをハブにしていろいろな人たちにかかわってもらって、将来的にインプロの公演もできるといいなと思っています。
さまざまなものを「情報」と捉えて、ジャンル横断的に考えるのが「学際情報学府」
東京大学駒場キャンパスにてインプロの実験中
ーー本当はそこを聞きたいんですよ! 絹川さんが、東京大学の大学院にいらっしゃるということで無性にお話をうかがいたくなりました。
絹川 うふふ。「学際情報学府」というところで研究をしています。
ーーガクサイ?
絹川 学問って、医学とか哲学とか芸術学とか、いろいろな種類に分かれているじゃないですか。それをまたがって研究するのを「学際」と言います。そしてさまざまなものを「情報」と捉えて、学際的に研究します。先輩には落合陽一さんとかドミニク・チェンさんなんかもいらっしゃいます。
ーーほおー。でもインプロは情報学とどう関係があるのです?
絹川 そう思いますよね。まず演劇を情報だと捉えます。情報とは、人と人が何かを伝え合う内容ですよね。新聞だったら文字で、テレビだったら映像や音声で情報を伝えます。そう考えると劇作家や演出家は、あるコンセプトや物語という情報を、役者という媒体を通して伝達しているとも考えられる。つまり演劇は、情報の伝達行為なのです。そのほかの物事も情報と捉えることができますので、ここではいろいろな研究がされています。コマーシャルや新聞などメディア研究、ITやテクノロジー、社会学的な視点から世の中の動向を考える研究―たとえば漫画やニコニコ動画に関する研究、博物館や美術館も情報を伝える場だという視点での研究、赤ちゃんとコミュニケートするためにおしゃぶりの研究している人、音楽やダンスの研究をしている人、経済学的な側面を研究している人などなど。だから演劇業界とは別の意味で面白い人たちがたくさんいらっしゃいます。仕事をしながら研究している社会人学生も多いですよ。アークヒルズにオフィスを構えるベンチャー企業の社長とか。また同じ研究室には、おんぶとだっこの研究をしている方もいらっしゃいます。海外からだっこ紐を輸入販売している会社の女性社長さん。みんな受験して入ったんですよ。私は40代半ばで受験して入りました。奇跡だと思いましたが(笑)。だからやりたいと思えば全然遅くないし、いろいろ面白い道がある。
私は長く小劇場にいて自分のことで一杯いっぱいで、社会のことを全く知らずに生きてきてしまったので、今ごろいろいろ勉強しています。もっと若いころにこういう道があることを知っていたら、もう少し早く行動できたと思うと、悔しい(笑)。ですからせめて「人生何をやるにも遅いことはない。いろんな選択肢がある」ということを、身をもって示すことで、若い人たちに可能性を示してあげたい。おこがましいですが、そんなことを思います。
佐々木正人先生の「アート/表現する身体―アフォーダンスの現場」との出会いが東大への入り口に。しかし……
ーーいやいや、そこ簡単に話していますけど、そもそも東大の大学院に入ることが大変じゃないですか。どういう経緯で東大にたどりついたんですか?
絹川 これも奈良橋さんからいただいたご縁なのですが、彼女がキャスティングをしていたニュージーランドの映画のオーディションに受かって、初めて映画に出演しました。そこで出会った映画プロデューサーと結婚してニュージーランドに移住しました。日本では役者としてぱっとしませんでしたが、ニュージーランドの仕事でいくつか賞をいただいたんです。カンヌ映画祭にも行ったんですよ〜。移住を決めたのは、今までになく自分に興味をもってもらえてるという実感があったからでしたが、実際に行ってみるとあまり仕事がなくて。アジア人の役者が出演する舞台や映画はそんなにないんです。現地で暇だったので、知り合った演出家・ドラマツゥルクの先生が担当している、オークランド大学大学院で演出の勉強を始めました。最初はその授業だけ受けさせてもらっていたのですが、これがまた面白くて。そしたら先生から「ちゃんと入学すれば?」と言われました。しかし私は演劇のために大学を中退していたので大学院には入れません。それで改めて通信教育で日本の大学を卒業しまして、その後オークランド大学大学院芸術学部ドラマ科に入学して、マスター、つまり修士号を取りました。
ーー遅れてやってきた、学生ライフ!
絹川 そう! そして驚いたことに大学院を首席で卒業したんです。もうびっくり(笑)。好きな演劇を思いっきりやれたので、時間も忘れて没頭したのが良かったんでしょうね。それで大学院から「博士課程に進んだら? 首席だからスカラシップが取れるよ」と言われました。それまで全く考えたこともなかったのに、博士課程進学への道が突然開けました。「こんな機会は滅多にないから、じゃあやろっかな〜」と。すでにその時、私はインプロを研究したいという思いがありましたので、それを先生に伝えたら大学側から提案されたテーマは「コメディアデラルテ」というインプロの原点に関してでした。けれどこれを勉強するためには、イタリア語ができないとダメなんです。いくらなんでも無理ですよ。それに行くなら日本の大学院だろうなと漠然と思っていました。こんな感じでどこの博士課程に行くか、なかなか決まらなかった時に、佐々木正人先生の「アート/表現する身体―アフォーダンスの現場」という本に出会ったんです。佐々木先生はアフォーダンス(環境が動物に対して与える仕組み)の理論を使って研究されている方です。この本には、イッセー尾形さんの演技、平田オリザさんの演出、文楽の人形師の呼吸方法などの研究事例が書かれていて、ものすごく可能性と興味を感じました。特にイッセー尾形さんの研究している方に会ってみたいと思ったら、私が非常勤講師を務めている玉川大学にいらしたんですよ、しかも隣の席だった! さっそくこちらの思いを打ち明けると「佐々木先生に会えば?」とアドバイスをくださったので、いきなり東大に行ったんです。「たのもう! ドンドン!!」って。おばさんだから、そういうところは躊躇がない。怖いもの知らず(笑)。そこで自己紹介して、こういう研究がしたいんですと伝えたら「それは面白い。うちに来なさい!」と。
絹川を東大キャンパスライフに導いた恩師・佐々木氏の著書
ーー「来なさい!」ですか? もしかしたら、東大に入れてくれた????
絹川 入れてくれるの?と思うでしょ。いやいやここからがまた遠い道のりが(苦笑)。「入学試験まで期間があるから、ゼミに来なさい」と言われて行ってみたら、みんなの話していることが全然わからなかった(苦笑)。レベルが高すぎて理解できない。そこで語られていた日本語が理解できないの、絶望的なわけ。佐々木先生に「先生、私はみなさんが言っていることがまったく理解できません」と正直に伝えたら、「じゃあ芸術関係の研究をしている先生がいらっしゃるから」と岡田猛先生を紹介していただき、会いに行きました。岡田先生は即座に「即興演劇か、面白いね」と言ってくださり、いっそのこと学生にならなくてもいいから、共同研究をするのもいいねっておっしゃってくださいました。そして岡田先生の研究がすごく面白かった。ピカソが創作のテーマをどうやって見つけて、そのテーマがどう変化していったかという。いま考えるとちゃんと理解できていなかったけれど、その時は少なくとも「面白い」と感じた。こういう研究をするにはどうすればいいか聞いたら、「研究員として入れてあげるから、研究の手伝いをしながらゼミに来れば」と言われたんです。それで研究員としてお給料をもらいながら、先生との共同研究が始まりました。
ワークショップ「音楽をまなびほぐす」上野学園大学にて
ーーなんか話を聞いていてドキドキします(笑)。
絹川 うん。でも最初は「博士課程に入りたい」って言ったの。すでに修士号は持っているし、首席というプライドもあるし、また修士からやり直すなんて時間がかかりすぎると思って。まぁ自分の力を過信しすぎていたと後で気がつくんだけど。でも先生には「東大の場合は博士課程にいきなり入るのは無理だから修士から始めなさい」と言われて。それでも納得できなくて、その年に博士課程を受けた。でも見事に落ちました。そこで研究員をやりながらゼミに通ったり、論文というものを読み始めたり。そうするうちにわかったのは、何よりも自分の頭の悪さ(苦笑)。もう全然歯が立たないわけです。勉強し直さないとダメ。今までは演劇人として演劇の勉強をしてきたので、それはまぁできてたわけです。でも次の土俵は、演劇に加えて、認知心理学とか認知科学とか別の分野が必要。先生に「修士から入り直します」と伝えたら「そうだろう」って(笑)。それで修士に入るための受験勉強を半年くらいやって、受験して、修士に受かってーーそれもびっくりだったんだけどーー私は社会人だったので、通常は2年で終わるところを3年かけて修士論文を書いて、修士課程を修了して、博士課程の審査を受けて、これも奇跡だけどラッキーなことに進学することができて、ここにいます。博士課程は最低で3年、最長6年までいられます。
即興演劇に役者同士が瞬時にコンセンサスを取りながら演じていくメカニズムを解明したかった
ーーそこで何を研究しようと考えたんですか?
絹川 もちろん即興演劇。自分が良いと思うことを、なぜ、どんなふうに良いのかということを明らかにしたいという、執念かも(苦笑)。
即興演劇って、何も決まっていない状態から、役者がその場で思いついたことを、相手役と瞬時にコンセンサスを取りながら作っていくもの。たとえば即興をやっていると、その時のどうなるかわからないスリリングな感じとか、相手から投げかけられたせりふや動きによって、その場で何かを創り出すという創作の原始的な喜びとか、同時にいくつもの可能性を探っているとか、いろいろクリエイティブなことが頭の中で繰り広げられる。アドレナリン出まくり(笑)。そのプロセスをアカデミックな文脈で説明したい。実はそれは台本があっても同じなんです。役者は決まったせりふを言いますよね。でも本番になったらお客様との呼吸だとか、相手がせりふを忘れたりだとか、状況は毎日違う。でもそれに対応できる役者もいれば、台本のせりふや段取りに引っ張られてしまう役者もいる。どういう理由でそうなるのか。それについて、なんとなく「いいよね」「難しいよね」ではなく、具体的に証明したい。さらに即興性は人間の営みに無くてはならないもの。普遍的に存在するもの。だから研究する意義があるんじゃないだろうかって思って。
東京大学駒場キャンパスにてインプロの実験中
ーーなぜ、そんなことを思いついたんですか?
絹川 それは自分が演技者だからかな。演劇、演技、即興性、役者、これらがすごく愛おしい。役者は傷つきやすく、舞台は神聖なもの。時間芸術だから、時間が来たら終わってしまう。ただこの時間の中で行われていることって、ものすごく濃いんです。演劇は、人間が太古の昔から行っている情報伝達を、芸術にまで高めたもの。そこには人間にしかない高度な能力や技術が使われているはずなんです。即興の演劇では、さらに高度な人間の身体感覚能力が使われているに違いありません。あんまり評価されていないけど。それを一般の人がわかる言葉で伝えたいと思ったんだと思う。
そして私はいろんな人を対象に即興や演劇のワークショップをやっているんですけど、最初のころは、自分がやっているインプロの良さについてうまく説明できなかったという反省があります。たとえばビジネスマン対象の企業研修だとこう言われます。「これがうちの会社の利益にどうつながるの?」って。もちろん1回の企業研修で、会社の利益が上がったら素晴らしいけど、そんなことあるわけはない。でもそこをきちんと論理的に説明できないと私の仕事は打ち切りになってしまうし、「演劇やワークショップなんか意味ない」と言われてしまう。それが悔しい。そこで企業人にも理解してもらえるように勉強をして、彼らが好きな数字やロジックを使うようにもなりました。それにしても企業の人たちって、本当に数字が好き。感覚的なものごとを信じない。それでいいのかなと疑問に思った。でも疑問を言語化して、ちゃんとしゃべれなくちゃだめなんですよ、論破できなくては。たとえば普通の企業研修では身体は動かしませんので、ストレッチやエクササイズをやると「なんでこんなこと、やらされなくちゃならないんだ」と言われます。以前は「これは大事なことなので」ぐらいにしか答えられなかったけれど、今ではこう言えます。「ストレッチでは動かしていない身体を動かし、凝り固まった筋を伸ばします。このように身体を動かすことは、脳の活性化につながります。脳は身体の一部であり、脳を活性化させるためには身体運動が一番効率の良い方法です」と。このように武装するために、もっと勉強したいと思ったのかもしれません。
絹川の著書
あともう一つは、さっき思い出したんですが、遥洋子さんの著書「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」という本を昔読んたことがあるんです。これはコメディエンヌの著者が、上野先生のゼミに通って勉強するうちに、だんだん言葉が使えるようになるというプロセスを書いた本で、勉強することは言葉という武器を持つことなんだなぁと思った。いつも感情に振り回されしまう私だけれど、もしそういう言葉を持てたら痛快だろうなぁ〜と思ったことが頭の片隅にあったのかもしれません。
本当に長く深く研究したいものを、さらにポイントを絞って
ーーなるほど。研究内容についてもう少し具体的に教えてください。
絹川 即興演劇の研究といっても、いろいろな切り口が考えられます。歴史研究のような質的な研究もあれば、モーションピクチャーを使うような工学的な研究もある。巷で流行りの脳科学の手法もある。しかしそもそも日本では即興演劇はあまり研究がなされておらず、定義さえ曖昧です。さらにインプロという言葉は一人歩きをし、学術論文のレベルでも誤解が見受けられる。そんな中で本当に研究したいものは何かをものすごく考えました。岡田先生もそこを何度も聞いてくださいました。研究はすごく時間がかかるから本当に好きなことでないと続かないんです。ワークショップの研究もあり得ましたが、私の場合は、ワークショップよりも実践していくことのほうが重要だと思えました。それじゃあ研究すべき大事な点はどこか? いろいろ悩みましたが即興演劇の特徴を考えた中で、自分が実感を伴って「何かある」と感じている役者の認知活動と、そのインタラクションを選んだわけです。役者は即興をやっているときに、相手とインタラクションしながら、さまざまに考えや行動を修正する。たとえば、私たちは先のことを「こうなるだろう」って予想するけど、でもその推測が違うと気がつくと、即座に修正して別の予測を立て、そして相手がどう反応するかを見る。そういうメカニズムを調べるのが面白いんじゃないかなと。世界でそこを見ている人は誰もいないし。ゼミで発表したり、先生や先輩につっこまれながら、だんだんに研究範囲を狭めてたどり着いたんです。それでも修士論文の発表では広いと言われますけど。
東大の認知科学会で演劇をやっていると伝えると、みんなが面白がってくれる
ーー改めて佐々木先生、岡田先生との出会いが大きかったですなあ。
絹川 本当にその通り。感謝しても感謝しきれません。博士課程に進学するに伴って、身体科学を研究していらっしゃる工藤和俊先生の研究室にお世話になっています。主にスポーツや音楽を研究している院生が多く、中にはジャグリングやドラムの研究をしている人もいます。
それにしてもまさか自分が東大に行くなんてね。東大の赤門をくぐったとき足が震えたもん。いまだに実感がない。両親に「東大に入った」と言ったら「は?」って(笑)。それにしても外で見る東大と中で見る東大は全然違っています。外から見る東大のイメージは、私の場合、ハリーポッターに出てくるような先生と、黒縁メガネの笑わない学生だったけど、もう全然違ってた(笑)。物事をとことん面白がり突き詰めたいという好奇心にあふれた人たちばかり。演劇にも興味を持ってくださる学生さんや先生もいっぱいいる。
たとえば私は今認知科学会に入っているんですが、その中で「演劇やってます」というと、大概の先生が「面白いねえ」と言ってくださる。演技や演劇はすごく面白いテーマらしく、私たち演劇人にとっては当たり前と思っていることでも、すごく面白がってくれる。「先生、それって演劇で言うとスタニスラフスキーのメソッドそのものです」と伝えると、「演技ってそういうことなんだ!」って、まったく違う研究をしている先生とも気が合ったりする。平田オリザさんが「研究者よりも実践者のほうが、すでに知っていることが多い」というような発言をどこかでされていらっしゃったけど、まったく同感。うまく言葉にできなくても、実践者はすでに驚くほどたくさんのことを身体的に知っている。だから演劇人もこういうところに入ってくると、すごく面白がられると思うなぁ。
東京大学駒場キャンパスにてインプロの実験中
ーーはい、はい、はい。
絹川 役者がやっているいろんな作業って、実はすごく面白くて高度なことだと思うんです。どう人に伝えるか、どう表現するか、逆にどう表現しないかを、役者は意図的にやるじゃないですか。チャーミングで生き生きと舞台に立っている役者さんは、誰にも言わないし自慢もしないけど、技術的にはとても巧妙に呼吸や身体をコントロールして、観客の注目を集めたり、ドキドキさせたりしている。もしかしたら演出家からの指示かもしれない。でも舞台の幕が開いたら、演出家が役者をコントロールすることはできないじゃないですか。演技の遂行はすべて役者の自主的な判断で行われます。役者は演技をしながら、同時に観客の息遣いだって感じている。舞台の幕の後ろにいる舞台監督さんが、ちょっと立てた足音だって聞こえている。それって生物が持つものすごい高度な力。そしてこれらのスキルは、日常の人間の生活にとても役立つはずなんです。みんな日々パフォーマンスしているようなものなのですから。もしこういう技術をビジネスマンが知っていたら、プレゼンとかに有効でしょうね。ビジネスマンはあまり演劇を見にいかないし、演劇人はビジネスの領域に入っていかないけれど。また日本人は表情が乏しいと言われているので、演劇をやっている人たちの表情豊かさの仕組みを解明すれば、それは一般の人にも役立つかもしれない。ロボット開発にも必要な知見です。人工知能がどう人間とコミュニケートしていくかというような課題についても、もしかしたら役者さんがやっているようなことがすごく役立つかもしれない。でもそもそも演劇のことをわかっている研究者は少ないから、演劇を活用できていないんじゃないかな。ほとんどの研究者は演劇を外側から見ているだけ。だから「演じる=仮面をかぶる/違う人になる」とか思っている人も少なくない。演技って本当は逆ですよね。違う人になるなんてことはなくて、むしろすべては自分から出てくるもの。どのようにデザインするかだと思うんです。おこがましいですが、私は演劇と社会の橋渡しができるといいなと思います。
オックスフォード大学にて研究発表
オックスフォード大学にて研究発表
ーーすごい話になってきました!
絹川 即興に留まらず、演劇・演技の普遍的なすごさを、もう少し一般の方々にもわかりやすく伝えたいなぁ〜。たとえば小中高校で学芸会や演劇を鑑賞する機会がどんどん減っているそうですね。ダンスは教科に入っているけど、演劇は入っていません。これは演劇の良さが知られていないからではないでしょうか。良い演劇を見れば、それがどんなに良いかわかるはずだと思いますが、良し悪しの判断を数字でしかできないとすれば演劇は不利。でも教育的効果があるとわかれば教科に入れるでしょう。そういうところに少しでも貢献できればいいなぁ。あと最近は、自分の即興演劇経験を生かして社会につながるような活動をしたいと考えて、「日本的Wellbeingを促進する情報技術のためのガイドラインの策定と普及」という研究プロジェクトのお手伝いをしています。
数値的に見ても、即興演劇の方が、生き生きとした役者の臨場感が伝わる
ーーものすごく夢も大きくなっているんじゃないですか? でも即興と演じることの関連性というのは同じ土壌では語られませんよね。即興はむしろ、台本作りの材料くらいになっている感じがします。
絹川 そうなんですよ! もちろん稽古中に、即興をやってみることは創作の手がかりになると思います。でもそれは作家のイマジネーション以上のことが起こりうるからであって、即興性の本質ではないと思うんです。演じることの中には必ず即興性があるのに、そういう観点ではあまり捉えられていませんね。そこに着目したのがスタニスラフスキーであり俳優・演出家のマイケル・チェーホフ(アントン・チェーホフの甥)だったのでは。そして私の勉強不足かもしれませんが、日本ではあまりそういうことに関しての言及がないように思います。台本のありきの演技に対して、即興性が過小評価されているような気がして、それも気になります。そこで修士論文では、台本演劇と即興演劇を比較しました。即興演劇を映像で記録して、せりふを文字起こしして、ほかの俳優に台本として覚えてもらって演じていただきました。両者はせりふは同じだけれど、俳優の内面の動きはずいぶんと違うのです。データをもとにいろんな分析をしたんですけど、結果は、観客の印象が異なりました。即興演劇の方が自由奔放、にぎやか、陽気という因子が出てた。つまり俳優の生き生きした感じが伝わる。臨場感ね。台本がある演劇の方は安定感がある、せりふがよく聞こえる、ストーリーがわかるという印象が多かった。つまり作品性は伝わるけれど、俳優の生き生きした感じは伝わりづらい。面白かったのは、即興演劇をやっている人たちは、注意の意識があちこちに早く動くんです。相手のことを推測して、自分でアイデアを考えて、言葉、ストーリー、お客さんの様子、相手の様子とか、いろんな意識に気を配っている。だけど台本の役者は3つしか移動がなかった。自分の演技プラン、相手、そしてお客さん。当たり前のように思えるかもしれませんが、即興だと意識がいろいろを動かざるを得なくなるために、生き生きしているように見える。逆に決まった台本があると、決まったこととの食い違いがあまり起こらないので、周囲へのアンテナが緩く、ビビッとな反応が鈍くなる。それを今回は数値で出してみました。
ーー逆に台本の演劇にも、何か一つの回路が入ってくると役者が生き生きしてくるということですね。
絹川 その通りです! たとえばロミオやジュリエットは、自分たちの人生を今生きている。生きているということは即興状態なわけですよね。彼らのせりふは、彼らにとってはせりふじゃなくて、今しゃべっている生の言葉なはずです。だから役者は、本当はそういうふうに演じるべきかもしれません。だけど台本ありきでこれから起こることをすでに知ってしまっていると、どうしても、架空の物語としての即興性を生じさせることが難しくなる。これはさまざまな演技メソッドが考えてきた問題でもありますね。
ーーそれはわかるけどすごく難しい。
絹川 でもうまいと言われる役者さんはやれていますよ。そういう役者さんをいつかインタビューしたいんです。映像を見ながら、このとき何を考えていたのか、その状況を聞きたい。役者は感覚でやっているから、そこを言葉にするのは難しいのかもしれないけど、ものすごい認知活動をしているに違いありません。そこをうまく抽出できたらいいんだけど。そしたらそのための訓練方法も考えられるかもしれないし、役者のレベルも上がるかもしれないし、最終的には人びとの役に立つ。ただね、これは研究をしている人間が言っちゃダメなのかもしれないんだけど、こういう秘技みたいなことを言葉にしてしまうのは、なんだか野暮なような気もします。実践者は理論なんかなくても素晴らしい演技や作品が創れるもの。もしかしたら、研究者はそういうジレンマをいつも抱えているのかもしれません(笑)。
《絹川友梨》東京大学大学院学際情報学府博士課程所属。オークランド大学大学院修士課程修了(首席)。玉川大学教育学部教育学科卒業。大学時代より演劇を始める。1994年に即興演劇に出会い、インプロ・ワークスを設立(2009年法人化)。ニュージーランドと日本を拠点に即興演劇(インプロ)をキーワードに活動している。ニュージーランドでの劇団名はNeko Theatre Company。国際的インプロバイザーとして、国内はもちろんのこと、アメリカ・ヨーロッパ・オセアニアなどでも活動を展開。1996年に主演映画「Memory and Desire」(日本未公開)で、ストックホルム国際映画祭主演女優賞/ニュージーランド・ベスト外国人パフォーマー賞を受賞。玉川大学、桜美林大学、日本大学、上野学園大学非常勤講師、東京都市大学特別研究員。
取材・文:いまいこういち