アリス=紗良・オット(ピアノ)が語る、自身初となるフランス作品で挑む日本ツアー
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アリス=紗良・オット
世界のクラシックシーンの最前線で活躍するピアニスト、アリス=紗良・オット。難曲をものともしない卓越した技巧と、生き生きとしたピアニズムが持ち味だが、近年では、曲の内面性や深みに迫る演奏で聴くものを魅了している。折しも今年は、彼女がドイツ・グラモフォンと専属契約を結んで10年目の節目。8月にはドビュッシー、サティ、ラヴェルを収めた新アルバムをリリースし、翌9月には2年ぶりとなるリサイタル・ツアー(全国9カ所)を控えるなど、10周年を記念する特別な一年になるだろう。
今回のアルバムは、ナイトフォールと名付けられた。日没後に訪れる美しく、神秘的なひと時をどう描いていくのだろう。飾らない人柄で、ウィスキーのコレクションが趣味という彼女は、インタビュー冒頭、来日して早速、希少な「響30年」を味わったと教えてくれた。ウィスキーと音楽には、時間をかけて香りと味の変化を楽しむという共通点があるそうだ。この10年間は、彼女の演奏にどういった変化を与えてきたのだろうか。今回のツアー、そしてフランス作品に寄せる想いと10年間の軌跡を訊いた。
光と闇に向き合う旅に
ーー今回、フランス作品に取り組もうと思われた経緯を教えてください。
長らく、フランスの作品を集めたアルバムを作りたいという想いがありました。当初は「パリ」というコンセプトを考えていたのですが、自分が弾きたい曲を集めたら、そういうムードじゃなかった。色々と考えて、「ナイトフォール」がぴったりだと思ったのです。
ーー「ナイトフォール」というアルバム・タイトルには、どんな想いを込めたのでしょうか。
ナイトフォールは、日の入り直後、光と闇の世界がぶつかり合う魔法の時間。黒と白が様々な程度で交じり合い、グラデーションが生まれ、色彩感や陰影も美しい。ほんのわずかな時間ですが、光と闇を引き離している線がだんだんとなくなっていき、神秘的な雰囲気が漂います。今回お届けする作品の一つひとつに、ナイトフォールを感じさせるストーリーがあると感じています。
アリス=紗良・オット
ーーまず、ドビュッシー≪ベルガマスク組曲≫のストーリーについて教えてください。
≪ベルガマスク組曲≫のなかでも第3曲<月の光>は有名な作品です。この曲は、フランスの詩人ヴェルレーヌによる同名の詩にインスピレーションを受けて書かれました。ヴェルレーヌの詩には、仮面をかぶって人生の歓びや幸せを歌いつつも、仮面の下では、それを信じずに、疑っている人々が登場します。<月の光>は、昔から美しくロマンチックな曲と言われてきましたが、実は人間の中にある葛藤や二面性を詠っていることを知り、なるほどと思いました。
ーーラヴェル≪夜のガスパール≫には、夢幻的な世界観が表れていますね。
この曲も、ルイ・ベルトランの詩集『夜のガスパール』を題材としています。主人公が公園で或る男と出逢い、詩集『夜のガスパール』を託される。そして、実はその男が悪魔であることが分かるという物語です。人間がもつ、恐怖や不安といった闇の部分が表現されている曲だと思いました。
ーーサティにも、そうしたストーリーがあるのでしょうか?!
サティはサティで面白い! 構造的にはシンプルで、メロディーもハーモニーも繰り返し。しかし、楽譜には奇妙な指示がいっぱいなんです。例えば、「頭を開いて」とか、「音を埋めて」とか!あたかも、ピンク・フロイドの歌詞を聴いているかのようです(笑)。サティの作品の難しいところは、作曲家の指示をどう読み取り、ストーリーを成立させていくかだと思います。
ーーリサイタルでは、さらにショパンのノクターンから3曲とバラード第1番が披露される予定ですね。
今回演奏するフランス作品のもっている、しっとりしたムードに合うものを選曲しました。ショパンは、パリで活動し、パリで亡くなっています。そういった意味でも、ドビュッシーやラヴェル、サティとの共通点があるんです。
ーー作品の演奏順はどのように決めたのですか。
日没から夜明けまでの経過を意識して並べました。≪ベルガマスク組曲≫で日が落ち、徐々に暗闇へと沈んでいきます。そして、≪夜のガスパール≫で、夜が明けます。
ーー夜は、内面的なものと向き合うのにふさわしい時間だと思います。今回のリサイタルでは、そういった経験ができるかも知れませんね。
誰でも、夜には色々と悩んだり、考えたりしますよね。今回のリサイタルは、人生の光の部分と影の部分という二つの世界に向き合っていく旅になると思います。私は、人間にも「ナイトフォール」が存在すると思っているんです。光と闇という対照的なものが溶け合っていくような経験。誰しも、境がなくなって、混ざってしまうような時があると思います。聴いてくださる皆さんが、私と全く同じ気持ちになるとは限りませんが、どこか共感していただければ嬉しいですね。
アリス=紗良・オット
メジャー・デビューからの10年間を振り返って
ーーこれまでの10年間で経験されたコンサートや録音。その一つひとつにエピソードや想い出があると思います。その中で、幸せだったことや、苦労されたことを教えていただけますか。
幸せな時間が多く、苦労というのは、殆どなかったと感じています。「苦労」というのは、自分で決めることですからね。勿論、この10年の間に、日本の祖父母が他界して、壁にぶち当たったり、転んだりしました。でも、そこからどうやって立ち上がり、乗り越えていくのかは、とても貴重な経験でした。好みや味覚が変わるように、こうして物の捉え方、考え方も変わってきました。
ーーどのような点で変化を感じているのでしょうか。
舞台の上が最も自分が自由でいられる場所であり、音楽がアイデンティティをとなっていることは、小さい頃からずっと変わっていません。
一方で、音楽の好みは変わってきました。20歳の頃に、リストの≪超絶技巧練習曲≫をやって良かったと思います。当時は、アンコールでも速い調子の曲を演奏することが好きでした。最近は、落ち着いた雰囲気の作品が多くなりましたね。また、今は、選曲にもコンセプトや赤い糸があることを大事にしています。もしかしたら30年後は、ハッピーな曲ばかり弾いているかもしれない(笑)。人生、その時々で見えてくる景色が違うと思います。
ーー世界を飛び回る多忙な演奏活動の中で、どのようにリフレッシュされているのでしょうか。
何よりのエネルギー源は、家族や友だちと会話をすること。料理をするのも好きです。ヨーロッパで「日本料理」と言えば、お寿司がメインですが、色々な家庭料理があることを知って欲しいですね。よくディナーパーティーを開きますが、だし巻き卵や肉じゃが、コロッケを作ります。角煮は毎回好評。2日間も煮込んで作るんですよ。
ーー演奏曲だけではなく、お料理のレパートリーも広そうですね。
実は、自分で作るのは、好きなものばかりです。ラーメンみたいに麺自体に味がついていないものや、パプリカ、ニンジン、コーン、かぼちゃのような甘い野菜も苦手。小さい頃から、何事に対しても好き嫌いがハッキリしていたんです。
母がずっと日本食を作ってくれ、小さい頃は日本の祖母もよくドイツに来て、料理を作ってくれました。祖母の味は、昭和の味。砂糖を全然使わない。沢庵もきんぴらごぼうも、今、スーパーで買えるのは砂糖が入っていて甘いですよね。私は、母と祖母の味を受け継いで作っています。
ーーこの先の10年でやってみたいことなどの展望をお聞かせください。
演奏したい作品やオーケストラ、指揮者は山ほどあります。でも、何よりも自分が幸せな人間だと言い切って40歳を迎えたいと思っています。自分が幸せじゃないと、周りの人を幸せにはできないですから。そのためには、常に自分を磨いていくことが大切。そして、日々変わりゆく中で、自分自身を知っていくことが大事だと感じています。
ーー最後に、リサイタルを楽しみにされている読者の皆さんに、一言、お願いします。
ドビュッシー、サティ、ラヴェル、そしてショパンの作品を通じて、皆さんと光と闇の世界に向き合う旅を探っていきたいと思っています。ちょっと心の覚悟は必要かもしれませんが、怖がらずに、足を運んでいただければ嬉しいですね。
アリス=紗良・オット
取材・文=大野 はな恵 撮影=岡崎 雄昌
リリース情報
発売日:2018年8月24日
ドビュッシー: 夢想、ベルガマスク組曲(前奏曲/メヌエット/月の光/パスピエ)
サティ: グノシエンヌ第 1 番、ジムノペディ第 1 番、グノシエンヌ第 3 番
ラヴェル: 夜のガスパール(オンディーヌ/絞首台/スカルボ)、亡き王女のためのパヴァーヌ
録音:2018 年3月 ベルリン
[限定盤] SHM-CD+ボーナス DVD: UCCG-90807 \3,780 (tax in)