シンセ番長・齋藤久師が送る愛と狂気の大人気コラム第三十九沼(だいさんじゅうきゅうしょう) 『齋藤久師・沼!』後編

2019.1.21
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welcome to THE沼!」

沼。

皆さんはこの言葉にどのようなイメージをお持ちだろうか?

私の中の沼といえば、足を取られたら、底なしの泥の深みへゆっくりとゆっくりと引きずり込まれ、抵抗すればするほど強く深くなすすべもなく、息をしたまま意識を抹消されるという恐怖のイメージだ。

一方、ある物事に心奪われ、取り憑かれたようにはまり込み、その世界にどっぷりと溺れること

という言葉で比喩される。

底なしの「収集」が愛と快感というある種の麻痺を伴い増幅する。

これは病か苦行か、あるいは究極の癒しなのか。

毒のスパイスをたっぷり含んだあらゆる世界の「沼」をご紹介しよう。

 

第三十九沼(だい39しょう)『齋藤久師・沼!』後編

自分の半生を振り返ると色々なことが思い出される。

前編を書きながらM子のことを思い出していると、実に色々な人にその頃に会ったという記憶が蘇ってきた。

 

モデルやりながらの音楽活動

代官山スタジオに行くと、既に撮影の準備が整っていた。

そして、両手に髭剃りとムースを持ったM子とアシスタントが僕を待ち構えていた。

僕は2人の女にシャワールームに強制連行され、二人掛かりでおもむろに両脚のすね毛を剃り落とされた。

剃毛(ていもう)だ。

 

「ツルっとしてた方が今日のテーマに合うからね」と剃り終わったM子が満足気に言った。

ボクは肩をすくめてみせたが、なにげにツルツルの自分の足が気に入ったのだ。

以後、ホットパンツにつるつる脚というスタイルが定着した。

 

そして、毎号CUTIEに登場するようになった僕は経済的には安定したものの、モデル業はその殆どが親からの資質、つまりDNAであり、音楽活動とは明らかにクリエイティヴィティーに欠けていると常々思っていた。

 

故に僕はモデルをやりながらDJやバンド活動、そして吉祥寺の伝説の店「33」でも働いた。

この店にはとにかく沢山の面白い人達が集まった。

サトシトミイエさん、石野卓球、Q'heyくん、YO-Cなど数え挙げたらキリがない。

ある日、廃墟になった中華料理屋を占拠してウェアハウスパーティーを行なった。
中華料理屋にサウンドシステムを入れ、お客さんは4~500人も入り会場はパンク状態であった。

レコード会社との契約

その廃墟の中華料理屋のパーティーにはVictorの偉い人が見に来ていた。

「君達面白いね。ウチと契約しないかい?」

「ランボルギーニカウンタックが買えるなら良いですよ。それと、僕らの作るトラックはインスト、そしてジャケに顔を出さないなら」

という事で契約が成立した。

若いって勢いがあるな、完全に大人をなめているw。

その頃GOLDやcaveに入り浸っていた僕らのサウンドは、もちろんテクノ。

いわゆるテクノポップではないテクノだった。

レコーディングは青山のビクタースタジオと、山中湖にあったビクタースタジオで行なった。

ディレクターは少しでもキャッチーにしたい。僕達は限りなくアンダーグラウンドにしたい。

両者ともせめぎ合いだった。

 

メジャー後、初ライブとなったのが渋谷ON AIRだったかな。

2000人も入って僕らはビックリした。

コレがメジャーの宣伝力なんだと。

アルバムを数枚出したが、やはり僕らの思ったような活動とは程遠い仕事の数々に嫌気がさしていた。

つまり、アイドルにさせられそうになっていたのだ。

僕ならリスナーとして、モデルが作る音楽作品とか絶対自分からは聴かないと思う。

でも、気がついたら自分はそういう売り出し方をされていて怒りに燃えていた。

そこで僕は益々反抗的に、「レイプマン」という別名ユニットでアナログレコードをアンダーグラウンドレーベルらリリースしまくった。

 

覚悟を決める決断

大手レコード会社に絶望感を抱いた僕達は自らレコード会社と事務所を離れる決断をした。

ランボルギーニカウンタックも買えなかった。

 

その頃、DOMMUNE宇川くんに出会った。

今から30年近く前の話しだ。

 

僕には師匠が居ない。

その代わり、まわりの仲間が全て師匠だった。

 

色々な人がいた。

本当に優しい人、態度ばっかりでかい人、こういう人になりたい、こういう人にはなりたくない・・・。

何を成功と呼ぶのかは別として、なにかをやりきっている人は本当に腰が低くて、誰にでも分け隔てなく接している。

僕の10も上の先輩が、20も上の先輩が、とても丁寧に接してくれるのだ。

亡くなった冨田勲先生はその代表で、本当に優しく、常に何か新しいことをやろうとしている方だった。

 

この世には純粋に

「音楽を作り、みんなで分かち合おう」とする人々と、

「政治をつかってろくに音も作らずなんとか金と地位を守ろうと必死になってしがみついている人間」

の2通りあるということ痛いほど見てきた。

 

僕は守りに入ろうとしていた自分を健全にもどそうと、一念発起し前者のポジションに戻ることができた。

するとどうしたことか、そんな素敵な人々ばかりが寄ってくるようになった。

 

さすがに若い頃のように台所でシャワーを浴びたり、落ちているタバコを吸ったり、あるいはチェルノブイリ放射能がたっぷり詰まった20Kg1000円のパスタを食うほどの貧乏でなければいいと思っている。

家族が健康で食っていければそれだけで幸せだ。

 

50歳をすぎて何も変わっていないと思っていたけど、すこしだけ成長する事ができた、とも思う。

 

変わったところと言えば、腹が出た事と、用心深くなってしまったこと。

この2点は本当にいらない。はやくデリートしなきゃね。

 

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