葛飾北斎の《冨嶽三十六景》全46図と、北斎に対抗心を燃やした歌川広重の名品が集結 『冨嶽三十六景への挑戦』内覧会レポート
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特別展『冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重』
4月24日(土)から6月20日(日)まで、江戸東京博物館にて特別展『冨嶽三十六景への挑戦 北斎と広重』が開催される。本展では、葛飾北斎の代表作《冨嶽三十六景》が展示替えなしで全て公開されるほか、浮世絵の風景画において北斎と双璧をなす歌川広重の作品を鑑賞することができる。以下、二人の巨匠の名品の数々をたっぷり堪能できる本展の見どころを紹介しよう。
※新型コロナウイルス感染症の感染拡大を防止する観点から、2021年4月25日(日)より本展覧会を休止しております。
展覧会場の入口。深川万年橋をくぐって進むと、名品がずらりと並んでいる。
広重が10歳のときに描いた絵や、北斎若かりし頃の作品も紹介
二人の絵師が巨匠となる過程を知る
本展では、北斎や広重が若い頃に描いた絵や、代表作を世に出す前の作品をふんだんに見ることができる。展示の最初にある《三保松原図》は、広重こと安藤徳太郎が10歳のときに描いた貴重な絵だ。絵は墨一色で素朴ながら味があり、広重が幼少期から絵が上手であったことを示している。また、安藤家(広重の本名は安藤重右衛門であったと言われている)に残された由緒書《安藤家由緒書(控)・(下書)》も貴重な資料として展示されている。
左:《三保松原図》安藤徳太郎(歌川広重)筆 文化3年(1806年) 右:《安藤家由緒書(控)・(下書)》安藤勝蔵 記 慶応2年(1866年) いずれも東京都江戸東京博物館蔵
左:《安藤家由緒書(控)・(下書)》安藤勝蔵 記 慶応2年(1866年) 右:《安藤家親類書》安藤勝蔵 記 慶応2年(1866年)
北斎は、浮世絵師・勝川春章に19歳で弟子入りし、ここであらゆる画法を学ぶ。30代半ばで勝川派を離脱すると “宗理” と名乗り、それまでの琳派とは異なる独自の「宗理様式」を完成させ、その後《北斎漫画》や《冨嶽三十六景》を発表する。本展では “葛飾北斎” と名乗り手がけた代表作はもちろん、20~30代の作品も見ることができる。
左より:《年礼(寛政9年大小暦・狂歌摺物)》寛政9年(1797年)、《鼠と弁天と猿(寛政9年絵暦・日の干支)》寛政9年(1797年)、 《潮干狩り寛政9年大小暦)》寛政9年(1797年) いずれも葛飾北斎 画 東京都江戸東京博物館蔵
《冨嶽三十六景》46図が集結
北斎が「神奈川沖浪裏」に至るまでの波の表現の遍歴が分かる
第2章では、北斎の代表作とも言うべき《冨嶽三十六景》が一堂に会する。《冨嶽三十六景》は各地から見える富士山を描いた風景画で、もともとはその名のとおり36の摺物だったのだが、好評だったために10図追加されたと言われており、この章ではその46図がずらりと並ぶ。全てを展示するのは江戸東京博物館でも8年ぶりになるとのことだ。
左より:《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》天保2〜4年(1831〜33年頃)、《冨嶽三十六景 凱風快晴》天保2〜4年(1831〜33年頃)、 《冨嶽三十六景 山下白雨》天保2〜4年(1831〜33年頃)、《冨嶽三十六景 深川万年橋下》天保2〜4年(1831〜33年頃) いずれも葛飾北斎 画 東京都江戸東京博物館蔵
《冨嶽三十六景》を制作する頃、北斎は齢70歳に達しているが、その絵の超絶した筆力に息を呑む。第2章冒頭では有名な「神奈川沖浪裏」「凱風快晴」「山下白雨」が並んでおり、北斎の構図の妙を実感できるだろう。その他にも「深川万年橋下」「尾州不二見原」などの名品が集結している様は圧巻だ。
《冨嶽三十六景》は世界中に30数セット存在するそうだが、江戸東京博物館が所蔵している作品は、発色が良く非常に鮮やかだ。絵具をつけずに摺ることで凹凸を出す「空摺(からずり)」という技法もはっきりと見えるので、隅々まで鑑賞してほしい。
会場風景 第2章 葛飾北斎「冨嶽三十六景」の世界
絵の中でとりわけ目に入るのは鮮やかな藍色だ。そもそも《冨嶽三十六景》は当初、藍一色で摺られていたが、のちに他の色を入れるようになり、現在広く知られる形になったという。鮮烈な青は「ベロ藍」(プルシアン・ブルーともいう)と呼ばれた青色顔料で、ドイツのベルリンの染色・塗料職人が発見したもの。ベロ藍は北斎だけでなく広重の絵にも多用され、《東海道五拾三次》など情緒あふれる風景画に欠かせない色味になった。北斎のベロ藍は人気となり、広重も作品に取り入れていったものと思われる。
左:《東海道五拾三次之内 吉原 左冨士》天保5〜7年(1834〜36年頃)、 右:《東海道五拾三次之内 原 朝之冨士》天保5〜7年(1834〜36年頃) いずれも歌川広重 画 東京都江戸東京博物館蔵
また本展では《鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 後編巻之1》の高い波や、《北斎漫画 2編》の「寄浪」「引浪」で寄せる波と引く波の2種類の波など、北斎が生涯テーマにした “波” の描写の変化を確認できる。北斎が青年期や中年期に描いた波を見た後で「神奈川沖浪裏」の荒ぶる波濤を見ると、その比類のない迫力と臨場感は、数十年の飽くなき挑戦があって獲得されたことが想像できる。
左:《鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 後編巻之1》文化5年(1808年)、 右:《鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月 前編巻之3》文化5年(1808年) いずれも葛飾北斎 画 東京都江戸東京博物館蔵
左:《北斎漫画 2編》文化12年(1815年)、 右:《北斎漫画 初編》文化12年(1815年)、いずれも葛飾北斎 画 東京都江戸東京博物館蔵
北斎を意識した広重
作品への影響と二人の関係性
大正期に書かれた広重研究の本によれば、広重は北斎の画室を訪問したことがあるという。しかし北斎の態度は傲慢で、家は不潔であったために、広重のほうが嫌気がさしたとのことだ。本展では北斎の画室模型が展示されており、掻巻(かいまき)を着こんだ北斎が、娘のお栄と二人、竹の皮包みなどで散らかった部屋で、絵に没頭している姿を見ることができる。
北斎の画室模型(縮尺:1/5)復元年代 1842年頃
展覧会場の入口にある深川万年橋は、北斎の《冨嶽三十六景》ばかりではなく、広重の《名所江戸百景》でも登場する。北斎が橋の下から富士山を描いたのに対し、広重は手桶に吊るされた亀が富士山を見下ろす形で描いている。
左:《名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社》1857年、 右:《名所江戸百景 深川万年橋》1857年 いずれも歌川広重 画 東京都江戸東京博物館蔵
北斎亡き後、広重は富士山の入る風景画《不二三十六景》《富士三十六景》を制作した。また、富士山を描いた絵本《富士見百図》(広重の急逝により未完)を制作しており、序文には、北斎は構図や取り合わせを重視したが、自分(広重)は眺望したものをそのまま写し取ったという趣旨のことを書いている。そこには北斎への対抗心が感じられるとともに、本展ではその違いをぜひ感じてほしい。
左:《富士見百図》1859年、 右:《名所江戸百景 市中繁栄七夕祭》1857年 いずれも歌川広重 画 東京都江戸東京博物館蔵
北斎の展示は定期的に行われており、その際にはしばしば《冨嶽三十六景》が登場するが、状態のよい絵が46図全て揃う機会はなかなかない。また本展は日本語と英語に対応したバーチャルツアーも公開されており、オンライン限定の解説コンテンツも随時追加されるという。是非見逃さずに鑑賞いただきたい。
文・写真=中野昭子