【レビュー】「音楽と和平」という優等生的な枠組みを超えて――映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』1/28(金)全国公開
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
現代クラシック音楽界を代表する巨匠指揮者ダニエル・バレンボイム率いる「ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団」にインスパイアされた映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(原題:CRESCENDO #makemusicnotwar)が2022年1月28日(金)より全国公開となる。
ヨーロッパからアメリカまで様々な地域の国際映画祭で上映され、4つの観客賞に輝いた本作。脚本・監督はイスラエル・テルアビブ出身でヒューマンドラマの名手として知られるドロール・ザハヴィ。『ありがとう、トニ・エルドマン』(2016)で絶賛されたペーター・シモニシェックが若者たちを導くマエストロを演じる。SPICEでは、音楽ライター・朝岡久美子氏による本作レビューをお届けする。(SPICE編集部)*一部ネタバレを含みます。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
「音楽は心のワクチン」という名言も生まれたコロナ禍のこの数年、実際に「音楽によって救われた……」という声をよく耳にしてきた。確かに、音楽は日々の生活のなかで黙々と困難と立ち向かっている時、大きな心の支えになってくれる。それが、クラシックであれ、ロックであれ、演歌であれ、どんな時も人々の感情に寄り添ってくれるのだ。
このコロナ禍において、音楽と社会をテーマにした新たな映画作品が2022年1月28日(金)から全国で公開される。『クレッシェンド 音楽の架け橋』は、政治的対立を余儀なくされてきたイスラエル人とパレスチナ人の若き音楽家の卵たちが、ともに一つのオーケストラを結成し、演奏会実現を目指して日々、寝食をともにしながら、対立・友情・愛などの様々な感情や葛藤と対峙してゆく様を描きだしたストーリーだ。
この作品は、1999年に世界的指揮者のダニエル・バレンボイムとパレスチナ系米文学者のエドワード・サイードの提唱により「共存への架け橋」を理念に結成されたイスラエル人とパレスチナ人双方の演奏家たちが集うオーケストラ「ウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団」の存在から着想を得たと言われる。しかし、ストーリー運びはまったく別物のフィクション作品と捉えたほうがよいだろう。本作品で重要な役割を果たすマエストロ役は、指揮者バレンボイムがモデルとなっているに違いないが、(マエストロ役の)出自もユダヤ系のバレンボイムのそれとは明らかに違い、ナチスの大量虐殺を首謀したドイツ人医師の息子という設定になっている。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
以下、作品のあらすじをさわりだけ紹介する。
ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区に住む二人の音楽家の卵、ヴァイオリン奏者のレイラとクラリネット奏者のオマール。ドイツのある財団によってパレスチナ人とイスラエル人による ‟和平的な” 混成オーケストラが結成されるという知らせに、二人はオーディションが行われるイスラエルの首都テル・アヴィヴへと向かう決意を固める。道中の検問所通過にも決死の覚悟が強いられる二人。必死の思いでたどり着いたオーディション会場で出会ったのは、裕福に育ち、エリート教育を受けてきた同年代のイスラエル人奏者たちだった。
育った境遇の違いゆえに両者の間には歴然とした実力の差があった。しかし、音楽家としてパレスチナから世界に羽ばたくことを切に夢見るレイラとオマールには、人種間の軋轢や経済格差を越えてなお、人々の心に寄り添う美しい音楽を奏でることへの情熱にあふれていた。
日々のリハーサルでは、演奏上の問題のみならず、様々な事柄においてつねにメンバー間で対立感情が火花を散らしていた。そんな彼らを見守るドイツ人のマエストロ スポルクは、ある日、自らが幼少期の数年を過ごした南チロルのアルプスでの合宿を提案する。もちろん、音楽練習のための強化合宿ではあるが、マエストロ自らによって、あらゆる対立感情からメンバーたちを開放するための特殊なグループセラピーの数々も試みられてゆくのだった。そして、日々、全員で向き合う濃密な対話の中で、意外にもマエストロ自身の苦悩の過去も解き明かされてゆくのだった―――。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
パレスチナの若者、イスラエルの若者、そして、マエストロと、三者三様のストーリーがうごめく中で、一人ひとりが自らの感情に抗いながらも、若き情熱と真摯な思いをぶつけ対話を重ねることによって、次第に二つの対立する地域に育った奏者たちのオーケストラは一つのチームへと生まれ変わってゆく。そこには、もはや ‟音楽” や ‟オーケストラ” というテーマよりも、誰しもが共感を覚え、視聴者として、一人の人間として、のめり込まずにはいられない普遍的なヒューマンドラマがある。
そんな人間ドラマを彩るのは、みずみずしいまでの若き心の葛藤、優柔、そして、恋……。そして静謐な自然の中に陰翳の美しさが際立つ数々の情景。そして、その場面に寄り添うドヴォルザークやヴィヴァルディのロマンティックで典雅な調べだ。マエストロ役を演じる名優ペーター・シモニシェックの存在感がこのヒューマンドラマによりいっそう深みを与えている点にも注目したい。オーストリア出身のこの俳優は、毎年ザルツブルク音楽祭のオープニングを飾る演劇作品『イエーダーマン』を長年にわたり演じ続けている押しも押されもせぬ国民的俳優だ。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
また、グループセラピーのシーンでは、ナチスの子孫とユダヤ人、同性愛者と同性愛を否定する人々など、敵対するグループ間を仲介するために用いられている既存の方法を参考にしたというのも、実にイスラエルの監督作品らしく斬新でユニークだ。
しかし、パレスチナとイスラエル双方のメンバーたちが、互いに理解を深めようとすればするほど、彼らを取りまく謎の存在たちによる不理解が描きだされる。残念なことに、最も身近なところにいる親たちが最も障壁となっているようにすら思えるのだ。対立の当事者たちに代々受け継がれた憎しみの呪縛は、寝食をともにし、心を合わせ音楽を奏で、語り、思いを新たに生まれ変わろうとする情熱と希望に満ちた若者たちでさえも抗えぬ悲しき宿命なのだ……。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
この作品が秀逸なのは、音楽というものの存在が、いわゆる「音楽はあらゆる言葉を越えて世界を一つにつなぐ」というような、ありきたりな存在として扱われているのではなく、あくまでも音楽という共通の理念と夢を持った若者たち一人ひとりが、自らのDNAに刻みこまれたイデオロギーに対して、自らの言葉で語りかけ、考え、赤裸々な心の声に耳を傾けるという辛辣なプロセスに向き合う姿を一貫して捉えていることだ。
音楽家という枠組みを超え、一人の社会的人間として、「人間同士の争い」や「民族間の闘い」という根本的な問題に取り組み、苦悩する若者たちの姿を真っ向から描き、抉(えぐ)りだす。その姿勢こそが、見る者一人ひとりに、「音楽と和平」という優等生的な枠組みを超え、「争い」という遥か昔から存在し、人間にとって最も普遍的で根本的な問題に立ち向かうことの難しさを、そして、それこそが、人類にとって抗うことのできない ‟性(さが)” であることを偽善なしに私たちにまざまざと見せつけてくれるのだ。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
それは現代において、決して中東だけの問題ではない。コロナ禍においてヒートアップしてしまった人種間の差別問題、国力を誇示する国家同士の闘いですら根本的に同じ原理なのだ。マエストロは、メンバーたちにつねにこう語りかける。「君たちの息子や孫たちの世代ではない、今、君たちがやらなければならないんだ。今こそチャンスをつかめ、立ち上がれ!」マエストロのこの言葉こそが、我々一人ひとりが和平を考えるためのきっかけとなるに違いない。分断の時代と言われる現在、一人ひとりが心の中にある憎しみと向かい合い、自らの、そして隣人の言葉に耳を傾け、心を伝え合うことの大切さ―――。そんな基本的なことのように思える行為の大切さを、この作品は今一度、私たちに教えてくれるのだ。
ラストシーンに描きだされたある音楽作品の「協奏」に込められたもの。それこそが、この作品に込められたメッセージなのだろう。水の輪が少しずつ少しずつ広がってゆくように、彼らの心は一つとなって大きくクレッシェンドしてゆく……。未来に羽ばたく音楽家たちに託された希望を私たちもまた強く心に刻むのだ。
映画『クレッシェンド 音楽の架け橋』(C)CCC Filmkunst GmbH
1月28日(金)公開「クレッシェンド 音楽の架け橋」【60秒予告】
文=朝岡久美子
上映情報
2022年1月28日(金)新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、シネ・リーブル池袋ほか全国公開
監督:ドロール・ザハヴィ
脚本:ヨハネス・ロッター、ドロール・ザハヴィ
出演:
ダニエル・ドンスコイ (「ザ・クラウン」「女王ヴィクトリア 愛に生きる」)
サブリナ・アマーリ